2025-05-28

第4章 貨幣の資本への転化 
第1節 資本の一般的定式     

 

● 2章「交換過程」において、まずは商品の交換過程における矛盾が明らかにされ、その矛盾を解決するために必然的に貨幣が生み出されることを見た。この4章では、3章第3節で検討された「貨幣としての貨幣」が、資本の最初の現象形態であることが明らかにされ、資本の一般的定式が与えられる。さらにその一般的定式の矛盾が指摘され、その解決のためには、単純流通から資本の生産過程への移行が必然であることが明らかにされる。

※ 前章では商品の流通過程を形態の面から考察して、最後に貨幣としての貨幣に到達したのであるが、これは同時に、いよいよこれから考察される資本の最初の現象形態である。歴史上では、発達した商品流通である商業を前提として、資本はどこでも貨幣の形で現われて商人資(金貸資本をも含めてのとして土地所有に対立する。しかし、歴史をさかのぼるまでもなく、新たな資本は最初はつねに貨幣の姿で現われ、それからいくつかの過程を経て再び貨幣の姿で帰ってくる。だから、資本は、貨幣を出発点とするG-W-(買って売るという流通形式によって、商品流通の形式W-G-Wにおける貨幣とは区別されるのである。;岡崎次『資本論入門81

 

1.商品生産と商業は資本が成立するための歴史的前提であり、商品流通が資本の出発点となる。

古代の商人資本や金貸し資本は、まだ資本主義的生産には繋がらなかった。資本主義的生産が歴史的に生まれるためには、そのための歴史的な条件が必要なのである[AN1] そうしたものは資本主義以前の諸社会のなかで育まれ、前資本主義的生産様式の崩壊の過程で準備されてきた[AN2] 16世紀の世界貿易と世界市場の発展が資本主義的生産のための原始的な蓄積を生み出した。[AN3] 

※ 〈資本は、販売のための生産と商業とがすでにある発展段階に到達したばあいに、はじめて現われる〉

※ 16世紀というのは、いわゆる大航海時代といわれる時代で、西欧世界では封建制度の末期、絶対王制の時代に該当します。その時代の世界貿易と世界市場の発展が、資本主義的生産のための原始的な蓄積を生み出したのです。

※ 商品流通がある程度発展しているところでは、すでに古代においても資本の一般的な形式が生まれていました。例えば商人資本や金貸し資本などです。彼らはGを流通させてそれをG+ΔGにすることを生業にしていました。しかしそのためには、商品生産とその流通のある程度の発展が必要だったのです。しかしこれらはまだ資本主義的生産とはいえません。しかし資本の一般的定式という点では、抽象的には言いうるのです。;大阪『資本論』学習資料No.25(通算第75回)2021.07.31

※ 資本主義は、それ以前の社会の中核をなしていた支配・従属関係を市場に置き換えることによって、成立したものである。この置き換えに伴って、富という概念に意味上の転換が起きる。すなわち、重商主義に至っても未だ残っていた権力という意味が完全に消え去り、社会の富は「巨大な商品の集まり」として「現れる」ようになる。;沖公祐『「富」なき時代の資本主義』59

※ 資本が社会の富として「現れる」ためには、社会の編成原理が旧来の支配・従属関係から市(交換に置き換えられ、商人が産業資本として社会の中心に位置づけられる必要がある。また、社会の富たる「巨大な」有機(怪物は、バラバラな個別資本の寄せ集めではなく、一箇の総体でなければならない。つまり、資本主義においては、社会的再生産を通じて個別諸資本は有機的に結びついた社会的総資本を構成することになるのである。;ibid62

※ マルクスはまず、封建制から資本主義への移行において、資本が土地所有の権力と歴史的にどのように対決したのかについて検討している。この移行において、商業資本〔商人資本〕と高利貸資本――資本の特殊な諸形態――が重要な歴史的役割を果たした。しかし資本のこれらの形態は、完全に発達した資本主義的生産様式の中心だとマルクスがみなす、資本の「近代的な」産業的形態とは異なっている。封建秩序の解体、土地所有の権力と封建的土地支配の解体は、主として商業資本と高利貸しの諸権力を通じて達成された。このテーマについては、『共産党宣言』でも力強く叙述されている。興味深いのは、歴史が『資本論』における論理的場所を担っていることであり、というのは、とりわけ高利貸資本のうちに見出されるのは、貨幣の独立した社会的権力、つまりマルクスが貨幣3の中で、資本主義的生産様式の内部で社会的に必要であることを示したあの独立した権力だからである。高利の貸付と高利貸しとが封建制を屈服させる一助となったのは、この独立した権力が展開されることによってなのである。;ハーヴェイ『〈『資本論』〉入門』137-138ページ

2.商品の流通過程が生み出す経済的な諸形態だけを考察するとき、この過程の最終的な産物は、貨幣である。

※ 流通の形態それ自体を考察してみれば、流通のなかで生成し、生み出されるものは、貨幣そのも貨幣としての貨幣であり、それ以上の何物でもない。諸商品は流通のなかで交換されるとはいえ、流通のなかで成立するわけではない。……流通は交換価値を創造しないし、またその大きさを創造しもしない(『資本論』草稿集③158頁)

そしてこの流通の形態が生み出した貨幣こそが資本の最初の現象形態なのである

※ 貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのだから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点としてあらわれる。W-G-Wではその実際の内容を形づくっているのは素材変換であるが、第二の過程G-W-Gの実際の内容を形づくっているのは、このはじめの過程からでてきた商品の形態定交換価値そのものである(『経済学批判岩波文庫158頁)

流通から生まれながら流通に入って行っても自己を失わない貨幣というのは、すでに単なる貨幣ではなく、資本としての貨幣なのである流通のなかで自己を維持し増殖する価値こそ資本そのものである。

※ 資本は、まず流通から、しかも資本の出発点である貨幣から生じる。すでに見たように、流通にはいりこむとともに、同時にまた流通から自分自身に立ちかえる貨幣は、貨幣がみずからを止揚する最後の形態である。この貨幣は同時に、資本の最初の概念でもあり、その最初の現象形態でもある。貨幣は、たんに流通のなかで消え去るものとしてのみずからを否定した。しかし貨幣はまた、自立的に流通に対抗するものとしてのみずからをも否定したのである。この否定をその肯定的諸規定のなかで総括してみると、それは資本の最初の諸要因Elemente〕を含んでいる。(『資本論』草稿集①293-294頁)

※ すでにみたように、貨幣としての貨幣においては、交換価値は、すでに流通にたいして一つの自立的形態をかち得ているが、しかしこの自立的形態は否定的で消滅的な形態にすぎず、あるいは、それが固定化されれば幻想的形態であるにすぎない。貨幣は、流通にかかわってのみ、また流通にはいりこむ可能性としてのみ存在する。しかしそれは、自己を実現してしまうやいなや、この規定を失い、諸交換価値の尺度および交換手段という、以前の二つの規定に逆もどりする。流通にたいして自己を自立化させるだけでなく、また流通のなかで自己を保持するような交換価値として、貨幣が措定されるやいなや、それはもはや貨幣ではなく――というのも貨幣は貨幣そのものとしては否定的な規定を越えることはないのだから――、資本なのである。……つまり資本の最初の規定は次のとおりである。すなわち、流通から生まれ、したがって流通を前提する交換価値は、流通のなかで、また流通をとおして自己を保持すること、この交換価値は流通にはいりこむことによって、自己を失わないでいること、流通は、交換価値が消滅していく運動としてでなく、むしろ交換価値が交換価値として現実的に自己を措定する運動として、交換価値の交換価値としての実現であること、これである(『資本論』草稿集①303頁)

3.歴史的にみると、資本は、土地所有者に対して、商人や高利貸の姿で対立し1。つまり最初は土地所有に対して、貨幣財産として、まず貨幣の形で相対した。

とはいえ、ここで資本の成立史をたどる必要はない。貨幣を資本の最初の形態と認識するのは論理的展開のためである。同様の歴史は毎日われわれの眼前で繰り広げられている。どんな新しい資本も最初に登場するのはやはり貨幣としてであり、それは一定の過程を経て資本に転化するのである。

※ 論理的に明らかにしていくことは同時に歴史的な過程を凝縮して写し出していくことでもある。もちろん常に歴史的な過程と論理的過程が照応し合うわけではない。

1 封建的な人格的依存関係と隷属関係を否定する貨幣関係をフランスの二つのことわざがはっきりと表している。

「領主のない土地はない」 「貨幣に主人はいない」[AN4] 

※ 封建的な土地所有というのは人格的な支配・被支配の関係にもとづいた社会です。それに対して、商品と貨幣の関係というのは、人と人の関係が物と物との関係として現われる物象的依存性のうえに築かれた社会になります。だからそれは封建的な人格的依存性に対立したものとして現われてくるわけです。そうした封建的な人格的依存関係と隷属関係を否定する貨幣関係を二つのことわざがはっきりと表しているというわけです。;大阪『資本論』学習資料No.25(通算第75回)2021.07.31

4貨幣としての貨[AN5] WGW資本としての貨GWGとは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけである。

※ 貨幣は物々交換――商品交換を媒介するものとして登場し、そのために価値尺度機能、流通手段の種々の機能をもつことになるのだが、同時に流通の外においては価値の独立形態――一般的な富を表すものとなり、蓄蔵貨幣、支払手段、世界貨幣という機能を持つことになる。これがいわゆる「貨幣としての貨幣」である。

蓄蔵貨幣は富の集積という意味をもち、その集積された貨幣が流通の中で自己増殖運動を始めたときに「資本」(資本としての貨幣となる。

※ 「ある金額としての貨幣はその量によって測定される。量として測定可能な貨幣の性格は、測定不能な無限性を指向する貨幣の性格と矛盾する(マルクス『経済学批判要綱』)」 この矛盾は価値が「貨幣」という殻を脱ぎ捨てて、無制限の「資本」という姿をとることにより止揚されると言える。

5.単純な商品流通の直接的形態は、W-G-Wである。つまり、商品を貨幣に転化し、さらにその貨幣を商品に転化すること――買うために売る、である。

しかしこうした商品流通の直接的な形態とは別に、われわれはG-W-Gという別の形態を見いだす。これはまず最初に貨幣があり、それが商品に転化されたあと再び貨幣に転化されるという流通であり、これは売るために買うという形態である。

そしてこの後の方の運動を描く貨幣が、すなわち資本に転化するのである。だからG-W-Gはすでに単純流通の枠を超えている。それは潜在的には、すでに資本の流通と言えるのである

※ 例えば単純な商品流通W-G-Wというのは商品流通のもっとも抽象的な形態であるが、しかしこれは歴史的には、ある人間集団どうしが時々その余剰物を交換し合う関係ともいえる。こうした交換関係が発展すると、貨幣を流通から引き揚げて、いつでも何でも買えるものとして、すなわち一般的な富としてそれを持っていて、そしてそれを別の機会に流通に投じる人たちが出てくる。それがG-W-Gである。しかし、それも最初のうちはW-G-Wとそれほど違ったものではなく、たまたまGを流通から引き揚げて持っていたものを再び流通に投じただけかも知れない。そのかぎりではそれはやはり消費を目的にしており、W-G-Wと同じであり、一つの断面です。そうした過程のなかで、やがて一般的富としてのGを貯め込む人たち、その増殖を願う人たちが出てくる。そしてその人たちのなかから、高く売るために、値段が安いときに買っておく、というG-W-Gが出てくるだろう。それは貨幣を流通に投じて、やはり同じ貨幣を流通から引き出すという限りでは一つの単純流通であり、循環である。こうした単純流通のなかから独自の流通としてのG-W-Gが出てくる。そしてそれはその使命からすれば、すでに資本なのである、つまり流通のなかでその増殖を目的にして貨幣を投じるものだといえるのである。

単純流通でありながら、資本の流通でもあるというのは、それは抽象的な契機としては単純流通だが、より具体的な関係としてみれば資本の流通であるということでもある。それを資本の循環という資本関係のなかで見た場合、それらは資本の流通にもなるということなのである。

6.流通G-W-Gをもっと詳しく見よう。それは、二つの反対の段階をとおる。1の段階、G-W、買いでは、貨幣が商品に転化される。2の段階、W-G、売りでは、商品が貨幣に再転化される。したがって形態的には単純流通である。

しかし、二つの段階の統一は、貨幣を商品と交換してその商品を再び貨幣と交換するという、すなわち売るために商品を買うという総運動である。貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うともいえる。

その結果だけを見れば、貨幣と貨幣との交換、G-Gになる。

例えば私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を再び110ポンド・スターリングで売るとすれば、結局、私は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、す
なわち貨幣を貨幣と交換したことになる。

※ ところで、ここではマルクスは100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングとを交換したことになる、と述べています。しかしこれでは、単純流通としては疑問が生じます。なぜなら単純流通というのは等価物の交換だからです。次の第7パラグラフでは、100ポンド・スターリング100ポンド・スターリングとの交換を持ち出していますが、その前の第6パラグラフでは等価物交換に反した数値を持ち出しているのです。これはどうしてでしょうか。

これは恐らく第5パラグラフで、マルクスは〈商品流通の直接的形態は、W-G-W、……である。しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G-W-Gという形態、……を見いだす。〉と述べ、W-G-Wと〈並んで〉独自に区別される形態としてG-W-Gを〈見いだす〉と述べています。〈見いだす〉というのは、私たち観察者が直接的な表象として日常的に目にするということです。『経済学批判[AN6] 』でも次のように書いています。

〈よく観察してみると、流通過程は二つの異なった循環の形態を示している。商品をW、貨幣をGと名づけるならば、この二つの形態は次のように表現することができる。

      W-G-W
     
G-W-G 〉 (『経済学批判』 全集第1370頁)

つまりマルクスは流通過程に日常的にみられる二つの形態をまずは直接見ているということではないでしょうか。そして私たちが直接に見いだすG-W-Gというのは、高く売るために安く買うという形態なのです。だからマルクスはまず直接的表象としてとらえられるG-W-Gとして、100ポンド・スターリングと110ポンド・スターリングとの交換の例を持ち出しているのだと思います。

しかしいうまでもなくこれは等価物の交換という単純流通の枠をすでに超えていることがわかります。マルクスは『批判・原初稿』では〈G-W-Gという形態をとる現実的運動は単純流通のなかには存在しない〉とまで述べながら、しかし〈この形態がそのものとして現に行なわれていることは、明らかである〉(太字による強調はマルクス)とも述べています(草稿集③167)。そして〈現に行なわれている〉ものは、実際には100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと交換する過程なのです。もし100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換するなら、それは単純流通の枠内ですが、しかしまったく無意味なものになります。つまり単純流通ではそれは無意味な奇妙な行為になるのです。つまりG-W-Gは、単純流通でありながらすでに単純流通ではないというある意味矛盾したものなのです。;大阪・亀崎 『資本論』学習資No.25(通算第752021.07.31


7.ところで、もしも回り(流通を経由をして結局同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換することになるなら、流通過程G-W-Gは無内容なものと言える。むしろ、自分100ポンドを流通の危険にさらさず固く握っている貨幣蓄蔵者のほうが、ずっと簡単で確実である。

他方で、商人100ポンドで買った綿花を再110ポンドで売ろうと、またはそれ100ポンドで、い50ポンドで手放さざるをえなくなろうと、どの場合にも彼の貨幣は一つの特有な独自な運動を描いたことになる。その運動は、単純な商品流通での運動、たとえば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかでの運動とは、まったく種類の違うものである。G-W-Gという流通は、すでに潜在的には単純流通を越えた流通なのである。

そこで、まず循環G-W-GとW-G-Wとの形態的相違の特徴づけをしなければならない。それにより、これらの形態的相違の背後に隠れている内容的相違も明らかになる。

8-9.まず両方の形態に共通なものを見よう。

どちらの循環も同2つの反対の段階、W-G、売りと、G-W、買いとに分かれる。2つの段階のどちらでも、商品と貨幣という同2つの物的要素が相対しており、また、買い手と売り手という経済的扮装をつけ2人の人人格化が相対している。

2つの循環のどちらも同じ反対の諸段階の統一である。どちらの場合にも、この統一3人の当事者の登場によって媒介され、そのうち1人はただ売るだけであり、も1人はただ買うだけであるが、31人は買いと売りとを交互に行なう。両方の循環は、結局、同じ対立的な諸段階の統一である。

10[AN7] 二つの循環W-G-WとG-W-Gとをはじめから区別するものは、同じ反対の流通段階の逆の順序である。 

     単純な商品流通は売りで始まって買いで終わり、資本としての貨幣の流通は買いで始まって売りで終わる。前のほうでは商品が、あとのほうでは貨幣が、運動の出発点と終点であり、第一の形態では貨幣が、他方のでは逆に商品が、全過程を媒介している。

11.流通W-G-Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつ。したがって、貨幣は最終的に支出される

これに反して、逆の形態G-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。彼は商品を買うときには貨幣を流通に投ずるが、それは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためである。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるためである。だから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである3

3[AN8]  「ある物が再び売られるために買われる場合には、そのために用いられる金額(商品の仕入れのための金額、貨幣は前貸しされた貨幣と呼ばれる。それが売られるためにではなく買われる場合には、その金額は費やされると言ってよい。」(ジェームズ・ステュアート『著作集』、その子、サー・ジェームズ・ステュアート将軍編)

※ 「重農学派よりも前には、剰余価値――すなわち利潤、利潤という姿でのそれ――は、純粋に交換から、商品をその価値よりも高く売ることから、説明されている。サー・ジェイムズ・ステュアートは、だいたいにおいて、この偏狭さから抜けでておらず、むしろその科学的な再生産者とみなされなければならない。私は「科学的な」再生産者と言う。というのは、ステュアートは、個々の資本家が商品をその価値よりも高く売ることによって彼らの手にはいってくる剰余価値をあたかも新しい富の創造であるかのように考える幻想を共有していないからである。」;『剰余価値学説史全集26 8)

※ 資本家はWを購入するのだがその時に自分のGを支出したー手放したとは考えない。あくまでも「貸している」のであり次のWの販売で「貸したG」を取り戻すー返してもらう。資本家にとってはWを売ってGが戻ることは所与のこととして織り込み済み。だから、一時的に「貸す」ということになる。「還流」と言うのも同様の意味。実態として「前貸し」であり、単なる定義や呼び方の問題ではない。

※ マルクスはケネーが貨幣の「前貸」の意味を正しく説明していると、次のように論じている。

「資本家が労働力を買う貨幣は、彼にとっては価値増殖のために投じた貨幣、つまり貨幣資本である。それは、支出されたのではなく、前貸しされているのである。(これが「前貸」――重農学派のavance ――の真の意味であって、資本家がこの貨幣そのものをどこからもってくるかにはなんの関係もないのである。資本家が生産過程の目的のために支払う価値はすべて資本家にとっては前貸しされているのであって、この支払が前になされようとあとからなされようとそれに変わりはないのである。その価値は生産過程そのものに前貸しされているのである。」;『資本論』 219章 全集第24466

つまり、貨幣を、価値増殖を目的に投じることを「前貸」と言うのであり、ただ個人的な消費を目的に投じる場合を貨幣の「支出」と言っている

12.形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替える。売り手は、貨幣を買い手から受け取って、別のある売り手にそれを支払ってしまう。商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を手放すことで終わる。

形態G-W-Gは逆である。ここでは、二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品である。買い手は、商品を売り手から受け取って、それを別のある買い手に引き渡してしまう。


単純な商品流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。
 

13.出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売られるかどうか、還流する貨幣額の大きさには無関係である。

「還流」するという現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G-W-Gが完全に描かれさえすれば、起きる。これが単なる貨幣の流(単純流通、WGWにおけるG資本としての貨幣の流GWGとの感覚的に認められる相違である。

※ 資本としての貨幣は、G-W-G'のように、第二のG'が最初のGよりも大きい貨幣額、したがってGは自己増殖する価値として表われる。

14.ある商品を売って貨幣を入手しても、それで別の商品を買えば、貨幣はその時点で失われ、循環W-G-Wは終わる。それでもまた、その出発点への貨幣の還流が起きたとするなら、それはただ全過程をもう一度、初めから更新するか反復する場合だけである。

例えば私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売って、この3ポンド・スターリングで衣服を買ったとすれば、その3ポンド・スターリングはすでに私のものではなく、私の手から完全に失われている。その3ポンド・スターリングは私とは何の関係もない。それは衣服商人のものになっている。

そこで私はもう一つの別の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流してくるが、それは最初の取引とは関係なく、ただ同様の取引の繰り返しの結果である。だから2の取引を終えて、また繰り返して別の商品を買うなら、やはり再び貨幣は私から離れていく。だから流通W-G-Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係ももたない

 

これと反対に、G-W-Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって決まる。そもそもこの還流がなければ、一連の操作は失敗したか、または過程が中断されていてまだ完了していないかである。というのは、最後のGが還流していない、つまり過程の2の段階、すなわち買いを補う売りが欠けているからである。
 

15.循環W-G-Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で終結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。それゆえ、消費、欲求充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。反対に、循環G-W-Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ貨幣の極に帰ってくる。それゆえ、交換価値Gを自分の手に戻すことが循環を起動する(起動的動機であり、(推進的目的でもある。

※ 流通形態W-G-Wでは、商品は二つの変態を経過するが、その結果は、商品が使用価値としてあとに残る、ということである。この過程を経過するのは、商品――使用価値と交換価値との統一としての、あるいは使用価値としての――であって、交換価値はこの商品の単なる形態、すぐに消えてしまう形態である。しかしG-W-Gでは、貨幣と商品とは、交換価値の異なった定在形態として現われるにすぎないのであって、交換価値は、あるときは貨幣としてその一般的な形態で、他のときは商品としてその特殊的な形態で現われ、同時に、統括するものおよび自己を主張するものとして、両形態のなかに現われるのである。貨幣はそれ自体交換価値の自立化した定在形態であるが、ここでは商品もまた、交換価値の体化物の担い手として現われるにすぎない。(『61-63草稿』草稿集④12頁)

※ 「起動的動機」は、資本の循環が出発する際の動機・誘(つまり、資本の運動を始めるきっかけ。「規定的目推進的目的」は、資本の運動が進む過程とその到達点で求められる目(つまり、運動が実際に何を達成しようとしているのか、その最終的なゴール

16.単純な商品流通W-G-Wでは、両方の極は同じ経済的形(Wを持っている。すなわち商品であり、それらは同じ価値量をもつ。しかしそれらは質的には違った使用価値からなっている。だからここでは、生産物の交換、社会的労働がそこに現されている素材の変社会的物質代謝が、この運動の内容をなしている。

   しかし、流通G-W-Gではそうではない。この流通は一見すると無内容に見える。なぜなら、それは同義反復を意味するだけに見える。どちらの極も同じ経済的形態、貨幣である。だから単純流通のように質的に違う使用価値ではない。貨幣というのは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値は消え去っている。回り道をしてただ貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換するとすれば、それはまったく無目的で無意味な操作ではないのか

※貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。 (『経済学批判』 全集第13102)

ある貨幣額を他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってだけである。ということは、過程G-W-Gは、その両極がどちらも貨幣という質的としては同一のものなのだから、この過程は、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつことになる。つまり、最初に流通に投げこまれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられなければならない。たとえば、100ポンド・スターリングで買われた綿花が、10010ポンドすなわち110ボンドで再び売られるというように。G-W-Gの循環運動は、その循環の終点となる貨幣額がその始点となる貨幣額よりも大きくなる場合にだけ意義を持つ。

※ … G-W-Gの形態では、両極は金であり、同時にまた同じ大きさの価値の金である。商品を金と交換するために金を商品と交換すること、またはその結果であるG-Gを見れば、金を金と交換することは、ばかげたことのように見える。しかしもしG-W-Gを、媒介する運動をつうじて金を金と交換することを意味するにほかならない売るために買うというように翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められる。けれども、実際には、売るために買うのではなくて、高く売るために安く買うのである。貨幣が商品と交換されるのは、その同じ商品をふたたびもっと大きい量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGとは質的には違っていなくても、量的には違っている。商品と貨幣は、そのものとしては商品自体の対立的諸形態、つまり同じ大きさの価値の相異なる存在様式にすぎないのに、このような量的区別は非等価物の交換を前提している。だから循環G-W-Gは、貨幣と商品という形態のもとに、いっそう発展した生産関係を潜ませているのであって、単純流通の内部では、いっそう高度の運動の反映であるにすぎない。だからわれわれは、流通手段とは区別した貨幣を、商品流通の直接的形態であるW-G-Wから展開しなければならない。(『経済学批判』 全集第13102-103頁)

こうしたことから、この過程の完全な形態は、G-W-G'であって、ここではG'+ΔGである。すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しいということになる。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、マルクスは剰余価suplus value[AN9] と呼ぶ。

この過程では、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えることになる。言い換えれば自分を価値増殖するのである。価値増殖することこそが、この循環運動の推進動機となる。この運動がこの価値を資本に転化させるのである。

※ ここではマルクスは「流通のなかで」とは述べているが、「単純流通のなかで」とは述べていない。マルクスはこのパラグラフを「単純な商品流通では」と単純な流通の話からはじめ、単純な流通では両方の極が同じ経済的形(商品であり、しかし質的に違った使用価値をもっていることと、同時に価値としては量的にも同じであるという特徴を述べている。そして単純流通のレベルでみれば「流通G-W-G」は「一見無内容に見える」と指摘する。そして質的に同じものは量的違いでしか内容を持たないことを指摘し、だから「過程G-W-G」の「過程の完全な形態は、G-W-G'」だとしている。そして、ここではただ「過程」としてしか述べていない。最後も「流通のなかで」とは述べているが、それは最初に述べていた「単純な商品流通」のなかではないことが分かる。

これは剰余価値というものをそのもっとも直接的な表象として捉えられるままに規定しているといえる。いうまでもなく、剰余価値というのは労働力商品に投下された可変資本が、労働力商品の使用価値が価値を形成し、そればかりが自身が持つ価値以上の価値を生産するという特有な商品であることから生じる。しかしここではどうして価値が増殖するのか、といった問題はまったく問わず、ただ前貸しされた貨幣額を超える増加分を剰余価値と呼ぶと述べているだけである

注4 「貨幣を貨幣と交換するものはない」、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者たちに向かってこう叫ぶ。

コーベトは、特に職業上から「商業」や「投機」を論じている著作で、「すべて商業は、種類の違う諸物の交換である。そして、利益(商人にとっての?「はまさにこの種類の相違から生ずる。パ1ポンドをパ1ポンドと交換しても……なんの利益もないであろう。……それだから、商業と、ただ貨幣対貨幣の交換でしかない賭博との有益な対照……」。彼は、G-Gすなわち貨幣を貨幣と交換することは、ただ商業資本だけのではなく、すべての資本の特徴的な流通形態だということがわかっていない。しかし、少なくとも、この形態が商業の一種である投機と賭博とに共通だということは認めている。商業と賭博を「貨幣対貨幣の交換」という点では共通しているが、商業では種類の違う諸物の交換を媒介しているから意味があるが、賭博では意味がないといいたいらしい

賭博はともかく、マルクスは「貨幣対貨幣」、すなわちG-Gというのは、単に商業資本だけではなくて、すべての資本の特徴的な流通形態だと述べている。あとの22パラグラフでは、マルクスは「G-G、貨幣を生む貨幣――money which begets money――、これが資本の最初の通訳、重商主義者たちの口から出た資本の描写である」と述べ、そして次の23パラグラフでは、「売るために買うこと、または、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G-W-G'は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに、特有な形態のように見える。しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である」と述べている。つまりG-Gは商業資本だけではなく、資本の特徴的な流通形態だと言っている。

ところが、次にマカロックが現われて、売るために買うことは投機することであり、したがって投機と商業との相違はなくなってしまう、ということを見いだす。「ある個人がある生産物を、再び売るために買うという取引は、すべて事実上は一つの投機である。」

コーベトは、商業と投機の共通性を認めながら、両者の違いを論じていたのだが、次に現れたマカロックが、売るために買うことは投機することだと主張し、投機と商業との相違を取っ払ってしまった。

マカロックよりもずっと素朴に、アムステルダム取引所のピンダロスであるピントは次のように言う。「商業は賭博であり」(この一句はロックから借用したもの)「そして、乞食からはなにももうけることはできない。もし長いあいだにみなのものからなにもかも巻き上げてしまったならば、あらためて賭博を始めるためには、穏やかに話し合って、もうけの大部分をもう一度返してやらなければならないであろう。」

*ピンダロス――古代ギリシアの叙情詩人。オリンピア祭での競技の勝利者への賛歌で知られる。マルクスは、資本主義社会のあれこれの諸制度の誇大な礼賛者にたいして、しばしば、この詩人の名を借りて皮肉った。

 

※ G-W(G+g)

   この循環運動の終点に最初の前貸しされた価値額を越えた追加的価値として現われるこのgを、マルクスは剰余価値とよぶ。利潤や利子などはこの剰余価値の現象形態にほかならないが、価値と価格を混同してはならないのと同様に、剰余価値とこの剰余価値の現象形「利潤や利子などとを混同してはならない。しかるにこれまでのわれわれの説明では、多くの場合経済学の諸範疇の基礎だけを考察の対象としているために、その現象形態[利潤や利子など]についてはその考察の対象外としているのである。誤解を避けるために、この点をここであえて述べておきたい。;カウツキー『マルクスの経済学説』(1887年)57

17.もちろん、(穀物(貨幣(衣服で両極(穀物(衣服が、単に使用価値が違うだけではなく、穀物と衣服とが違った価値量であるような場合もありえる。農民が自分の穀物を価値よりも高く売ったり、衣服をその価値よりも安く売ってもらう、または農民が衣服商人にだまされることもありえる。しかし、こうした価値量の相違は、この流通形態そのものにとってはやはりまったく偶然であって、この流通に本質的なものではない

この流通形態の本質は、その両極、たとえば穀物と衣服とが互いに等価物であっても、けっして過程G-W-Gのように無意味なものではない。両極が等価だということは、この形態では、むしろ正常な経過の条件である。(しかし、それではGWGの両極Gが同じ価値量となり、この流通を無意味なものにしてしまう。)

18.単純流(買うために売る(穀物(貨幣(衣服が繰り返されるためには、穀物を生産した農夫がふたたび新たに生産した穀物を市場に持ち出さねばならないし、彼は同じ衣服を必要としなければならない。そうでなければこの流通は新たに始めることは出来ず、繰り返すことは出来ない。つまりこの流通形態では、それが反復するか更新されるかどうか、あるいはそれがどの程度なされうるかは、流通過程の外の事情に、つまり農夫が穀物をどれだけ生産し、衣服をどれだけ必要とするかにかかっている。

それに比べると、G-W-(売るために買うの場合は、始めも終わりも同じ(貨幣、つまり同じ交換価値である。そしてこの両極が質的に同じということのなかに、すでにこの運動が無限であることを含んでいる

(穀物(貨幣(衣服の反復は(穀物(貨幣(衣服であり、連続したものではない。消費という流通外の目的によって限度が与えられている。しかしG-W-Gの場合は、G-W-G-W-G-W-G……と無限に続けることが可能である。

たしかに、売りのための買(G-W-Gでは、最初のGは最後にはG+ΔGになり、100ポンド・スターングは10010ポンドに変化している。しかし、単に質的に見ると、110ポンドも100ポンドと同じもの―貨幣である。また量的に見ても、110ポンドは100ポンドと同じに一つの限定された価値額でしかない。

もちろんG-W-G-W-G……と続けると言っても、G-W-Gの最後のGはG+ΔGであって、最初のGとは量的に違う。しかしGもG+ΔGも同じ貨幣であって、質的には同じである。つまりG+ΔGも流通を開始するときにはやはりGであって、最初のGと変わらない。これ100ポンド110ポンドになったとしても、110ポンドも100ポンドと同じある限定された価値額であることに変わりがないことは明らかである。

110ポンドが貨幣として支出されるならば、それはその資本としての役割からはずれてしまう。それは資本ではなくなる。あるいは流通から引きあげられるならば、それは蓄蔵貨幣に化石して世界の最後の日までしまっておいてもびた一文も増えはしない。やはりそれでは資本にはならない。

※ 最後のΔGが、ただ貨幣として支出されるだけなら、もはやそれは消費され、過程を繰り返すことは出来ない。それはただW-G-WのG-になるだけで、そこで過程は止まり、資本としての性格を失う。それとも最後のΔGを流通から引き上げてしまうなら、それはただ蓄蔵貨幣になるだけで、いくら長く蓄蔵していても一文も増えはしない。この場合も資本としての性格を失う。

つまり、資本として、ひとたび価値の増殖が問題となるのなら、増殖の欲求110ポンドの場合100ポンドの場合も同じことである。というのは、両方とも交換価値の限定された表現であり、したがって両方とも量の拡大によって富そのものに近づくという同じ使命をもっている。

たしかに、はじめに前貸しされた価100ポンドは、流通でそれに加わ10ポンドの剰余価値からは一瞬だけ区別されるだろうが、しかしこの区別はすぐに消えてなくなる。過程の終わりには、100ポンドの原価値10ポンドの剰余価値が別々に出てくるのではない。出てくるものは、あくまで110ポンドという一つの価値額であり、それは、質的には、最初100ポンドとまったく同じく、価値増殖過程を始めるのに適した形態にある。貨幣は、運動の終わりには再び運動の始めと同じものとして出てく5

だから、売りのための買(G-W-Gが行なわれる各個の循環の終わりは、おのずから一つの新しい循環の始めをなしているのである。

単純な商品流通――買いのための売(W-G-W――は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲求の充足のための手段として役だつ。これに反して、資本としての貨幣の流(G-W-Gは自己目的である。というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかだけに存在するのだから。そうだからこそ、資本の運動には限度がないのである6

5 「資本はふたたび最初の資本と、資本の生産過程でうけとる、資本の増加分である利得とにわかれる。もっとも、実践そのものはこの利得をすぐにまた資本につけくわえて、資本とともに流通させる。」(『国民経済学批判大綱全集1555頁)

*これはエンゲルスがわず24歳のときに『イギリスにおける労働者階級の状態』と一緒に『独仏年誌』に発表したもので、資本の運動をとらえた記述は若きマルクスをいたく感心させた。

6[AN10]  アリストテレスはこうした流通の二つの形態を「貨殖術」と「家政術」という二つの言葉で表現させ、対立させて捉えている。「貨殖術」とは貨幣を殖やす(目標が手段としてではなく最終の究極目的として意義をもつ術のことであり、「資本としての貨幣の流通」(G-W-Gに対応している。それに対して「家政術」というのは、国家や家庭を運営する(目的のための手段を追求するだけの術のことであり、「単純な商品流通――買いのための売り」(W-G-Wに対応する。

「貨殖術は貨幣を中心として回転しているように見える。というのは、貨幣こそはこの種の交換の始めであり終わりであるからである。それゆえ、貨殖術が追求する富にも限界はない。すなわち、目的のための手段を追求するだけの術は、目的そのものがそれに限界を設けるので、限界のないものではないが、その目標を手段ではなく最終目的としているような術は、すべて、その目的に絶えず近づこうとしているので、その追求には限界がないのであって、それと同様に、この貨殖術にとってもその目標の限界はなく、その目標は絶対的な致富である。」;アリストテレス『政治学』岩波文庫版50-55

WGWの循環

GWG’の循環

一つの商品を片方の極としてはじまり、別の商品を他方の極として終わる。そして後の方の商品はこの循環から抜け出して消費へと供される。したがって消費すなわち欲求充足、一言で言えば使用価値こそが、この循環の最終目的と言える。

貨幣を極として始まり最後に同じ極へと戻って来る。したがってその循環の動因、その循環を規定している目的は、交換価値そのものである。

①この循環は一つの商品で始まり、完全に異なるもう一つの商品で終わる。

②原則として、第一の商品と第二の商品は、質において異なるものであるが、価値が変動する内在的理由はない。

③第二の商品は流通から引きあげられ、消費される。

④人間の欲求の充足が、この循環の終着点であり、目的である。

①この循環は貨幣から始まり、より多くの貨(価値増殖で終わる。しかし質的には始まりに戻るため、循環は繰り返される。

G’は流通の領域内で発生し、人間の欲求の満足には関心がない。

③この交換の目的は、当初の価値量に新たな価値を付加することである。

④表面的には、貨幣そのものからより多くの貨幣ないし価値が発生しているように見える。

※ 資本の一般的定式をG-W-G‘と述べてきたが、資本の運動の無限性を考慮して定式化するならば、G-W-G1-W1-G2-W2…-Gn-Wn…と、際限なく続く運動である。(G<G1<G2…<Gn<Gn+1…)

※ 「起動的動機」は資本の運動を始める動機・誘因であり、「規定的目的」はその運動が達成すべき目標である。両者はともに貨幣の増(自己増殖を軸としており、資本の循環がその性質を実現するための運動である。資本の「自己増殖」とは、貨幣が単なる等価交換の役GWG では G = Gを超えて、貨幣が「G'(より大きな価値へと増殖する運動そのものである。この運動が資本の本質であり、そこでは「起動的動機」も「規定的目的」も価値増(自己増殖という一点に収斂している

19[AN11] .自己増殖を目的とするG-W-Gの運動の意識ある担い手として貨幣所持者は資本家になる。彼の身体、むしろ彼のポケットが、貨幣の出発点であり帰着点である。G-W-Gの客観的内容――価値の増殖――が、彼の主観的目的であり、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の行動の唯一の動機であり、そのかぎりでのみ彼は資本家であり、人格化されて意志と意識を与えられた資本として機能する。使用価値は資本家の直接的な目的とはなりえない。個々の利得もまた直接の目的ではなく、資本家の目的はただ「利得することへの飽くなき運動」だけなのである[AN12]  

※ これまでは貨幣の運搬役として「貨幣所持者」が措定されていたが、これに対して「資本家」は資本の意思を体現する人格化された資本であり、価値増殖運動の意識的担当者である。資本家とは資本の物象化というより、資本の意思を代行する、体現する人間ということであり、人間の行動がその存在基盤に規定されるということ。ちなみにこの節の最後でマルクスは貨幣所持者を「資本家の幼虫」と呼んでいる。

この絶対的な致富衝動、この熱情的な価値追[AN13] 9は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通するが、しかし、貨幣蓄蔵者は気の狂った資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者である。価値の絶え間ない増殖、これを貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出すことによっ10追求するが、もっとりこうな資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通に投げこむ[AN14] ことによって、それをなしとげ[AN15] 10a

9 〈この警句は、上記のマカロックやその一味が、理論上の困難に関連して、たとえば市場の供給過剰を論ずることが問題であるさいに、資本家を善良な市民――使用価値だけに関心をもっていて、卵や木綿や帽子や長靴やその他多数の日用品に飢えた食人鬼のような真の飢餓を感じてさえいる善良な市民――に変えることを、もちろん妨げるものではない。〉(『フランス語版資本論』 江夏・上杉訳137頁)

※ 資本流通の客観的内容は同時に資本家の主観的目的である。その目的は、使用価値の入手ではなく、また一回かぎりの利得でもなく、ただ利得の無窮運動である。;岡崎次郎『資本論入門82-83

10 「救う〈Σδώζειν〉」⇒to save」にも、「救う」と「蓄える」という二つの意味がある。

(この注がついている箇所について:〈貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通の危険から救うことによって、価値の永遠的な生命を確保すると思うが、もっと有能な人である資本家は、この生命を、絶えず貨幣を再び流通のうちに投ずることによって、かちとるのである。〉(『フランス語版資本論』 江夏・上杉訳137頁)

10a 「商品と貨幣との統一として措定された交換価値は資本であり、またこの措定する働きそれ自体が資本の流通として現われる。(この流通はしかし、螺旋であり、拡大してゆく曲線であって、単純な円環ではない。)『経済学批判要綱草稿集①314

20.諸商品の価値が単純な流(W-G-Wのなかでとる独立な形態である貨幣形(Gは、ただ商品交(W-Wを媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまう。

これに反して、流通G-W-Gでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

※ G-W-Gでは、購買は、流通あるいは交換過程の第2の行為ではなくて、反対に第1の行為を表わすのであり、貨幣が転化されたものである商品は、〔さきの場合と〕同様に、買い手にとっての交換価値の物質化にすぎず、いわば貨幣の変装した形態にすぎない。ここではGもWも、ともに交換価値の特殊的諸形態、定在諸様式――交換価値はこれらのものの一方から他方へと交互に移行する――として、すなわち貨幣は交換価値の一般的形態として、商品はその特殊的形態として、現われる(『資本論61-63草稿』 草稿集④17頁)

価値は、この運動のなかで消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的な主体に転化する。

※ 交換価値はそ2つの定在様式である貨幣と商品とを統括するものとして現われ、またまさにそれゆえに過程の主体として現われるのであって、この過程では交換価値は、あるときは一方のものとして、あるときは他方のものとして自らを表示し、それゆえにこそ、過程を進みつつある貨幣あるいは過程を進みつつある価値として自らを表示する。(『資本論草稿集』④17-18頁)

価値はこの循環の中では一つの過程の主体になり、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、自分自身を増殖する。価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、自己増殖なのである。この過程では、価値はそれが価値だから価値を生むという神秘的な性質を受け取る。それは元気な仔か、少なくとも金の卵を産むのである。


21[AN16] .〈資本になった価値は、姿態と大きさとを不断に変えさせられるので、なによりもまず、自己自身との同一性が確認されるような固有の形態を、必要とする。そして、価値はこの固有の形態を貨幣のうちにのみもつのである。価値が自己の自然発生過程を開始し、終結し、再開するのは、貨幣形態のもとにおいてである。……しかし、貨幣自体はここでは、価値の一形態でしかない。価値は二つの形態をもっているからだ。商品形態が除外されれば、貨幣は資本にならない。同じ商品の二度にわたる位置変換、すなわち、一度目は、商品が前貸しされた貨幣にとってかわる購買においての位置変(GーW、二度目は、貨幣が再び取り戻される販売においての位置変(W-Gが、ひとりこの二重の移動だけが、貨幣が自己の出発点に還流することを、しかも、流通に投ぜられたよりも多くの貨幣が還流することを、生ぜしめるのである。貨幣はここでは、貨幣蓄蔵者のばあいのように、商品にたいして敵対的な態度をとらない。すべての商品は、その外観と匂いがどんなであろうと[AN17] 、「正真正銘に」貨幣であり、その上、貨幣を産むための驚嘆すべき手段であるということを、資本家は非常によく知っている。〉

※ 内的に割礼を受けたユダヤ人(innerlich beschnittne Juden…見かけはどうであろうとも中身はユダヤ人

22.〈すでに見たように、単純な流通では、商品とその価値――この価値は貨幣姿態のもとで商品に対面する――とのはっきりした分離が実現される。今度は、価値が自動的な実体として突然に現われるのであって、この実体にとっては、商品と貨幣とは単なる形態でしかない。〉

しかし、それだけではない。いまや、資本としての価値は、諸商品の関係を表わすだけではなく、いわば自分自身で自分を比較するというその意味では私的な関係に入る。…じつは両者は一身なのである。

〈神が自己一身のうちで父と子を区別はしても、父子双方とも一者をなすにすぎず、同じ年齢であるのと同じように、価値は自己自身のうちで原価値を剰余価値から区別する。〉

なぜならば、前貸しされ100£の価値が、10£の剰余価値を生み出すことによって、それは資本となるが、しかしそれが資本になると両者の区(つまり原資本と剰余価値という区別は再び消えてしまう。それは一つの価値額として当初100£と同じ質のものであり、た(額面が110£になっているだけのものである。そして今度はこ110£が前貸しされる価値額となる。

c.f ⑳㉑段主体 Subjekt ㉒段実体 Substanz[AN18] [AN19] 

実体としての資本」というのは、商品形態や貨幣形態を代わる代わるとりながらその根底にあって同一性を保っているものということができるでしょう。それに対して「主体としての資本」というのは、自分自身で運動・発展していくものとしての資本であり、商品形態や貨幣形態などを交互にとることによって自己自身の増殖を行う生きた存在ということだと思います。;大阪『資本論』学習資料No.26 2021.11.18

※ 父なる神=G、 子なる神=ΔG、 父も子も同じ年…GGΔG(実は両者は一身→新しいGとなる。

 

23. 〈価値は前進的な価値、つねに芽を出し成長する貨幣になり、このようなものとして資本になる。それは、流通から出てきて、再び流通にはいって行き、流通のなかで自分を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくる。そしてこの同じ循環を絶えず繰り返してまた新しく始めるのである13。〉

※ 資本とは、単純なる関係なのではなく、一つの過程〔Prozeß〕なのであり、この過程のさまざまな契機において資本はつねに資本なのである。したがってこの過程こそが展開されなければならない。 (『資本論』草稿集①301)

※ マルクスにとっては、資本は「物」ではなく、一個の過程、もっとはっきり言えば価値流通の過程である。これらの価値は、その過程のさまざまな地点で、さまざまな物の中に凝固される。最初は貨幣として、次に商品として、そして最後に貨幣形態に戻る。

さて、資本は一個の過程であるというこの定義は、途方もなく重要である。それは、資本を伝統的に諸資(機械や貨幣などのストックとして理解する古典派経済学に見られる定義からの、あるいはまた資本を「生産要素」という物的なものとみなす伝統的経済(近代経済学に支配的な定義から根本的に決別するものである。;ハーヴェイ『〈『資本論』〉入門』139

〈G-G'、貨幣を産む貨幣――(money which begets money は、資本の最初の通訳である重商主義者が口にする資本の描写を、物語っている)――は、じっさいのところ、価値を産む価値の、自分自身を増殖する価値の、直接的な現象形態にほかならない。〉

13 マルクスは古典派経済学の初めと終りの代表者を、イギリスにおいてペティとリカード、フランスにおいてはボアギュベールとシスモンディにもとめ、シスモンディをリカードに対応させて評価している。リカードにおいて(古典派経済学がおそれることなく、その最後の結論をひきだし、それをもって終結をつげたとすれば、シスモンディは(古典派経済学の自己自身にたいする疑惑を表明することによって、この終結を補完したのである。;『資本論辞典494

古典派経済学

イギリス

フランス

初めの代表者

ペティ

ポアギュベール

終りの代表者

 

 

 

リカード*1

古典派経済学がおそれることなく、その最後の結論をひきだし、終結を告げた。

シスモンディ*2

古典派経済学の自己自身にたいする疑惑を表明することによって、終結を補完した。

1 リカードは、ブルジョア的生産が社会的生産力の最大可能に無拘束な発展〔意味するかぎりで生産の担い手が資本家であろうと労働者であろうと、その運命に心を煩わされることなく、ブルジョア的生産を支持したのである彼は、この発展段階の歴史的な正当性と必然性〔しっかりとつかんでいた。彼は過去についての歴史的感覚は欠けているが、それだけにかえって彼はその時代の歴史的な跳躍点のなかに生きている。(中略)リカードは、ブルジョア的生産を、もっと明確に言えば資本主義的生産を、生産の絶対的な形で把捉している。したがって、その生産関係の一定の形態が、生産そのものの目的――豊富――と矛盾したり、それを拘束したりすることはけっしてありえない。…。彼がブルジョア的生産について驚嘆しているのは、実際には、その一定の形態が――先行する諸生産形態に比較すれば――生産諸力の無拘束な発展を許容する、ということである。それがそうしたことを遂行しなくなったり、そうしたことを遂行している内部に矛盾が現われたりする場合には、彼は矛盾を否定する。…矛盾そのものを他の形態で言い表す。

2 シスモンディには、資本主義的生産に矛盾があるという根深い予感がある。すなわち一方では、それの諸形態――それの諸生産関係――は生産力と富との無拘束な発展を刺激し、他方では、これらの関係が制約されており、使用価値と交換価値、商品と貨幣、購買と販売、生産と消費、資本と賃労働などに関するそれの諸矛盾は、生産力が発展すればするほど、それだけますます大規模になる、という根深い予感がある。特に彼は次のような根本的矛盾を感じている。すなわち、一方では、無拘束な生産力の発展と、同時に諸商品から成っていて現金化されなければならない富の増加、他方では、基礎として、生産者大衆の必需品への制限、という根本的矛盾である。したがって、彼の場合には、恐慌は、リカードの場合のように偶然ではなく、大規模に一定の時期に起こる内在的諸矛盾の本質的な爆発なのである。ところで彼は、生産力を生産関係に適合させるために生産力を国家の力によって拘束するべきか、それとも生産関係を生産力に適合させるために生産関係を国家の力によって拘束するべきか? ということで絶えず動揺している。……彼はブルジョア的生産の諸矛盾を的確に批評しているが、しかし、それを理解していない。したがってまた、その解決の過程も理解していない。だが彼の場合、根底にあるものは、実際には、資本主義社会の胎内で発展した生産諸力、すなわち富をつくりだす物質的で社会的な諸条件に、この富の取得の新しい形態が対応しなければならない、という予感であり、また、ブルジョア的形態はただ過渡的な矛盾にみちたものにすぎないのであって、そのなかでは富はつねにただ対立的な存在だけを保持し、同時にどこでもその反対物として現われる、という予感である。富は、つねに貧困を前提とし、貧困を発展させることによってのみ発展するものなのである。;『剰余価値学説史』全集263分冊1912「リカードにたいするマルサスの反論の社会的本質。ブルジョア的生産の諸矛盾に関するシスモンディの見解の歪曲」より

24.売るために買うこと、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G-W-G'は、商人資本だけに、特有な形態のように見える。

しかし、産業資本も、最初は貨幣として現れ、それが商品の購入のために流通に投じられ、そして生産過程を辿って再び商品とし(しかし剰余価値を含んだものとして流通に現れ、それにより流通からより多くの貨幣を引き出す流通部面の外での行為は、この運動形態を変えることはない。

※ 産業資本の本来の循環はG-W…P…W'-G’だが、その中間項を省略すると、G-W-G’になる。中間項…P…W'は生産過程とその結果を示し、それは流通部面の外で行われる。しかし流通の外で行われる行為は、流通の運動形態を少しも変えない。(Pは生産 Produktion

最後に利子生み資本の形態はG-G'である。これはG-W-G’の形態がより短縮されたものであり、媒介のない結果だけの姿で簡潔に資本を表している。

※ 本来の利子生み資本[AN20] の循環形態はG-G-W…P…W'-G’-G' であるが、G-G' の間にあるG-W…P…W'-G’は産業資本の循環を意味する。これは近代的な利子生み資本の循環だが、利子生み資本はこうした近代的な(資本主義的な)ものだけではなく、古代の利子生み資本も同じ形態を表している。

 

25.実際に、G-W-G'は、直接に流通部面に現われているとおり資本の一般的な定式である。

※ 商品を買ってそれをより高く売ることを内容とするG-W-G‘は、資本の一種である商人資本商業資本)に特有な形式のように見える。しかし、物を製造して売る産業資本も、まず貨幣から商品に転化し次には商品を売ることによって最初の貨幣よりも多くの貨幣に再転化する、という運動を繰り返す。買いと売りとの中間で、つまり流通の外で、なにごとかが行なわれるとしても、この運動形態そのものは変わらない。また、ただたんに一時的に所持者を換えるだけで価値増殖するようにしか見えない利子生み資本の流通を表わすG-Gも、『資本論』第三巻の後半で明らかにされるように、商業資本または産業資本の運動による媒介が背後に隠されているものとして、G-W-Gの省略形と見ることができる。だから、G-W-Gは、流通部面に現われる資本の一般的定式なのである。;岡崎次郎『資本論入門』83

※ マルクスは3巻で「資本家にとっては、……商品に含まれている剰余価値は、商品の販売によって実現されるのではなくて、販売そのものから発生するのだということになる」(全集25a46-47頁)と述べています。あるいは「資本の一般的定式は、G-W-G'である。すなわち、ある価値額が、それよりも大きい価値額を流通から引き出すために、流通に投げこまれるのである。」(全集25a 51頁)とも述べています。つまりG-W-G'というのは、あくまで流通部面の問題であり、資本が流通部面に直接現われている表象をそのまま定式化したものだというのです。しかしまたそれだからこそ、それは矛盾したものでもあるのですが、それは次の節で問題になります。;大阪『資本論』学習資料No.26 2021.11.18

 

 


 [AN1]〈資本の存在は、社会の経済的姿態形成〔Gestaltung〕の長期にわたる歴史的過程の結果である。弁証法的形態で叙述することは、自分の限界をわきまえている場合にのみ正しいのだということが、この地点〔貨幣の資本への移行を論ずる地点〕ではっきりとわかる。われわれにとっては単純流通の考察から資本の一般的概念が導き出されるわけだからである。その理由は、ブルジョア的生産様式の内部では、単純流通そのものが、資本の前提であるとともに資本を前提としているものとして以外には、存在しないからである。資本が単純流通から生ずると言ったからといってもなにも、資本がある永遠の理念の化体になるわけではない。資本が単純流通から生ずるということが示していることは、資本とは、交換価値を定立する労働、交換価値に立脚する生産がそこにゆきつかざるをえない必然的形態にほかならないということ、また資本は現実にまずもってそういうものとしてあるのだということである。〉 (『資本論』草稿集③194)

 [AN2]〈だから、なぜ商人資本は、資本が生産そのものを自分に従属させるよりもずっと前から、資本の歴史的形態として現われるのか、ということを見抜くことは、少しも困難ではない。商人資本の存在とある程度までの発展とは、資本主義的生産様式の発展のための歴史的前提でさえもある。というのは、(1)貨幣財産の集積の前提条件としであり、また、(2)資本主義的生産様式は、商業のための生産を前提し、個々の顧客相手ではない卸売りを、したがってまた、自分の個人的欲望をみたすために買うのではなく多数人の購買行為を自分の購買行為に集中する商人を、前提するからである。他方、およそ商人資本の発展は、生産にますます交換価値を目ざす性格を与えて生産物をますます商品に転化させるという方向に、作用する。とはいえ、商人資本の発展は、それだけでは、われわれがすぐ次にもっと詳しく見るであろうように、ある生産様式から他の生産様式への移行を媒介し説明するのには不十分である。〉 (全集第25a407-408)

 

 [AN3]  16世紀というのは、いわゆる大航海時代といわれる時代です。また16世紀というのは西欧世界では封建制度の末期、絶対王制の時代に該当します。その時代の世界貿易と世界市場の発展が、資本主義的生産のための原始的な蓄積を生み出したのです。こうした資本主義的生産の歴史的な発展については、『資本論』第1部の最後のところ(7篇第24)で問題にされますが、今は、そうした歴史的な過程を論じることが主題ではなく、論理的な展開を問題にしているのです。しかしその前に、そうした論理的な展開には、歴史的な前提があることをここで指摘していることになります。

  とりあえず、その歴史について論じている同じ『資本論』第3部から紹介しておきましょう。

  〈商業と商業資本との発展は、どこでも、交換価値を指向する生産を発展させ、その範囲を拡大し、それを多様化するとともに世界化し、貨幣を世界貨幣に発展させた。それゆえ、どこでも商業は既存の生産組織にたいしては、すなわち形態はいろいろに違っていてもみな主として使用価値に向けられている既存の生産組織にたいしては、多かれ少なかれ分解的に作用するのである。しかし、どの程度まで商業が古い生産様式の分解をひき起こすかは、まず第一に、その生産様式の堅固さと内部構成とにかかっている。また、この分解過程がどこに行き着くか、すなわち、古い生産様式に代わってどんな新しい生産様式が現われるかということは、商業によってではなく、古い生産様式そのものの性格によって定まる。古代世界では、商業の作用も商人資本の発展も、その結果はつねに奴隷経済である。また、出発点によっては、ただ、直接的生活維持手段の生産に向けられた家長制的な奴隷制度が、剰余価値の生産に向けられた奴隷制度に転化させられるだけのこともある。これに反して、近代世界ではそれは資本主義的生産様式に行き着く。このことから、これらの結果そのものがまだ商業資本の発展とはまったく別な事情によって制約されていたということになる。……

  16世紀および17世紀には、地理上の諸発見に伴って商業に大きな革命が起きて商人資本の発展を急速に推進し、これらの革命が封建的生産様式から資本主義的生産様式への移行の促進において一つの主要な契機をなしている。世界市場の突然の拡大、流通する商品の非常な増加、アジアの生産物やアメリカの財宝をわがものにしようとするヨーロッパの国々の競争、植民制度、これらのものは生産の封建的制限を打破することに本質的に役だった。しかし、近代的生産様式がその最初の時期であるマニュファクチュア時代に発展したのは、ただ、そのための条件がすでに中世のあいだに生みだされていたところだけだった。たとえばオランダをポルトガルと比較せよ。そして、16世紀に、また一部分は17世紀にも、商業の突然の拡張や新たな世界市場の創造が古い生産様式の没落と資本主義的生産様式の興隆とに優勢な影響を及ぼしたとすれば、このことはまた、逆に、すでに創出されていた資本主義的生産様式の基礎の上で起きたのである。世界市場は、それ自身、この生産様式の基礎をなしている。他方、この生産様式に内在するところの、絶えず大きな規模で生産するという必然性は、世界市場の不断の拡張に駆り立てるのであり、したがってここでは、商業が産業を変革するのではなく、産業が絶えず商業を変革するのである。商業支配権も今では大工業の大なり小なりの優勢に結びついている。例えばイギリスとオランダとを比較せよ。支配的商業国としてのオランダの没落の歴史は、商業資本の産業資本への従属の歴史である。〉 (全集第25a414-415)

 [AN4] 「最後に、流通する貨幣としての貨幣そのものにおいては、貨幣は一方の手に現われるかと思うとまた他方の手に現われ、またどこに現われるかについては無関心であるから、さらに実態的に〔物象的に〕も平等が措定〔される〕のである。だれもが相手にたいして貨幣の所持者として現われ、交換の過程が考察されるかぎりでは、みずからが貨幣として現われる。それゆえ、無関心性と同値性とが物象の形態で明示的に現存している。商品のうちにあった特殊的自然的差異性は消し去られており、また流通をつうじてたえず消し去られている。」(『資本論』草稿集①283-284頁)

 [AN5] マルクスは「貨幣に関する章」のなかで、「貨幣としての貨幣」(貨幣の第三規定)のうちには「資本としての貨幣の規定がすでに潜在的に含まれている」と述べていた(*)が、「資本としての貨幣」は、この潜在的に含まれていた規定の「実現」であり、「貨幣としての貨幣」の発展したものだとみることができる。したがって、同じ貨幣の形態であるこの両者のうち、「貨幣としての貨幣」はその「低次の形態」、「資本としての貨幣」はその「高次の形態」だということになる。ところが、このような観点から見るかぎりでは、この両者を包括する類概念は言うまでもなく貨幣、すなわち単純な規定である「低次の形態」であって、これが「高次の形態」である「資本としての貨幣」をも統括する、ということになっている。;『マルクス経済学レキシコン 貨幣』の栞№14 22-23頁(大谷禎之介)

 [AN6]  『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

  〈W-G-Wの形態では、両極は同じ大きさの価値の商品であるが、同時にまた質的に違う使用価値である。それらの交換W-Wは、現実の物質代謝である。これにたいしてG-W-Gの形態では、両極は金であり、同時にまた同じ大きさの価値の金である。商品を金と交換するために金を商品と交換すること、またはその結果であるG-Gを見れば、金を金と交換することは、ばかげたことのように見える。しかしもしG-W-Gを、媒介する運動をつうじて金を金と交換することを意味するにほかならない売るために買うという公式に翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められる。けれども、実際には、売るために買うのではなくて、高く売るために安く買うのである。貨幣が商品と交換されるのは、その同じ商品をふたたびもっと大きい量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGとは質的には違っていなくても、量的には違っている。商品と貨幣は、そのものとしては商品自体の対立的諸形態、つまり同じ大きさの価値の相異なる存在様式にすぎないのに、このような量的区別は非等価物の交換を前提している。だから循環G-W-Gは、貨幣と商品という形態のもとに、いっそう発展した生産関係をひそめているのであって、単純流通の内部では、いっそう高度の運動の反映であるにすぎない。〉 (全集第13102-103頁)

 [AN7]W-G-Wの形態の流通過程の結果である鋳貨と区別した貨幣は、G-W-G、すなわち商品を貨幣と交換するために貨幣を商品と交換するという形態の流通過程の出発点をなしている。W-G-Wの形態では商品が、G-W-Gの形態では貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換を媒介し、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通のたんなる手段として現われる貨幣は、あとの形態では流通の終極目的として現われ、他方、はじめの形態で終極目的として現われる商品は、第二の形態ではたんなる手段として現われる。貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。(『経済学批判』 全集第13102頁)

 [AN8]〈重農学派よりも前には、剰余価値――すなわち利潤、利潤という姿でのそれ――は、純粋に交換から、商品をその価値よりも高く売ることから、説明されている。サー・ジェイムズ・ステュアートは、だいたいにおいて、この偏狭さから抜けでておらず、むしろその科学的な再生産者とみなされなければならない。私は「科学的な」再生産者と言う。というのは、ステュアートは、個々の資本家が商品をその価値よりも高く売ることによって彼らの手にはいってくる剰余価値をあたかも新しい富の創造であるかのように考える幻想を共有していないからである。〉 (草稿集⑤6頁、全集第36Ⅰ 8)

  また次のようにも述べています。

 〈資本の理解についての彼の功績は、特定階級の所有物である生産条件と労働能力とのあいだの分離過程が、どのようにして生じるかを指摘した点にある。資本のこの成立過程について、彼は、――それを大工業の条件としては理解しているとしても、まだそれを直接に資本の成立過程そのものとしては理解することなしに――大いに論じている。彼は、この過程を特に農業において考察している。そして、彼においては、正当に、農業におけるこの分離過程によってはじめてマニュファクチュア工業〔manufacturerIndustrie〕がそのものとして成立する。この分離過程は、A・スミスの場合にはすでに完成したものとして前提されている。〉 (草稿集⑤10-11頁、全集第36Ⅰ 11)

 [AN9]「剰余価値または利潤は、まさに商品価値が商品の費用価格を越える超過分なのである。すなわち、商品に含まれている総労働量が商品に含まれている支払労働量を越える超過分なのである。だから、剰余価値は、それがどこから生まれるにせよ、とにかく前貸総資本を越える超過分である。」 (『資本論』第三巻全集第25a53)

 [AN10]  マルクスは『経済学批判』では次のように述べています。

  〈アリストテレスは『政治学』第1巻、第9章で、流通の二つの運動W-G-WとG-W-Gとを「オイコノミケー」〔経済術、家政術〕と「クレーマティスティケー」〔貨殖術〕という名で対立させて説いている。〉 (全集第13116)

  また『経済学批判・原初稿』では次のようにも書かれています。

  〈アリストテレス(19)は、流通形態W--――この形態では貨幣は尺度と鋳貨として機能するだけである、この運動を彼は家政術の形態〔die ökonomische Form〕と呼んでいる――を自然的かつ理性的形態とみなしているが、形態G-W-G、つまり殖財術の形態〔die chrematistische Form〕のほうは反自然的で〔貨幣の〕目的に反するものときめつけている。ここで彼が論難していることは、交換価値だけが流通の内容となり流通の自己目的となること、交換価値そのものの自立化にほかならない。つまり価値そのものが交換の目的となり、さしあたりはまだ貨幣という単純で手につかむことのできる形態においてではあるが、自立的形態を受けとることにほかならない。買うために売ること〔においては〕使用価値が目的であるが、売るために買うこと〔においては〕価値それ自体が目的である。〉 (草稿集③160)(なお付属資料にある訳注(19)も参照)

 [AN11]〈自分の貨幣に、すなわち貨幣の形態で所有している価値に、過程G-W-Gを通過させるのは、貨幣所有者(あるいは商品所有者――というのは、貨幣はもちろん商品の転化した姿にすぎないのだから――)である。この運動が彼の活動の内容であり、したがってまた彼はただ、資本――さきのように定義される資本――の人格化として、資本家として現われるにすぎない。彼の人格(あるいはむしろ彼のふところ)はGの出発点であり、またそれは復帰点である。彼はこの過程の意識ある担い手である。この過程の結果が価値の維持と増加――価値の自己増殖――であるのと同じく、運動の内容として現われるものが、彼にあっては意識された目的として現われる。つまり、彼が所有する価値の増加が、一般的形態での富の・交換価値の・たえず増大する取得が、彼の唯一の目的として現われるのであり、また、この増加、取得が彼を駆りたてる唯一の動機として現われるかぎりにおいてのみ、彼は資本家、すなわち運動G-W-Gの意識ある主体なのである。だから、けっして使用価値が彼の直接的な目的だと考えてはならないのであって、そう見ることができるのはただ交換価値だけである。彼がみたす欲望は、致寓そのものなのである。さらにそれと同時に、彼が現実的な富への、使用価値の世界への自分の指揮権を不断に増加させることも、自明である。というのは、労働生産性の程度がどうであろうと、ある所与の生産段階では、より大きな交換価値はより小さな交換価値よりも、つねにより大きな量の使用価値として表わされるからである。〉 (『61-63草稿』 草稿集④22頁)

 [AN12]ここで言われている、資本家の唯一の目的が利潤の獲得であって、それだけが彼らの唯一の推進動機であるということ――ここで「唯一」というのは文字通りの意味であって、決して強調するための単なる修辞ではありません――、あるいは彼らの目的は使用価値ではなく、利潤だけだという指摘は、第3巻第2篇の価値の生産価格への転化のときに重要な契機として問題になってきます。価値どおりの価格が平均価格になるのは、それが使用価値を目的にした需給によるのに対して、生産価格は利潤の獲得だけを唯一の目的にした諸資本の競争によって決まってきます。その結果、第2巻までの価値法則は第3巻において転倒させられるのです。転倒というのは価値法則が否定されるのではなく、その現象形態が変容するということです。こうした転倒は、資本主義的生産様式の直接的な諸形象の一つですが〔剰余価値が利潤として現れるのも同じ〕、資本が利潤を唯一の推進動機とも規定的目的ともするところから生まれているのです。

(大阪『資本論』学習資料No.26(通算第76回)2021.11.18

 [AN13]  だから貨幣は、富、富の一般的形態として、つまり価値として適用する価値としてこれを確保しておくとすれば、自分の量的制限をのり越えて進んでゆこうとする不断の衝動、無限の過程なのである。貨幣自身の生命力はただひとえにこうした無限の過程にある。つまり貨幣が使用価値から区別されて対自的に通用する価値として自分を保持するのは、ただ貨幣が交換過程それ自体を通じてたえず自分を倍増してゆくことによってだけなのである。能動的価値は、剰余価値を定立する価値だけである。交換価値としての唯一の機能は、交換それ自体である。だから貨幣蓄蔵の場合のように、貨幣を〔流通から〕引き揚げることによってではなく、この〔交換という〕機能のなかでこそ貨幣は増大しなければならない。貨幣蓄蔵においては、貨幣は貨幣としての機能をはたきない。蓄蔵貨幣として引き揚げられてしまえば、貨幣は交換価値としても使用価値としても機能しないから、それは死んだ、不生産的な蓄蔵貨幣である。そのような貨幣そのものからはいかなる行為も始まらない。……

  流通から適合的な交換価値としてその結果として生じ、自立化しはするが、ふたたび流通のなかに入り込んで、流通のなかでまた流通を通じて自分を永続化するとともに白分の価値を増殖(倍増)しもする貨幣これが資本である。貨幣は、資本においては、その不動性を失っており、一つの手につかむことのできる物から一つの過程へと転じている。貨幣および商品そのものも、また単純流通それ自体も、資本にとっては、資本が定在するための特殊的抽象的諸契機として存在しているだけである。資本はたえずそれらの諸契機の姿をまとって現われては、またたえず消えてゆき、一方の契機から他方の契機へと移行してゆく。〉 (『経済学批判・原初稿』 草稿集③178-179)

 [AN14]〈商品と貨幣との統一として措定された交換価値は資本であり、またこの措定する働きそれ自体が資本の流通として現われる。(この流通はしかし、螺旋であり、拡大してゆく曲線であって、単純な円環ではない。)〉 (『経済学批判要綱』 草稿集①314頁)

 [AN15]〈貨幣蓄蔵では――ここではこれが思い出されるかもしれないが――、価値は自己を増殖しない。商品は貨幣に転化され、売られ、そしてこの姿で流通から引き上げられ、貯()めこまれる。まえには商品の形態で存在していたのと同じだけの価値量が、いまでは貨幣の形態で存在する。商品はその価値量を増加させてはいない。商品はただ、交換価値の一般的形態である貨幣形態をとっただけである。これは単なる質的な転換であって、量的な転換ではない。

  だが、ここ〔G-W-G〕では商品は、すでに過程の出発点として、まえもって貨幣の形態に置かれている。商品はむしろ、この形態を一時的に捨てるのであって、それは、増加した価値量として最後にふたたびこの形態をとるためである。……つまり、自己を増殖する価値、すなわち資本のこの関係は、貨幣蓄蔵とは、両者ともに交換価値にかかわりがある――といっても貨幣蓄蔵は幻想的な手段を用いて交換価値を増加させようとするのであるが――、ということ以外にどんな共通点をももってはいないのである。〉 (『61-63草稿』 草稿集④19-20頁)

 [AN16]※初版ではこの文節の最後に次の一文が入っています。

G-G'、貨幣を産む貨幣――(money which begets money は、資本の最初の通訳である重商主義者が口にする資本の描写を、物語っている)――は、じっさいのところ、価値を産む価値の、自分自身を増殖する価値の、直接的な現象形態にほかならない。(『資本論初版』 江夏訳、154頁)

 [AN17]フランドル地方(ベルギーの)では、肥料や干し草はオランダからこれらの地方に輸入される。(亜麻栽培などのために。そのかわりに、これらの地方は亜麻や亜麻の種子〔亜麻仁〕などを輸出する。)オランダの諸都市の廃物は、貿易の対象物であり、定期的に高い価格でベルギーに売られる。シェルト河をさかのぼってアンベルスからおよそ20マイルのところに、オランダから運びこまれる肥料の貯蔵所を見ることができる。その貿易は、資本家たちの一会社によってオランダの船で営まれている云々。(バンフィールド。) こうして、肥料、普通の糞尿でさえ取引物品となった。(『経済学批判61-63草稿』草稿集⑥17頁)

 [AN18]マルクスのとらえ方も基本的にはヘーゲルのそれと同じといえます。マルクスは「実体」について『経済学批判要綱』では次のように述べています。

〈資本は交互に商品および貨幣になるが、しかし(1)資本それ自体がこの二つの規定の交替なのであり、また(2)資本は商品になるが、あれやこれやの商品になるのではなく、諸商品の一つの総体になるのである。資本は、実体にたいして無関心ではないが、規定された形態にたいしては無関心である。この側面からすれば、資本は、この実体のたえまない変態〔Metamorphose〕として現われる。〉 (草稿集①307)

そして「主体」については同じ『要綱』の序説で次のように述べています。

〈頭脳のなかで思想の全体として現われるような全体は、思考する頭脳の産物であり、この思考する頭脳は、自分に唯一可能な様式で世界を自己のものとするが、その様式は、この世界を芸術精神的に、宗教精神的に、実践精神的に自己のものとするのとは異なった様式である。実在的な主体は、あいかわらず頭脳の外で、その自立性を保って存立しつづける。すなわち頭脳がただ思弁的にだけ、理論的にだけふるまうかぎりでは、そうなのである。それゆえ理論的方法のばあいも、主体である社会が、前提としていつでも表象に思い浮かべられていなければならない。〉 (草稿集①50-51)

〈一般に、どんな歴史科学、社会科学をとってもそうであるように、経済学的諸範疇の歩みのばあいにも、次のことがつねに堅持されなければならない。すなわち、現実でと同じように頭脳においても、主体が、ここでは近代ブルジョア社会があたえられているということ、それゆえ諸範疇は、この一定の社会の、この主体の定在諸形態、実存諸規定を表現しており、しばしばただこの一定の社会の個々の側面だけを表現しているということ、そしてそれゆえにこそ、近代ブルジョア社会は、科学のうえでもまた、そのままのものとしての近代ブルジョア社会が問題となるところではじめて始まるものではけっしてないということである。〉 (59)

このように主体は近代ブルジョア社会そのものとして捉えられています。

大阪 『資本論』学習資料No.26(通算第76回)2021.11.18

 [AN19]真理をめぐる一切に関する重要な点は、真理を「実体」としてではなく、「主体」としてもとらえ、表現することである。……

生きた実体こそ、真に主体的な、いいかえれば、真に現実的な存在だが、そういえるのは、実体が自分自身を確立すべく運動するからであり、自分の外に出ていきつつ自分のもとにとどまるからである。実体が主体であるということは、そこに純粋で単純な否定の力が働き、まさにそれゆえに、単一のものが分裂するということである。が、対立する動きはもう一度起こって、分裂したそれぞれが相手と関係なくただむかいあって立つ、という状態が否定される。こうして再建される統一、いいかえれば、外にでていきながら自分をふりかえるという動きこそが――最初にあった直接の統一とはちがう、この第二の統一こそが――真理なのだ。真理はみずから生成するものであり、自分の終点を前もって目的に設定し、はじまりの地点ですでに目の前にもち、中間の展開過程を経て終点に達するとき、はじめて現実的なものとなる円環なのである。〉 (ヘーゲル 『精神現象学』 長谷川宏訳、作品社、1998年、11頁)

 [AN20]●利子生み資本

「GーG'――ここに見られるのは、資本の本源的な出発点である貨幣であり、また、両極G-G'に短縮された定式G-W-G'より多くの貨幣をつくりだす貨幣である(つまり、G-G+ΔG)。それは、一つの無意味な要約に収縮させられた、資本の本源的かつ一般的な定式である(短縮された定式)。それは、完成した資本、生産過程と流通過程との統一、したがって一定の期間に一定の剰余価値を生むものである。利子生み資本の形態では、これが直接に、生産過程および流通過程の媒介なしに現われている。商人資本では、利潤は交換から出てくる{だからまた、収奪利潤}ように見え、したがっていずれにせよ、物からではなくて社会的な関係から出てくるように見える。資本および利子では、資本が、利子の、自分自身の増加の、神秘的かつ自己創造的な源泉として現われている。物(貨幣、商品、価値)がいまでは物として資本であり、また資本はたんなる物として現われ、生産過程および流通過程の総結果が、物に内在する属性として現われる。そして、貨幣を貨幣として支出しようとするか、それとも資本として賃貸ししようとするかは、貨幣の所持者、すなわちいつでも交換できる形態にある商品の所持者しだいである。それゆえ、利子生み資本では、この自動的な物神、自分自身を増殖する価値、貨幣をもたらす(生む)貨幣が完成されているのであって、それはこの形態ではもはやその発生の痕跡を少しも帯びてはいないのである。社会的関係が、物の(貨幣の)それ自身にたいする関係として完成されているのである。」(『資本論』 第3部第24章該当部分の草稿 大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』 第1332-334頁)

●古代の利子生み資本

「資本のもう一つの形態は、同様に非常に古いものであり、また通俗的な見解はこの形態から自分の資本概念をつくりあげたのであるが、それは利子を得るために貸し付けられる貨幣の形態であり、利子生み貨幣資本の形態である。ここでわれわれが見るのは、貨幣がまず商品と交換され、ついでその商品がより多くの貨幣と交換されるという、運動G-W-Gではなく、運動の結果、すなわちG-Gだけである。貨幣はより多くの貨幣と交換される。それはその出発点に復帰するが、しかし増加する。それは最初は100ターレルであったが、いまではそれは110ターレルである。それは――100ターレルで表示された価値は――自己を維持し、そして自己を増殖した、すなわち10ターレルの剰余価値を生んだ。社会の生産様式がいかに低いものであろうとも、またその経済的構造がいかに未発展であろうとも、われわれはほとんどすべての国々、歴史的時代に、利子生み貨幣を、貨幣を生む貨幣を、したがって形態の上では、資本を見いだすのである。」(『61-63草稿』 草稿集④40頁)



第4章第1節PDFファイル ↓
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