第3節 シーニアの「最後の一時間」
マルクスのシーニア批判における中心的なテーマは、シーニアの「最後の1時間理論」("last
hour" theory)の批判にある。この理論は、利潤が労働者の労働の最後の1時間で生まれるとするもので、マルクスはこれを鋭く攻撃した。このシーニアの理論は、資本家の利益を正当化するために、労働者が剰余価値作り出す過程を歪めているとするものである。
1.1836年のある朝、イギリス経済学者で、その学識と名文で有名な、ナッソー・W・シーニアは、オックスフォードで経済学を教えていたが、その経済学をマンチェスターに学びにくるようにと招かれた。工場主たちは、新たに公布された工場法となおそれを越えて進んで行く10時間労働制運動とに対抗する弁護人として、彼を選んだのである。しかし、工場主たちは現場の実務家の感覚からして、この教授には「かなりの現場教育が必要だ」("wanted a good deal of finishing")ということを見抜き、マンチェスターに呼び寄せた。この教授は、工場主たちから受けた(ブルジョア的立場を徹底する)講習を、生き生きとした文体で、『綿業に及ぼす影響から見た工場法にかんする書簡』(ロンドン、1837年)というタイトルのパンフレットに仕上げた。それは、次の一節からもわかるように、興味を引く読み物である。
※ シーニア Nassau William Senior(1790~1864)イギリスのブルジョア俗流経済学の代表者。……1833年、救貧法委員会に入って報告書の作成に参与し、また救貧法改正法を起草、……シーニアの時代は、リカードの労働価値説およびそれを基礎とする資本主義の説明を中心とする論戦が白熱化し、リカードの権威が高くなって行った時期であった。そのなかに出て、シーニアは有名な「節欲説」を提唱し、資本家が取得する利潤を労働者の剰余労働からではなくして、資本家の節欲にたいする報酬として説明しようとした。シーニアはこの節欲説をはじめて明確に定式化した人とされており、彼の後にミル(J.S.Mill)、マーシャル(A.Marshall)など多数の人がこれを祖述している。……マルクスはシーニアを俗流経済学者――ブルジョア的生産諸関係の内部的関連を探究した古典派の経済学者たちと異なって、科学的な経済学によってすでに久しい以前から供給されてきた材料を、いわばもっともあらけずりの現象をもっともらしくわからせるということのために、またブルジョアの自家用のために、絶えずくり返し反芻し、そのさいただブルジョア的な生産当事者たちが自分たちの最良と考えている世界について抱いている平凡でうぬぼれた観念を体系化し、小理屈づけ、永遠の真理として宣言するだけに終っているもの――の一人と見、またブルジョア経済学者――資本主義的秩序を生産の歴史的に経過的な発展段階としてでなしに、むしろ反対にそれの絶対的終極的な姿として把握する――と見ていた(KⅠ-460)。
マルクスはシーニアの〈節欲説〉および〈最終一時間説〉を痛烈に批判しており。またそのほかにもつぎの諸点を批判している。……以下略(『資本論辞典』497-498頁)
※ 工場法 18世紀末期から19世紀にかけて(1760年代から1830年代にかけて)、イギリスで産業革命が起こり、児童労働の強要、成人労働においても労働時間が1日12時間以上となるなど、労使関係のなかで、労働者は、生命や体力を搾取され、労働者の健康保持が課題となってきた。そこで、労働者は資本家に対する反抗をし始め、政府は、1833年に工場法を制定。この制定においては、グレイ内閣の庶民院院内総務オルソープ子爵の主導で工場法を制定し、児童労働の労働時間制限を設けた。また法案の実行力を確保するために工場監察官も設けた。1844年、1847年、1867年、1874年にわたって労働日・時間の短縮と少年婦人労働の制限などを柱に、下記のとおり改正された。
•1833年制定時…9歳未満の児童の労働を禁止。9歳~18歳未満の労働時間を週69時間以内に制限。その監督をする工場監察官の配置を義務化(任命)。•1844年改正…女性労働者の労働時間を18歳未満の労働者(若年労働者)なみに制限。•1847年改正…若年労働者と女性労働者の労働時間を1日あたり最高10時間に制限。(以下略);wikiwand
「現行法のもとでは、18歳未満の人員を使用する工場は、1日に11時間半、すなわち週初の5日間は12時間、土曜は9時間よりも長く作業することはできない。ところで、次の分析(!)は、このような工場では純益の全部が最後の1時間から引き出されているということを示している。」(計算では便宜上、労働時間を平均している。➡週69時間/6日=平均1日11.5時間労働)
注32 ここで〈珍説〉と述べているのは、先に紹介したシーニアの主張のなかの「1/23、すなわち総収益(!) 15,000のうち5,000ポンド・スターリングは、工場と機械類との損耗を補塡する」という部分のこと。要約の中の「しかしその総利得1.5万ポンドの内、0.5万ポンドは工場・機械設備の摩滅補塡にあてられる」という部分。つまりシーニアは工場や機械設備の損耗を補塡する部分を総収益、つまり利益から支出されるものと考えているのですが、もちろんこれは不変資本部分の補塡部分であり、決して利潤あるいは剰余価値から補塡されるわけではない。しかしそうした間違いには、とりあえずは拘泥しないとマルクスは述べる。
ホーナーの『工場監督官報告書』は、次の第8章「労働日」のなかでいろいろと紹介されている。
ホーナー Leonard Horner(1785-1864)イギリスの地質学者・教育者.ウィッグ党の政治家で地金委員会委員長であったフランシス・ホーナー(Francis Horner、1778-1817)の弟。……1833年、児意雇用調査委員会委員長となり、1844年の工場法いらい主工場検査官として活動し、労働者の利益の献身的で清廉な擁護者であった。マルクスは彼が1859年まで工場検査官として、激怒した工場主や大臣たちを相手に生涯にわたり闘争をつづけ、イギリス労働者階級のため不朽の功績をたてたと高く評価している。そして彼の主に労働者の状態にかんする工場検査官報告書および諸提案を、自己の主張を裏づける資料として『資本論』第1巻の随所で利用している。;『資本論辞典』553頁
注32への補足 シーニアの言っていることは、内容のまちがいは別としても、混乱している。彼がほんとうに言おうとしたのは、次のようなことだった。
工場主は毎日労働者を11時間半または23の半労働時間だけ働かせる。1個の労働日と同様に、年間労働も11時間半または23の半労働時間(に年間労働日数を掛けたもの)から成っている。このことを前提すると、23の半労働時間は割合として115,000ポンド・スターリングの年間生産物を生産する(対応する)と考えることができる。
一つの半労働時間(30分の労働)は1/23×115,000ポンド・スターリング=5,000ポンド・スターリングを生産する。
20の半労働時間(10時間)は、20/23×115,000=100,000ポンド・スターリングを生産するが、これは前貸総資本の100,000ポンド・スターリングを補塡する。
あとの3つの半労働時間(90分)が残り、それは3/23×115,000=15,000ポンド・スターリングとなり、これが総収益になる。
この3つの半労働時間(90分)のうち、一つの半労働時間(30分)は1/23×115,000ポンド・スターリング=5,000ポンド・スターリングを生産する。すなわち、それはただ工場や機械類の損耗の補塡分を生産するだけである。
最後の二つの半労働時間、すなわち最後の1労働時間(1時間)は、2/23×115,000=10,000ポンド・スターリング、すなわち純益を生産する。本文では、シーニアは生産物の最後の2/23を労働日そのものの諸部分に変えているのである。
※ このように生産物の比例配分的諸部分による生産物価値の表現は、こうしたブルジョアやその御用学者たちの粗雑な考え方を裏付けることにも役立つわけです。しかしいうまでもなく、労働者は1労働日に生産する生産物の価値をすべて生産するわけではありません。労働者が1労働日に生産する生産物価値と価値生産物とは異なるのです。それが彼らには分かっていないのです。だからこのような奇妙な「分析」がまことしやかに論じられることになるわけです。
シーニアの挙げている数値では原料と労賃が流動資本として一括りにされて論じられ20,000ポンドとされているために、可変資本がどれだけかはわからなくなっています。剰余価値は10,000ポンドと分かりますが、しかし剰余価値率(搾取率)はわからないのです。だからまた価値生産物も計算できないことになっています。しかし労賃は彼らにも分かるはずですが、彼らには生産物価値しか見えていないし、内在的関係をそもそも問題にしていないから、それを明記する必要もなかったというわけです。;大阪『資本論』学習資料No.33(通算83回)2023.3.1
2.これがシーニアの「分析」である。もし彼が、「労働者が1日のうち最良の時間(シーニアの数値では10時間)を建物や機械や綿花や石炭などの価値の生産に、つまり、最初に投じた資本の補塡に費やす」という工場主たちの言い分をそのまま信じる(現象を現象のままに記述する)のなら、初めから分析などは不要だった。彼はこう答えるだけでよかったのだ。「労働時間が1時間半減るということは、(生産物価値が1時間半分減るが、)綿花や機械などの毎日の消費が1時間半相当分(15,000ポンド・スターリング)減る(前貸資本が1時間半相当分減る)ということだ。そして労働者は前貸資本価値が減った分だけその再生産または補塡のために1時間半だけ少なく労働(彼らは資本価値を補塡する労働を浪費と考える)する。」、と。彼らは生産で失う分、浪費を減らすことで得ることになる。つまり、失うのとちょうど同じだけを得るのだと。
※ ……滑稽なやり方ではあるが、シーニアはマルクス自身の理論化を確認してもいる。すなわち、資本家にとって決定的な価値を持っているのは労働者の時間だということである。だからこそ、資本家は12時間労働をこれほど必死になって維持しようとするのである。労働者の時間を支配するための闘争は、利潤の源泉そのものに関わる中心的位置にあり、これこそまさにマルクスの剰余価値論が提起していることなのである。このことは、価値を社会的必要労働時間として規定するマルクスの定義の妥当性を再確認している。;ハーヴェイ『〈『資本論』〉入門』205-206頁
もしシーニアが工場主たちのいいなりではなく、科学的に分析しようとするなら、原料と労賃を流動資本として一括りにせずに、工場建物や機械類や原料を不変資本として一方におき、他方に、労賃を可変資本として区別して、前貸資本を考えるべきだ(移転される価値と、生み出される価値を区別するということ)。
そのうえで、工場主たちの計算で労働者が二つの半労働時間(2×1/2)で、すなわち1労働時間で労賃を再生産または補塡するということを言い出したら、次のように続けるべきだった。
3.労働者は最後から2番目の1時間で自分の労賃を生産し、最後の1時間で諸君の剰余価値また純益を生産するとブルジョア諸君は言う。もちろん労働者は同じ長さの時間では同じ大きさの価値を生産する。だから、最後から2番目の1時間の生産物も、最後の1時間の生産物も同じ価値を持つ。
※ シーニアの「分析」では労賃は不明だったが、第2パラグラフでマルクスは「工場主たちの計算では労働者は2/2労働時間、すなわち1時間で労賃を再生産または補塡するということにでもなったなら」と書いている。つまりシーニアの挙げている数値ではわからなかったが、仮に労賃が最後から2番目の1時間労働で補塡され、最後の1時間で工場主たちのいう純益(剰余価値)が生産されるとするなら、当然、この2番目であろうが、1番目であろうが、同じ1時間は同じ価値を生産する。つまりどちらも115,000ポンド(1日)×2/23(半時間)=10,000ポンドという同じ価値を持っていることになる。
さらに、労働者が価値を生産するのは、ただ彼が労働を支出するかぎりでのことであり、彼の労働の量は彼の労働時間で計られる。それは、1日に11時間半であり、この11時間半相当の価値を生産する。その中の一部分で、彼は自分の労賃の生産または補塡を行い、他の部分で資本家の純益(剰余価値)を生み出す。これが彼の1労働日のすべてである。
ところが、工場主たちの陳述によると(第2パラグラフ)、彼の賃金と彼の提供する剰余価値とは同じ大きさだと言うのだから、明らかに彼は自分の労賃を5・3/4(11.5/2=5.75)時間で生産し、そして資本家諸君の純益をもう一方の5・3/4時間で生産する。
さらに、2時間分の糸生産物の価値は、「労働者の労賃+諸君の純益」という価値額に等しいのだから、この糸の価値は11・1/2労働時間で計られる。つまり最後から2番目の1時間の生産物は5・3/4労働時間で計られ、最後の1時間の生産物もやはりなお5・3/4労働時間で計られていなければならない。
※ 彼らの計算によると最後の2時間分の糸生産物の価値は、労働者の労賃を補塡し、残りは彼らの純益になるのだった。それらは実際には11時間半分の労働が対象化されたものである。つまり2時間の生産物の価値が11時間半の労働の対象化されたものだという奇妙なことになってしまう。
よく考えてみよう。最後から2番目の1労働時間も、どれも普通の1労働時間であり、同じ価値を対象化する。では、どうして紡績工は、5・3/4労働時間(つまり半労働日)を表わす糸価値を1労働時間で生産することができるのか?
しかし、労働者は実際にはそんな奇跡は行なわない。彼が1労働時間で使用価値として生産するものは、一定量の糸であり、その価値には5・3/4労働時間が対象化されている。しかしそのうちの4・3/4は、毎時間消費される生産手段、つまり綿花や機械類などの価値が生産物の価値へと移転され含まれている。そして、残りの1時間分だけが彼自身の労働によって新たにつけ加えられたものである。つまり彼の労賃は実際には5・3/4時間で生産され、また1紡績時間の糸生産物もやはり5・3/4労働時間を含んでいる。したがって、彼の5・3/4紡績時間の価値生産物が1紡績時間の生産物価値に等しいということは、けっして魔術などではない。
※ 生産物価値はその移転される生産手段の価値だけ新たに生産される価値生産物よりも大きいのは当然のことである。だから1紡績労働時間の生産物の価値のうちには、1紡績労働時間で付加される新価値だけではなくて、移転された生産手段の旧価値(4・3/4労働時間)も含んでいる。だからこそ、それは5・3/4労働時間の対象化された生産物となる。ここには魔術などはまったく存在しない。無知なおべっか使いの幇間がいるだけである。
ところで、もし工場主たちが、綿花や機械類などの価値の再生産または「補塡」のために労働者が労働時間のただの一瞬でも費やしていると考えるなら、それはまったくの思い違いである。労働者が綿花や紡錘を糸に変える労働、つまり紡績労働をすることにより、綿花や紡錘の価値はひとりでに糸に移るのである。これは彼の労働の質(具体的な特殊な有用な性質)の働きであって、その量(抽象的人間労働-時間)によるものではない。
労働者は1時間では半時間よりも多くの綿花価値などを糸に移す。しかし、それはただ彼が1時間では半時間よりも多くの綿花を紡ぐからである。労働はどこをとっても同じ労働の継続なのである。だから、ブルジョア諸君にも分かるはずだ。労働者が最後から2番目の1時間で彼の労賃の価値を生産し最後の1時間で純益を生産するという君たちのドグマは、労働者の労働は時間によってその意味が変わると言うに等しい。しかし、そんなことはありえない。労働者による2時間の糸生産物には、その2時間が最後であろうが最初であろうが、労働者が自分の労賃部分(可変資本部分)を補塡し、剰余価値を生産する時間が含まれており、それは1労働日の労働時間、つまり11時間半の労働時間が対象化されたものなのである。そして、労働者は前半の5・3/4時間では自分の労賃を生産し後半の5・3/4時間では諸君の純益を生産するということの意味もまた、諸君は前半の5・3/4時間には支払うが後半の5・3/4時間には支払わないというたわごと以外ではない。
ここでマルクスは自分が労働への支払いと述べて、労働力への支払いと言わないのは、ブルジョアたちにも分かるような俗語(slang)で話しているからだ、と断りを入れている。
※ 「* 私は、不払労働/支払労働という表現を、すでに剰余価値率の最初の検討のさいに用いたが、それは用いられるべきではない。というのは、この表現は、労働能力への支払いでなくて、労働量への支払いということを前提にしているからである。不払労働は、ブルジョア自身の用語であって、普通でない超過時間をさしているのである。」(『資本論草稿集』⑨『資本論61-63草稿』339頁)
では、ブルジョアの諸君が代価を支払う労働時間と支払わない労働時間との割合を比べてみると、諸君はそれが半日対半日、つまり100%(支払わない労働時間/支払う労働時間)であるのを見いだす。これはなかなか悪くない割合である。
工場主たちが支払う労働時間=労働者に賃金として支払う部分=必要労働時間
工場主たちが支払わない労働時間=つまり資本家が純益として自分の懐に入れる部分=剰余労働時間
※ 資本家は「総収益が15%になるものと前提」して計算していた(第一段落:資本10万ポンドは年間売上高11.5万ポンドを生む)が、とんでもない。労働者から搾り取る割合は何と100%(剰余価値率=剰余労働時間/必要労働時間)である。
シーニアが想定したように、もし工場主が労働者に11時間半ではなく、13時間労働を強いるとしたら、労働者は5・3/4時間の剰余労働時間にさらに1時間半の剰余労働をつけ加えることになり、合計7・1/4時間の剰余労働になる。剰余価値率は100%から、7・1/4÷5・3/4×100=126・2/23%となる。つまり1時間半の追加労働で26%以上の剰余価値率(搾取率)が増える。そして資本家は間違いなくそうする。
ところが、もし諸君が、1時間半の追加によって剰余価値率が100%から200%に、また200%より高くさえもなるだろう、すなわち「2倍より多くなる」だろう、と期待するとするなら、それは楽天的に過ぎる。
反対に、「もし労働時間が毎日1時間だけ短縮されるならば純益はなくなる」などと悲観してみせるが、しかし1労働日が11時間半から10時間半に短縮し、必要労働時間は変わらないとするなら、剰余労働時間は5・3/4時間から4・3/4時間に減る。しかし、「純益」(剰余価値)はゼロにはならないし、剰余価値率は4・3/4÷5・3/4×100=4.75÷5.75×100≒82・6%となる。100%よりは低いが、まだまだ十分な大きさである。
※ シーニアの「最後の1時間理論」とは、工場労働者が働く一日のうちの最後の1時間が資本家にとって最も重要であり、その最後の1時間で資本家が利潤を得ると主張するものであった。彼の理論によれば、もし労働時間が1時間短くなると、資本家は利潤を失い、損失を被ることになるという。この理論は、利潤が労働者の生産的労働から直接生まれるのではなく、特定の時間帯に依存しているという前提に基づいていた。
ところで、あの宿命の「最後の一時間」について、ブルジョアたちは千年説の信者が世界の没落について語る以上の作り話を語ったが、それは「ただのたわごと」(“all bosh“)にすぎない。その1時間がなくなったからといって、資本家の「純益」がなくなったり、酷使されている少年少女たちの苦役が増加することはない。
※ 千年説(千年王国説)Millenarianism……近い将来にキリストが再臨し、千年統治した世界は終末に達するであろうという、キリスト教の神秘的な説。(新日本新書版『資本論』388頁)
注32a アンドルー・ユア Andrew Ure(1778-1857)イギリスの化学者・経済学者……彼の経済学上の主著には『工場哲学』(1835)がある。そこでは,当時の初期工場制度における労働者の状態が鮮細に記述されているのみならず、機械や工場制度や産業管理者にたいする惜しみなき讃美と無制限労働日のための弁解とが繰返されている。……彼の視点はまったく工場主の立場のみに限られ、一方ではシーニアと同じく工場主の禁欲について讃辞を呈するとともに、他方では断乎として労働日の短縮に反対する。そして1833年の12時間法案を‘暗黒時代への後退'として罵倒するのみならず、労働者階級が工場法の庇護に入ることをもって奴隷制に走るものとして非難する(KⅠ-284,314)というごとく露骨をきわめている。(『資本論辞典』572頁)
「工場の児童や18歳未満の少年」…訳者注 「工場法の規定で、13または14歳を基準に児童と年少者を区別し、その保護をはかるとされた」(新日本新書版『資本論』389頁)
最後の「のちには彼の名誉のために熱心に工場立法を支持したシーニア自身も、彼の当初および後年の反対者たちも、『最初の発見』のこじつけを解決できなかったということは、いわゆる経済「学」の今日の水準についても、やはりきわめて特徴的なことである。彼らは事実の経験に訴えた。why〔なぜ〕とwherefore〔なんのために〕とは、やはり不可解だったのである」という一文でマルクスは何を言いたいのでしょうか?
最初は10時間労働法や10時間労働運動に反対して有名な「最後の1時間」の発見をしたシーニアもその後は自身の名誉のために工場立法を支持したのだそうですが、しかしそのことは、彼の最初の主張に反対した人たちもそうですが、その「最後の1時間」のカラクリについて分からなかったのは同じだということです。それは「いわゆる経済『学』の今日の水準」を示しているというのですが、ここで「経済『学』」と学をカギ括弧で強調しているのは、学というのはヴィッセンシャフト(Wissenschaft)ということで、本来は科学と同義でなければならないわけです。つまりそれは学にも値しないということをこの学の強調は示しているわけです。結局、彼らは彼らの経験的に知りうる事実だけしか分からず、その内的な本質的な関係を問うことをしなかったのだと言いたいのでしょう。
2時間で生産される労働生産物の価値(これが生産物価値です)が1労働日の、すなわち11時間半の労働時間の対象化した価値(これが価値生産物です)と同じだというこの奇妙な謎を彼らは解き得なかったということです。つまり生産物価値(c+v+m)と価値生産物(v+m)の違いに誰も至らなかったということです。これが分かるためは不変資本と可変資本との区別や不変資本の価値を移転させる労働の二重性についても分かっていなければなりませんが、それらはすべてマルクスによって明らかにされたのであって、彼らが知らなかったのはある意味では当然だったと言えるでしょう。;大阪『資本論』学習資料No.33(通算83回)2023.3.1
● 利潤(すなわち剰余価値)は労働者の労働の全過程を通じて生み出されるものであり、特定の時間帯に限られたものではない。マルクスはシーニアの理論が資本家の利益を正当化するために不当な理論を構築しているとし、資本主義の搾取構造を覆い隠そうとしていると批判している。労働者は自らの労働を通じて資本家に剰余価値を提供しており、資本主義経済において資本家が富を蓄積するのはこの剰余価値の搾取によるものだからである。
シーニアの理論は、この搾取のメカニズムを隠すために、労働時間の中の特定の時間帯に焦点を当てているのであり、その点が批判の中心である。
『資本論』の中で、このシーニア批判は資本主義における搾取の本質を明らかにするための具体例の一つとして位置づけられている。マルクスはシーニアのような経済学者たちが、資本主義の構造的な問題を正当化するために虚偽の理論を展開し、労働者の搾取を隠蔽しようとしていると見ていた。したがって、シーニア批判とは単に個別の経済理論への反論にとどまらず、資本主義の本質を暴露するための重要な要素なのである。
マルクスのシーニア批判は、資本主義における搾取の隠蔽を批判し、労働者が生み出す剰余価値の重要性を強調するものであり、これは『資本論』全体の剰余価値論や搾取理論の一環として重要な位置を占めている。
●[AN1] 注32aは、シーニアや彼の批判者たち、さらに後年の経済学者も含めて、「最後の1時間」説のカラクリを解明できなかったことを述べている。
事実(経験的観察):
10時間労働制が導入されても、工場主は破産せず、利益も消えなかった。(シーニアの警告は外れた)
本質的説明(理論的理解):
なぜそうなるのか? それは労働日全体の中で可変資本(v)と剰余価値(m)の関係がどうなっているか、不変資本(c)の価値移転がどう機能しているか、といった構造を理解しなければ説明できない。
しかし、シーニアやその批判者たちも、この「なぜ(why)」「どういうために(wherefore)」にあたる本質的構造までは考えなかった。その結果、現象を説明する理論には到達できなかったのである。
4「why」と「wherefore」の意味するもの
why:なぜそうなるのか(原因)
wherefore:そのために何なのか、何に資するのか(目的・理由付け)
マルクスはこの二つを並べることで、原因と目的(あるいは根拠)そのものが「不可解」なまま残っていたということを指摘している。最後の一文は、単にシーニア批判というよりも、当時の「経済学(と呼ばれるもの)」が、本質を問わない経験的記述にとどまっていたことを批判している。
つまり、「データや事実は追えるが、資本主義の価値構成や搾取のメカニズムといった内的必然性は見抜けない」という当時の経済「学」の限界を指摘している。
•「現象」を数字や統計として記述することはできる
•その延長で「予測」や「政策提言」もできる
•しかし、それらの背後にある価値の源泉や搾取の構造を問うと、資本主義の正当性自体が揺らぐ
➡だから、そこには触れずに経験則の域にとどまる
という自己規制が常に働いている。
「彼らは現象としての事実(経験)は知っていたが、その事実が生じる必然的な原因(why)や、それが意味する本質的な関係・目的(wherefore)は理解できなかった」という意味であり、当時の俗流経済学の水準が、経験的な記述に留まり、理論的に資本主義の内的構造を説明する能力を欠いていたことを批判している。マルクスがここで突いているのは、単なる19世紀の経済学者の限界というよりも、資本主義を所与の前提とする経済学が必然的に陥る構造的な限界である。つまり、単に「間違った理論」や「古臭い経済学」ではなく、資本主義という生産様式の枠内で成立する経済学の存在形態そのものである。現代の「俗流経済学」も、マルクスのいうwhyやwhereforeを封印したまま、現象の数値モデル化や予測だけで自己完結してしまっている──この批判はそのまま生きている。
彼は古典派の価値論を批判的に継承しつつ、それを資本主義の全体的・歴史的分析に発展させていく。そのため『資本論』は単なる経済理論ではなく、「経済学批判」=資本主義の学問的自己正当化の構造を暴くものになっている。だからこそ、彼は『資本論』を単なる経済学の一分野ではないという意味で、副題を「政治経済学批判Kritik der politischen Oekonomie」としているのである。
4.ここでマルクスは、シーニアの「最後の1時間」を皮肉っている。十時間法が成立したとき、工場主たちは、シーニアの「最後の1時間」を失い「最後のとき」を迎えるのだろうと。しかし注32で述べられているように、最後を迎えた工場主はいなかった。
1836年にシーニアによって発見された「最後の1時間」の警報は、12年後の1848年になっても10時間法に反対する経済高官の一人であるジェームズ・ウィルソンによって、『ロンドン・エコノミスト』誌上で繰り返された。
注33 とはいえ、シーニア教授もわざわざマンチェスターまで工場主のレッスンを聞きに行っただけの、いくらかは得るところがあったのだ。『工場法についての手紙』のなかでは、全純益、「利潤」と「利子」とおまけに「もう少しなにか」が労働者の支払われない1労働時間にかかっているのである!
つまり労働者の「最後の1時間」でブルジョア達が得た「総純益」、利潤と利子のほかに、おまけとして「もう少し何か」、つまりシーニアの懸賞論文に対する報奨金もやはりそこから支払われたのだろうとマルクスは皮肉を込めている。
シーニアはこの有名な「最後の1時間」が発見される1年前に『経済学概要』という俗物たちのための教科書を書いているが、そこではリカードの労働時間による価値規定に反対して、利潤は資本家の労働から、利子は資本家の禁欲(節欲)から生じるという「発見」をしていたという。
※ シーニアが「自分の収入を資本に転化させる者は、その支出が彼に与えるはずの享楽を節約するのである。」(『資本論』草稿集⑦31頁)と述べたように、資本家の利潤を労働者の剰余労働からではなくて、資本家の労働や彼らの節欲から説明するというのは、古いものです。というのは現象的には、資本家が蓄積をするためには、彼らが得た利潤の一部を個人的な消費に回すのではなく、新たな生産に投資する必要がありますから、資本の蓄積は資本家が自身の個人的消費を「節欲」することから生じるかのように見えるからです。;大阪『資本論』学習資料No.33(通算83回)2023.3.1
※ シーニアの最後の一時間」に対する批判は、したがって二重の意義を獲得する。一方では、マルクスにとってそれは、経済学者たちが資本家階級のために弁護論的論拠をつくり出そうとすることで陥る愚劣さの深みを明らかにするのに役立つとともに、他方では、シーニアの論争的議論によって暴露された基本的真理を提示するのに好都合な地点へと接近するのに寄与している。その真理とは、時間に対する支配こそ資本主義的生産様式における闘争の中心的ベクトルだということである。シーニアの「最後の一時間」を検討することは、したがって、次の章(第8章「労働日」)へと、すなわち資本主義的時間をめぐる議論へと巧みに移行するお膳立てをしているのである。;ハーヴェイ『〈『資本論』〉入門』206頁
◎第3節の意義 大阪『資本論』学習資料No.33(通算83回)2023.3.1
第3節 シーニアの「最後の1時間」は第2節の最後の「強欲がこのような奇跡を信ずるということ、また、この奇跡を証明する学者的追従者にもけっしてことかかないということは、いま、歴史的に有名な一つの例によって示されるであろう」という一文を受けて論じられています。
つまりシーニアこそ「この奇跡を証明する学者的追従者」の一人というわけです。シーニアの「最後の1時間」の問題は「歴史的に有名な一つの例」ということなのですが、この問題はあまり『資本論』の解説書の類でも取り上げられずに省略されるか簡単に触れられる程度で、一見するとそれはそれほど重要な問題ではないのかと思ったりします。
しかし解説のなかの「余談」でも述べましたが、こうした総生産物をいろいろな価値構成部分に分解するやり方は、資本家たちが日常的に実務上使っているものでもあり、それだけに現象的には誤った観念を植えつけるものでもあることを知ることは重要なことです。そこでそもそもこのシーニアの「最後の1時間」の問題はどんな意義があるのかということについて少し考えてみたいと思います。
マルクスはエンゲルスと交わした書簡のなかでこのシーニアの「分析」なるものを批判する部分の意義について論じているところがあります。その彼らの書簡のやりとりを紹介してみましょう。
1867年6月27日のエンゲルスのマルクスに宛てた書簡をまず紹介します。『資本論』初版の最初のあたり(第7章 剰余価値率ぐらいまで)の抜き刷りをマルクスがエンゲルスに送ったことに対するエンゲルスの感想が次のように述べられています。
157 エンゲルスからマルクス(在ロンドン)へ マンチェスター、1867年6月26日
剰余価値の発生についてはなお次のようなことがある。工場主は、そして彼とともに俗流経済学者は、すぐに君に異議を唱えてこう言うだろう。すなわち、資本家が労働者に彼の12時間の労働時間にたいして6時間分の価格しか支払わないとしても、そこからは剰余価値は生じえない、というのは、その場合には工場労働者の各労働時間はただ2分の1労働時間に等しいものとして、すなわちそれに、代価として支払われるものとして、計算されるだけで、ただそれだけの価値として労働生産物の価値のなかにはいるだけだからだ、と。それから次にその実例として普通の計算方式が続く。原料生産物としてこれだけ、損耗分としてこれだけ、賃金(実際の1時間の生産物当たりで実際に支出されるもの)としてこれだけ、等々。たとえこの議論がどんなにひどく浅薄だとしても、たとえそれがどんなに交換価値と価格とを、労働の価値と労賃とを、混同しているとしても、また、1労働時間に2分の1時間分だけしか支払われなければ1労働時間が2分の1時間としてしか価値のなかにはいらない、というその前提がどんなにばかげたものだとしても、僕が不思議でならないのは、どうして君がはじめからこれを顧慮しなかったのか、ということだ。なぜなら、君にたいしてすぐにこういう抗議がなされるということはまったく確かだし、これははじめから片づけておくほうがよいからだ。(ME全集第31巻260-261頁)
これに対するマルクスの返答です。
158 マルクスからエンゲルス(在マンチェスター)へ 〔ロンドン〕1867年6月27日
君が言及した俗物や俗流経済学者が当然抱くにちがいない疑念について言えば(彼らは、もちろん、彼らが支払労働を労賃という名で計算するときには不払労働を利潤などの名で計算しているのだ、ということは忘れているのだが)、それは、科学的に言いあらわせば、次のような問題に帰着するだろう。
商品の価値はどのようにして商品の生産価格に転化するのか。生産価格では、
(1) 全労働が労賃という形態のもとで支払労働として現れる。
(2) ところが、剰余労働は、または剰余価値は、利子や利潤などの名のもとに費用価格(不変資本部分の価格・ブラス.労賃)を越える価格付加という形態をとる。
この問題への答えは次のことを前提する。
Ⅰ たとえば労働力の日価値の賃金または日労働の価格への転化が述べられているということ。 これはこの巻の第五章でなされる。
Ⅱ 剰余価値の利潤への転化、利潤の平均利潤への転化、等々が述べられているということ。これはまた、資本の流通過程がまえもって述べられていることを前提する。というのは、そこでは資本の回転などがある役割を演じているからだ。だから、この問題は第三部ではじめて述べることができる(第2巻は第2部と第3部とを含む)。ここでは、俗物や俗流経済学者の考え方がなにから出てくるか、ということが明らかになるだろう。すなわち、それは、彼らの頭脳のなかではつねにただ諸関係の直接的な現象形態が反射するだけで、諸関係の内的な関連が反射するのではない、ということから出てくるのだ。もしも内的な関連が反射するとすれば、いったいなんのために科学というものは必要なのだろうか?
ところで、もし僕がいっさいのこの種の疑念をまえもって刈り取ってしまおうと思うならば、僕は弁証法的な展開方法をことごとくだめにしてしまうだろう。これとは反対に、この方法がもっている利点は、こいつらに絶えずわなを仕掛けて、それが彼らの愚かさの時ならぬ告白を挑発する、ということなのだ。
なお、君の手にあるうちの最後の部分、第三節「剰余価値の率」のすぐあとには「労働日」(労働時間の長さをめぐる闘争)という節が続くのだが、その取扱いは、ブルジヨアだんなが自分の利潤の源泉や実体を実地の上でどんなによく知っているか、ということを目に見えるように明らかにする。このことはシーニアの場合にも示されるが、そこではブルジョアは、自分の利潤や利子の全体が最終1時間の不払労働から生ずる、ということを断言しているのだ。 (ME全集第31巻262-263頁)
ここでエンゲルスが労働生産物について「原料生産物としてこれだけ、損耗分としてこれだけ、賃金(実際の1時間の生産物当たりで実際に支出されるもの)としてこれだけ、等々」と述べているものこそ、シーニアが総生産物の一部を工場建物や機械設備などを補塡するものとし、他の一部を原料および労賃を補塡するものと考え、残りを総収益に数え、さらにそこから損耗の補塡分を差し引いたものを純益として、それが「最後の1時間」で生産されるのだとした考えそのものなのです。
エンゲルスはそうした考えは「ひどく浅薄」で「混同」したものだとしても、そうしたものをどうしてマルクスは顧慮して、最初に「片づけて」おかなかったのか、と疑問を述べています。
それに対して、マルクスはエンゲルスが指摘するような「俗物や俗流経済学者が当然抱くにちがいない疑念について言えば……科学的に言いあらわせば、次のような問題に帰着する」と述べて、そうした問題は『資本論』の第3部で取り上げることができるのであって、そのためには『資本論』の第1部や第2部(資本の流通)などのさまざまな前提をまず論じておく必要があるのだと答えています。そして第3部では「俗物や俗流経済学者の考え方がなにから出てくるか、ということが明らかになるだろう」と述べて「すなわち、それは、彼らの頭脳のなかではつねにただ諸関係の直接的な現象形態が反射するだけで、諸関係の内的な関連が反射するのではない、ということから出てくるのだ」と述べています。
そしてそれらを「まえもって刈り取ってしまおうと思うならば、僕は弁証法的な展開方法をことごとくだめにしてしまうだろう」とも述べています。
そして最後に第8章の「労働日」について「ブルジョアだんなが自分の利潤の源泉や実体を実地の上でどんなによく知っているか、ということを目に見えるように明らかにする。このことはシーニアの場合にも示されるが、そこではブルジョアは、自分の利潤や利子の全体が最終1時間の不払労働から生ずる、ということを断言しているのだ」と述べています。
つまりブルジョア達自身は自分達の利潤の源泉については実践的には、明確に理解しながらシーニアの「最後の1時間」のような出鱈目を叫んでいるのだということです。つまりそれは資本家の得る利潤が自分たち労働や節欲等々によってではなく、労働者から搾り取ることから生まれてくるということを彼らは明確に分かっているのであり、それを「労働日」の章では目に見えるように暴露するのだと述べているのです。そして同じことはシーニアの「最後の1時間」の問題でも示されるのだとも述べています。
彼らは「最後の1時間」でこそ自分たちの純益が得られるのだから、労働時間の短縮はその純益が失われて大欠損に陥るかに大騒ぎしたが、しかしそれは「10時間労働法」や10時間労働運動に反対するためのでたらめな方便であり、実際には彼らは「自分の利潤の源泉や実体を実地の上ではよく知っている」のだということです。
だから第7章の第3節はブルジョアやその御用学者たちの表象に捉えられる現象形態を論じているという点ではやや特異な性質を持っています。そしてその「最後の1時間」のカラクリをそれまでの展開で解明した本質的な諸関係において解きあかすというものなのです。
その意味では同じような性格を持つ次の第8章「労働日」にも通じるものでもあるといえるでしょう。
第4節 剰余生産物
1.生産物のうち剰余価値を表わしている部分(第2節の例では20ポンドの糸の10分の1、すなわち2ポンドの糸)を私たちは剰余生産物(surplus produce, produit net)と呼ぶ。
「紡績工の12労働時間は6シリングに対象化されるのだから、30シリングという糸価値には60労働時間が対象化されている。それは20ポンドの糸となって存在するのであるが、この糸の10分の8すなわち16ポンドは、紡績過程以前に過ぎ去った48労働時間の物質化、すなわち糸の生産手段に対象化された労働の物質化であり、これにたいして、この糸の10分の2すなわち4ポンドは、紡績過程そのもので支出された12労働時間の物質化である。」(第2節第10パラグラフ)
つまり、20ポンドの糸の10分の2の半分は消費された労働力の補填部分(v)であるから、残りの10分の1(3シリング)が剰余労働の物質化、剰余生産物であり、剰余価値を表している。
剰余生産物を剰余価値率に対応させて考えると、剰余価値率が資本の総額に対してではなく可変資本部分に対する割合で示されたように、剰余生産物の大きさも、総生産物に対するその比率ではなく、必要労働を表している生産物部分に対する剰余生産物の比率によって規定される。剰余価値の生産が資本主義的生産の規定的な目的であるのと同様に、富の大きさ(Größe)を測るのは生産物の絶対的な大きさではなく、剰余生産物の相対的な大きさである34。
※ 純生産物(*剰余生産物)こそが生産の究極かつ最高の目的だとする学説は、労働者のことを顧みることのない資本の価値増殖こそが、したがって剰余価値の創出こそが、資本主義的生産を推進する魂であるということを、ただ粗野に(だが正しく)表現したものにすぎないのである。;『直接的生産過程の諸結果』光文社文庫283頁
注34 「20,000 ポンド・スターリングの資本をもっていて毎年2,000ポンドの利潤をあげる個人にとっては、彼の資本が労働者を100人働かせるか1000人働かせるか、生産された商品が10,000ポンド・スターリングで売れるか20,000ポンド・スターリングで売れるかは、彼の利潤がどの場合にも2000ポンドよりも下がらないことをつねに前提すれば、まったくどうでもよいことであろう。一国の真の利益も同じことではあるまいか? その国の真の純所得、その地代と利潤とが変わらないことを前提すれば、その国が1000万の住民から成っているか1200万の住民から成っているかは、少しも重要なことではない。」(リカード『経済学及び課税の原理』岩波文庫版、小泉訳、下巻87ページ。)
ここではリカードの一文が引用されているが、要するに、資本の目的は純所得(利潤、地代、利子等)すなわち剰余価値であり、それがどういう条件で生じるかということは二の次であることが赤裸々に語られている。同じことは一国の真の利益なるものも同様なのだ。
剰余生産物の狂信者、アーサー・ヤング、とにかくおしゃべりで無批判な著述家で、その名声がその功績に反比例している人物だが、彼はリカードよりもずっと前にこう言った。「ある州の土地が古代ローマふうに小さな独立農民たちによってどんなによく耕作されようとも、そのような州の全体が近代の王国ではなんの役にたつだろうか? 人間を繁殖させるというただ一つの目的、このような目的のほかになんの役にたつだろうか?」(アーサー・ヤング『政治算術』、ロンドン、1774年)
リカードの『原理』は1817年刊行であり、ヤングの『政治算術』はそれよりもほぼ半世紀前ごろに出たものである。ここでは土地が耕作されるのは人間を繁殖させるという目的のためであり、それがどのように耕作されているかというようなことは何の役にも立たないと述べている。つまり人間を繁殖させる剰余生産物がどれほどあるのかということが重要なのであって、小さな独立農民によってとんなにうまく耕作されているかというようなことはどうでもよいのだということである。
ヤング Arthur Young(1741-1820)イギリスの農学者。……ヤングがもっとも関心をもったのはノーフォクの農法で、これはチャールズ・タウンゼントによってイギリスに持ちこまれたあたらしい農法であった。封建的農業経営の非合理を打破するものとして、従来は休閑地とされていたところに蕪を総裁することによって、近代的輪作による経営の合理化をはかるものであった。ヤングはこの方法こそイギリス農業の近代化をもたらすものであり、そしてこの経営は大農場においてこそもっとも合理的に行ないうるものとして、大農場経営を強調した。その結果、いままで小農経営の基盤であった開放耕地を徹底的に排除し、大規模の囲い込みをなすべきであるとした。……このようにヤングはもっぱら資本家的農業家の立場に立って、イギリス農業近代化の方向を主張し、余剰の人口は臨海軍に用いて国力を増進し、またこれを商工業に転じて国の富を増大すべきであるとした。……マルクスはヤングを‘饒舌で無批判的な著述家で、その名声は功績に逆比例している(KⅠ-238)とか、‘話にならない統計的饒舌家たるポロニアス'(KⅠ-286)とか、'皮相な思家ではあったが、精密な観察者'(KⅠ-710)とか評している……(『資本論辞典』571-572頁)
※ 資本主義的生産の(したがって生産的労働の)目的は、生産者の生存ではなく、剰余価値の生産なのだから、剰余労働を行なわないすべての必要労働は、資本主義的生産にとっては余分で無価値である。それは一国全体の資本家(Nation von Capiraliseen)にとっても同じである。労働者を再生産するだけで純生産物(剰余生産物)をいっさい生産しないあらゆる総生産物は、先の労働者自身と同じく余分なのである。あるいは、ある労働者たちが生産のある一定の発展段階では純生産物を生産するのに必要だったとしても、生産のより高度な発展段階ではもはや必要としなくなれば、彼らは余分な存在になってしまう。言いかえれば、資本に利潤をもたらすだけの人数が必要なのである。それは一国全体の資本家にとっても同じである。
1人の私的資本家にとっては、彼の資本が「100人を動かすのか1000人を動かすのか」は、2万[ポンド]の資本に対する利潤が「けっして2000ポンドを下回らないならば」、まったくどうでもいい問題であり、「一国民の現実の利益もそれと同じではないか?」[とリカードは言う]。つまり、「ある一国民の現実の純収入が、すなわちその地代と利潤とが同じであるならば、その国が1000万人の住民で構成されているのか、1200万人の住民で構成されているのかは、何ら重要ではない。…… もし500万人が1000万人にとって必要な食料や衣服を生産することがきるならば、差し引き500万人分の食料と衣服が純収入になるだろう。もし、これと同じ純収入[つまり500万人分の食料と衣服]を生産するのに700万人が必要だとすれば、つまり、1200万人分の食料と衣服が生産するのに700万人が仕事に従事するとすれば、それはその国にとって何か利益になるだろうか? 依然として純収入は500万人分の食料と衣服のままなのだから」(リカード『経済学及び課税の原理』第26章)。
博愛主義者といえども、リカードのこの命題に異議を差しはさむことはできないだろう。なぜなら、1000万人のうち50%だけが残る500万人のために純粋な生産機械として生きていくほうが、1200万人のうち700万人が、すなわち58・1/3%もの人がそうするよりも、まだしもましだからである。
「現在の王国において、一地方全体がこのように(つまり、古代ローマの初期におけるように自営小農民たちのあいだに)分割されているとすれば、どれほどきちんと耕作されていようと、ただ人間を養うという目的以外でいったい何の役に立つだろうか? これはそれ自体として見ればまったく無用な目的である」(アーサー・ヤング『政治算術』)。
資本主義的生産の目的が純生産物――これは実際にはただ、剰余価値が表わされている剰余生産物のことなのだが――であるということは、資本主義的生産が本質的に剰余価値の生産だということである。(『直接的生産過程の諸結果』光文社文庫277-280頁)
注34への補足 〈ホプキンスはいとも正しくこう指摘する。「純生産物は労働者階級を労働させることを可能にするという理由から、純生産物を労働者階級にとって有利なものとして示す非常に強い傾向があるのは、奇妙なことである。しかし、たとえそれがこういう力をもっていても、けっしてそれが純生産物であるからでないことは、いとも明らかである」(トーマス・ホプキンス『地代……について』、ロンドン、1828年、126ページ)。〉
ここでは純生産物、つまり剰余生産物は、労働者階級を労働させることを可能にするから労働者階級にとって有利だという主張は奇妙だとするホプキンスの主張が紹介されている。剰余生産物は資本家やその取り巻きの消費のためのものか、あるいは拡大された生産のために役立つのであり、それ自体は決して労働者階級のためにあるわけではなく、この限りではホプキンスはまったく正当に評価している。
ホプキンスについては『剰余価値学説史』のなかでは「絶対地代と差額地代との区別を正しくつかんでいる」(第26巻II 170頁)と評価されている。また生産的労働と不生産的労働の区別についての諸説(彼はそれを第一次的労働と第二次的労働と述べている)も詳しく検討されている。
● 第4節「剰余生産物」では、
①剰余価値は、必ず剰余生産物(使用価値の形をとった部分)として存在する
②この剰余生産物は、労働者が必要労働時間を超えて働く剰余労働時間の産物
③資本家にとって重要なのは、総剰余労働量(=剰余価値量)
という点を短く押さえている。
この注34では、リカードやアダム・スミスの弟子だったヤング(Arthur Young)の意見が引用され、そこでは要旨として、 「一定の利潤を確保する上で重要なのは労働者の数ではなく、各労働者から引き出す生産量(あるいは剰余生産物)である」という立場が示されている。
この第4節において注34がおかれている意味は何なのだろうか。マルクスはここでは、剰余価値量を労働者一人当たりの剰余労働時間×労働者数として捉えている。
しかし、労働者数が多くても剰余労働が少なければ剰余価値は少ないし、逆に少人数でも剰余労働時間が長ければ剰余価値は大きくなる。この注34では、資本家が重視するものは「人数ではなく剰余労働時間(剰余労働量)」であり、この視点を経験的に(完全な理論ではないにせよ)持っていたこと、この考え方がすでに古典派経済学者の中にも部分的に現れていたことを示し、マルクスの説明が独断的ではなく、経験的・歴史的根拠を持つことを示す役割を果たしている。
第4節と注34で強調している「資本家が執着するのは剰余価値量」という視点は、後で出てくる生産力の変化や合理化の議論の土台となるものである。
資本家は労働者数そのもの、生産物の物量そのものよりも、最終的に手に入る剰余価値の総量にこだわる。生産力が上がっても必要労働時間が短縮されれば、同じ労働日でも剰余価値量は変動することになる。そして、それが資本家を「もっと剰余労働を引き出すための合理化や労働強化」に駆り立てる、という展開に自然につながっていくのである。
●[AN2] ところで、第1段落冒頭に「生産物のうち剰余価値を表わしている部分(……すなわち二ポンドの糸)をわれわれは剰余生産物と呼ぶ。」とある。この剰余価値の現れ方を「物」に例えるのは、シーニアが価値構成を時間で行ったような誤りに繋がるのではないだろうか。マルクス自身が同じ間違いをしたのだろうか?
確かに「価値の現れを物に置き換えて説明する」ことは、シーニアのような価値構成と時間区分の直接対応の混同や、あるいは価値と使用価値の混同の危険をはらんでいる。
第3節までは、価値論の文脈で「剰余価値=m」を時間や比率で抽象的に扱っていた。しかし、資本家が手にするのは必ず物的形態をもった商品である。だからこそマルクスは抽象的価値が、使用価値としての生産物の一部分に宿っていることを明示するために、具体的に「二ポンドの糸」という具体例を挙げている。つまり、ここは「価値→使用価値」への移行を意識させるための視覚的・物的な具体化を提示している部分である。
シーニアの場合、「最後の1時間の労働」が「純利益部分(m)」と直接一致するとみなし、時間区分をそのまま価値構成部分に置き換える誤りを犯した。すなわち、「時間的割合=価値の構成要素」と短絡的に同一視した。
しかしマルクスのここでの叙述は、「二ポンドの糸」という具体的使用価値は、その中に(c+v+m)の価値構成が含まれていると前提されている。「剰余生産物」とは、その価値のうちmに相当する部分を表す使用価値だと、価値と使用価値の二重性を崩さずに説明している。(マルクスは「特定の二ポンドの糸」ではなく、「二〇ポンドの糸の十分の一、すなわち二ポンドの糸」というように全体との関係で述べている)。マルクスは「物」に例える場合も、価値形態と使用価値形態を混同することなく、あくまで「この物的部分が、価値のこの部分に対応している」と論理的に区別したうえで示しているのである(価値は物理的に分割線が見えるものではない)。
シーニアは、時間区分を価値部分に直接置き換え(特定し)、「最後の1時間=純利益部分」という短絡的対応をしている(時間と価値構成の混同)。だからこそ、マルクスは物的総量の中での価値割合として剰余部分を計算し、それを比喩的に「二ポンドの糸」と表現する(価値と使用価値の二重性を保つ)のである。
それは、われわれに対して、剰余価値を抽象的数字だけでなく、物的な感覚でも理解できるようにするため、そして同時に、それが全体の中での割合であることを意識させ、価値構成の比率を直感的に掴ませるためなのである。
つまり、「二ポンドの糸」とは、「二〇ポンドの糸のうち、価値として剰余価値に対応する割合部分」であり、全体との比例関係で導かれる換算量であって、物理的に別個に存在する糸の束ではないのである。
2.必要労働と剰余労働との合計、つまり労働者が自分の労働力の補塡する価値と剰余価値とを生産する時間の合計は、彼の労働時間の絶対的な大きさ――1労働日(working day)――である。
※ 「彼が価値を生産するのは、ただ彼が労働を支出するかぎりでのことであって、彼の労働の量は彼の労働時間で計られる。それは、諸君の言うところによれば、1日に11時間半である。この11時間半の一部分を彼は自分の労賃の生産または補塡のために費やし、他の部分を諸君の純益の生産のために費やす。そのほかには彼は1労働日のあいだなにもしない。」(第3節第4パラグラフ)
The sum of the necessary labour and the surplus-labour, i.e., of the periods of time during which the workman replaces the value of his labour-power, and produces the surplus-value, this sum constitutes the actual time during which he works, i.e., the working-day.(…この合計が労働者が実際に働く時間を構成する。)>
(1)価値から使用価値への橋渡し
第3節までは、剰余価値率の計算や労働時間の区分など、「価値の関係」を中心に論じてきた。しかし、資本家が手にするのは剰余価値(価値形態)であると同時に、それが具体的な形をとった剰余生産物(使用価値)でもある。
第4節は、この「価値の話」から「物的形態の話」への接続を簡潔に示す節となっている。
→ 後の「絶対的剰余価値」「相対的剰余価値」の議論や、剰余生産物の蓄積・資本化(第24章以降)に繋がる役割を持っている。
(2)剰余価値の物的基盤の確認
剰余価値は「剰余労働によって新たに生み出された価値部分」だが、その価値は必ず物的な形態(剰余生産物)で存在する。
そのため、剰余価値を現実に資本家が消費したり蓄積したりするには、まず「剰余生産物」という形で現れなければならない。つまり、第4節は「価値」と「使用価値」の不可分性を確認する短い節といえる。
(3)第8章以降への準備
第8章では労働日の延長(絶対的剰余価値)の具体的展開に入りますが、その前に「剰余価値の実在的形態=剰余生産物」という理解・認識を挟むことで、「なぜ資本家が労働日を延長しようとするのか」「資本家の生産における根本的衝動」が、より物的・感覚的にも明確になる。
特に後の蓄積論(第4篇)では「剰余生産物が新たな資本となる」話になるため、この概念は当たり前すぎて忘れがちになるが、確認しておく必要がある。
◎もし第4節がなかったら?
理論的には、第3節から第8章へ直接進んでも筋は通る。しかし、その場合、剰余価値が抽象的な価値計算の話として終わってしまい、物的な基盤が見えにくくなり、「剰余価値の現実的な姿=剰余生産物」という視点が後で唐突に出てくることになる。
マルクスは、価値論だけで終わらせず、必ず価値と使用価値(つまり物的形態、現実的な在り様)の二重性を念頭に置いて議論を進めるためにも、この短い節を入れたのだろう。
◎まとめると
第4節は一見省略可能に見えるが、
①剰余価値を現実化する物的形態として「剰余生産物」を押さえる
②価値論から使用価値論への橋渡し
③後述の労働日延長や蓄積論への布石
という役割を持っており、全体構成上のつなぎの役割を持つ。
4第3節:価値の抽象的構造を明らかにする
4第4節:その抽象的構造が具体的な物的結果(剰余生産物)として現れることを確認
4両者をつなぐことで、第8章以降の「労働日の延長」「蓄積論」への自然な理解につなげる。
•第3節だけだと、「剰余価値=m」という抽象的概念で話が終わる。
•第4節を入れることで、そのmが「剰余生産物」という具体的な姿をとって資本家の手に渡ることが示される。
•この橋渡しを経て、第8章以降の「どうやってこの剰余生産物を増やすのか」という実践的・現実的な資本家の行動論につながっていく。
以上を念頭に置くことで、第4節は「単なる付録」ではなく、抽象から具体への転換点であることがはっきり見えてくる。
1. 資本主義の枠内にある限り変わらない本性
· 資本主義経済学は、資本主義の生産関係(資本と賃労働)を歴史的で可変なものとは見ず、自然で普遍的なものとして前提に置く。
· そのため、この前提を疑うような問い(=価値の源泉や搾取の必然性)には踏み込まない。
· 結果として、現象の記述・数値化・予測は洗練されても、根本構造を暴く理論にはならない。
2. 古典派から俗流へ
マルクスは、古典派経済学(アダム・スミスやリカード)がまだ資本主義の内的関係を探究しようとした点を評価していました。しかし資本主義が成熟するにつれ、この探究は資本家階級の利害と衝突するため、理論の先鋭な部分は放棄され、現象の表面を正当化する「俗流経済学」に退化したと述べています。
3. 現代まで続く構造
現代経済学も、この枠組みは変わっていません。数学モデルや統計手法は進化しても、
· 資本主義を歴史的に超える可能性を議論すること
· 資本と賃労働の関係を本質的に分析することは、制度的にも学問的にも「想定外」とされがちです。
つまり、資本主義が資本主義である限り、その中の経済学は資本主義の自己説明・自己正当化を本性として持ち続ける、というのがマルクスの視点です。
だからこそ、彼は『資本論』を単なる経済学の一分野ではなく、「経済学批判」と位置づけたわけです。
[AN2]二つの要素を組み合わせて、
1.
価値 → 使用価値への移行構造(価値と使用価値の二重性の図)
2.
20ポンドの糸の中の剰余価値部分(二ポンド分)の割合を、価値構成(c・v・m)と物的量の両面で示す表を順に作ります。
1. 「価値 → 使用価値」への移行構造(価値と使用価値の二重性)
[価値の側面] [使用価値の側面]
────────────────────────────────
c(不変資本) 生産手段の物的形態(綿花・機械等)
v(可変資本=労賃) 労働力(人間の生産活動)
m(剰余価値) 剰余生産物(資本家の自由に使える物的部分)
────────────────────────────────
「価値」は必ず「使用価値」の形で存在する。
剰余価値 m も必ず剰余生産物という物的形態を取る。
マルクスはここで、「剰余価値=抽象的数字」ではなく、「剰余価値に相当する物的部分」が存在することを押さえています。
ただし、これはシーニアのように時間や物を直接価値部分に置き換えるのではなく、価値構成に基づく割合で換算される物的部分です。
2. 20ポンドの糸における剰余価値部分(二ポンド分)の構造表
前提(例):
· 総生産物:20ポンドの糸
· 総価値構成:
c(不変資本)= 17ポンド分の価値
v(可変資本)= 1ポンド分の価値
m(剰余価値)= 2ポンド分の価値
※ここでは価値の「ポンド」は貨幣単位ではなく、生産物価値の等価物としての物量に換算した表記です。
区分価値構成物的量(糸のポンド換算)説明不変資本 c17/2017ポンド生産手段の価値が糸に移転した部分可変資本 v1/201ポンド労働者が自分の労賃分を再生産する部分剰余価値 m2/202ポンド剰余労働によって資本家のために生産された部分(=剰余生産物)合計20/2020ポンド全生産物価値
図解イメージ
全生産物:20ポンドの糸
[ c: 17ポンド ][
v: 1ポンド ][ m: 2ポンド ]
3. 混同にならない理由
· マルクスは、この「二ポンドの糸」は価値構成の比例計算から導かれた物的部分であることを前提にしている。
· 実際の束の中から物理的にこの二ポンドを切り離せるわけではない(価値部分は物理的に分離できない)。
· したがって、これはシーニアのように「労働時間の最後の1時間=純利益部分」という直接置き換えではなく、
価値構成の分析 → それに対応する物的量の換算という二段階を踏んでいる。
この二重性を押さえておくと、第4節の「二ポンドの糸」という表現が、単なる「物による例え」ではなく、
価値分析を物的イメージに落とし込んだ橋渡しであることがはっきり理解できる。
[AN3]論理接続図:「第3節 → 第4節」
第3節:剰余価値率の分析(シーニア批判)
論点:・剰余価値は労働日の延長=剰余労働時間から生まれる
・剰余価値率は「剰余労働時間 / 必要労働時間」で表される
・資本家の利益確保のカギは労働時間の支配にある
視点:
・価値の量的分析(v と m の比率)
・抽象的価値形態での議論
↓(橋渡し:価値は必ず物的形態をとる)
第4節:剰余生産物
論点:
・剰余価値は、必ず剰余生産物という形で現れる
・これは剰余労働の産物であり、資本家が自由に処分できる
・資本家はこの剰余生産物を私的に消費したり、資本化する
視点:
・使用価値の側面(具体的な生産物としての剰余価値)
・価値+使用価値の二重性の統一
↓(この視点がないと…)
・剰余価値が純粋な「数値」や「比率」の話に終わってしまう
・資本家の生産衝動=具体的商品生産の意図が見えなくなる
全体の機能:
- 第3節:価値の抽象的構造を明らかにする
- 第4節:その抽象的構造が具体的な物的結果(剰余生産物)として現れることを確認
- 両者をつなぐことで、第8章以降の「労働日の延長」「蓄積論」へ自然につなげる
補足解説
第3節だけだと、「剰余価値=m」という抽象的概念で話が終わります。第4節を入れることで、その m が「剰余生産物」という具体的な姿をとって資本家の手に渡ることが示される。
この橋渡しを経て、第8章以降の「どうやってこの剰余生産物を増やすのか」という実践的・現実的な資本家の行動論につながります。これを押さえておくと、第4節は「単なる付録」ではなく、抽象から具体への転換点であることがはっきり見えると思います。この構造を理解していると、『資本論』の他の箇所でもマルクスが同じように「抽象分析→物的確認→発展」という流れを踏んでいるのが見える。
第7章第3節および第4節PDFファイル ↓
https://drive.google.com/file/d/1dAyNpfv0S2psn4Yu1GfrhjsJgYkEr7e9/view?usp=sharing
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