2025-10-02

第7章 剰余価値率        
第2節 生産物の比例配分的諸部分での生産物価値の表示

マルクスは「第2版への後記」のなかで「第7章、特に第2節は、かなり書きなおしてある」(全集23a13頁)と書いています。ということはやはりこの節も何度も練り直して書き直すほどの重要な意義を持っているということでしょう。そして実際、12パラグラフでは「のちにこれが複雑で未解決な諸問題に応用されるときにわかるように、簡単なことであると同時に重要なことでもある」(全集23a289頁)と書いています。では、それはそもそもどういう意義なのでしょうか。

私たちはすでに第1節の冒頭で「前貸しされた資本Cが生産過程で生みだした剰余価値、すなわち前貸資本価値Cの増殖分は、まず、第一に、生産物の価値がその生産要素の価値総額を越える超過分として現われる」というように前貸資本価値としてCという記号が出てきたことを知っています。またその2パラグラフでは「資本Cは二つの部分に分かれる。すなわち、生産手段に支出される貨幣額cと、労働力に支出される別の貨幣額vとに分かれる。cは不変資本に転化される価値部分を表わし、vは可変資本に転化される価値部分を表わす。そこで、最初はC=c+vであり、たとえば、前貸資本500ポンド=410ポンド(c)90ポンド(v)である。生産過程の終わりには商品が出てくるが、その価値は(cv)mで、このmは剰余価値である」というように、c(不変資本に転化される価値部分v(可変資本に転化される価値部分m(剰余価値という記号も出てきました。

ここでこのようにCやcvmと記号で表わされているものは、最初に資本として投じられる貨幣額が、その投じられる場合のその資本の機能規定(価値増殖過程からみた形態規定性、つまり役割や機能)から区別されたものです。つまりcは不変資本として、すなわち生産諸手段の購入に投じられる貨幣額であり、vは可変資本として、すなわち労働力の購入に投じられる貨幣額を意味し、mは生産された生産物価値のうちのその増殖分、すなわち剰余価値を表わす部分のことです。

ところで私たちは『資本論』23篇でも単純再生産や拡大再生産を表式で表す場合に、Ⅰ(cvm)とかII(cvm)という記号による表現が出てくることを知っています。ここでⅠというのは生産手段の生産部門のことであり、IIというのは消費手段の生産部門のことです。それ以外のcvmという記号は第7章第1節で出てきたものと記号としては同じですが、しかし23篇と第1巻第7章第1節の表示とには違いがあるということにあまり注意が及んでいない場合が多いのです。この第2巻第3篇における表式による再生産過程の考察で例えばⅠ(cvm)として表わされているものは、ある年度の第Ⅰ部門(生産手段の生産部門)の総生産過程の結果、つまり生産された総商品資(総生産物の資本の機能規定による表示なのです。つまり総生産物の比例配分的諸部分による資本の機能規定の表示なのです。

それに対して71節ではcvなどは貨幣資本(まだ貨幣資本という用語は出てきませんが)の機能規定として表示されたものなのです。つまり一方は貨幣価値の機能規定における表示であるのに対して、他方は商品価値の機能規定における表示なのです。この違いは1節と2節の違いでもあります。

だからこの72節に出てくるcvmという記号は生産物、つまり商品資(しかしまだ1巻ではこの用語は出てきませんがの比例配分的諸部分での表示なのです。ですから、この2節は第23篇の総商品資本の表式による表現に通じるものなのです。あるいはその基礎的な考察ともいえるでしょう。

私たちは23篇では表式を駆使していろいろと考察することになりますが、そしてそのような考察を行っている諸文献をあれこれと見ることになるかもしれませんが、しかしそれらの諸文献では、それが総商品資本の、つまり総生産物の比例配分的諸部分による資本価値の機能規定による表示であることを忘れている、というか気がついていない場合が多々見られるのです。そしてそういうことからいろいろな間違いを犯しているケースも多々見られます。つまり案外と再生産表式が総商品資本の循環として考察されていることを忘れてい(気づいていないことが多いのです。だからそれを意識して総再生産過程を表式によって考察する場合の基礎になっているのが、今回の172節だということを自覚する必要があります。だからここで考察されていることは、一見すると、つまらないことであり、大して重要な意味がないかのように思えるかもしれませんが、そういう重要な意味があることを踏まえて読んでください。;大阪・亀崎『資本論』学習資料No.33(通算第83回)2023.03.01

 

1.われわれは、資本家がどのようにして貨幣を資本にするかをわれわれに示した例に戻る。紡績工の必要労働は6時間、剰余労働も6時間、したがって労働力の搾取度100%であった。

212時間労働112時間労働の生産物は、30シリングという価値のあ20ポンドの糸であった。この糸の価値8/10、つま24シリングは、消費された生産手段の価値がただ再現しただけのもので形成されている。20ポンドの綿花20シリング、紡錘など4シリングである。つまりこれらは不変資本から成っている。

2/10は、紡績過程中に生じ6シリングの新価値であり、そのうちの半分は前貸しされた労働力の日価値すなわち可変資本を補塡し、あとの半分3シリングの剰余価値を形成する。

3.この総価値20ポンドの糸という総生産物で表わされるのだから、いろいろな価値要素もまた生産物の比例配分的諸部分で表わされる。

※ 価値というのは質的に同じでただ量的に区別されるだけであり、一片の使用価値をも含まず、使用価値とは対立した存在である。しかし価値は、価値章標などは別として、何らかの使用価値をその素材的担い手として持たなければ存在できない。そしてその素材的担い手が何であるかは無関心である。
  ここでは、総生産物の価値20ポンドの糸という使用価値の量で表されているのだから、この総生産物の使用価値の量が、その価30シリングを構成する諸部分に分割されて表されることが可能でなければならない。

4.生産物の価値のうち不変資本部分は20ポンドの糸の8/10(=24/30シリングである16ポンドの糸のうちあることになる。

不変資本部分を表す16ポンドの糸のうち、16×20/24131/3ポンドの糸に原料である綿花の価値が表され、同じように16ポンドの糸のうち、16×4/2422/3ポンドの糸に補助材料や労働手段である紡錘などの価値が表されることになる。

5.不変資本を表わ16ポンドの糸のう131/3ポンドの糸は、あたかも総生産物に含まれる原料の綿花だけからなっているかのように、綿花すべての価値しか表していない

実際に131/3ポンドの糸に131/3ポンドの綿花しか含まれていない。しかしこれが綿20ポン20シリングを表わすということは、どういうことか。実際に含まれている綿花の価131/3に、ここに含まれていない残りの綿花62/3ポン62/3シリングの価値がつけ加えられていることになる。その結果として綿20ポン20シリングに等しいとされている。これはあたかも残りの62/3ポン10シリングから綿花が引き抜かれて、131/3ポンドの糸にまとめて詰め込まれたようなものである。

131/3ポンドの糸が綿20ポンドの価20シリングだけを表わすということは、逆に言うとそれ以外のも(補助材料や労働手段の価値、労働により生み出される新価値は全く含まれていないことになる。

6.同様に、不変資本の残(=4シリングが含まれている別22/3ポンドの糸は、20ポンドの糸という総生産物に消費された補助材料と労働手段との価値のほかには、なにも表わしていない

7(前の二つの段落の結論からしたがって、生産物10分の8、すなわ16ポンドの糸は、不変資本価24シリングを表わしており、使用価値として見ると、糸としては、残りの4ポンドの(生産物部分とまったく同じ紡績労働の産物ではあるが、ここには支出された紡績労働はまったく含まれていない。

16ポンドの糸は、あたかも不変資本である綿花や紡錘が紡績労働なしに糸になったかのように見える。

実際、資本家がそ16ポンドの糸24シリングで売って、それで彼の生産手段を買い戻したとする(原料である綿花20シリングを出し、紡錘等4シリングを払う16ポンドの糸はただ綿花や紡錘や石炭などの補助材料が仮の姿を取っていただけだということが分かる。

8.「あとに残4ポンドの糸のほうは、いまでは、原料や労働手段を微塵も含んでいない。この糸に含まれていた原料や労働手段は、すでにぬき出されて、最初16ポンドの糸に合体されてしまった。だから、4ポンドの糸は、綿花や機械や石炭等々の生産に支出された労働を、微塵も含んでいない。6シリングというこの糸の価値は、紡績工自身が支出し12労働時間のまじりけない具象物である。」(『資本論』初版)

20ポンドの糸の生産に支出され具体化された紡績労働そのものは、生産物102に集約されている。

9.毎日の紡績過程の全価値生産12時間労働による新価値4ポンドの糸のうち、半分はただ消費された労働力の補塡価6時間の必要労働可変資本だけを表わし、残り2ポンドの糸はた3シリングの剰余価値だけを表わしている。

10.紡績工12労働時間6シリングの価値として対象化されるのだから、20ポンドの糸の価30シリングには、30シリング×12労働時間/6シリン60時間の労働が対象化されていることになる。

そし20ポンドの糸108、すなわ16ポンドの糸には、不変資本価値しか存在しないのですから、それは紡績過程の以前に過ぎさった過去48時間の労60時間×8/10が物質化したものといえる。すなわち糸の生産に必要な生産手段を生産するために支出された過去の労働の物質化したものが移転されたものである。

これに対して、残り102、すなわ4ポンドの糸は、1日の紡績過程で支出され12時間労働が物質化したものといえる。

※ 「したがって、20ポンドの糸という総生産物は、次のように分解することができる。」(『資本論初版江夏237-238頁)

11.われわれが前に見たように、糸の価値は、糸の生産中に生みだされた新価値と、すでに糸の生産手段のうちに前から存在していた価値との合計に等しい。

※ 「前に見たように」……62パラグラフ 「労働者は、彼の労働の特定の内容や目的や技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える。他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値の諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、見いだす。」 (全集第23a261)

糸の価値の構成部分として、不変資(c+可変資v+剰余価mとして表されたのは、生産物である糸の価値を価値増殖過程からみた機能的な、あるいは概念的な諸成分として関係づけてみたものである。商品の価値そのものは質的に同じでただ量的に区別されるだけだが、その同じ商品の価値を資本関係のなかで見ると、新たな形態規定性が加わってくる。

不変資本や可変資本や剰余価値と言ってみても価値としてはすべて同じだが、資本価値が価値増殖過程で果たした役割や機能に関係づけて見た場合には、新たな形態規定性としての価値の区別が与えられる。こうした価値の機能規定による区別と量的関係を、糸という生産物の使用価値量によって比例配分的に表したものが、これまで見てきたものなのである。

12.生産物量を不変資本部分、可変資本部分、剰余価値部分に分解することは、のちにこれが複雑で未解決な諸問題に応用されるときにわかるように、簡単なことであると同時に重要なことでもある。

※ マルクスがここで「のちにこれが複雑で未解決な諸問題に応用されるとき」と述べているのは、恐らく第2巻第3篇で社会的総資本の流通過程および再生産過程のための現実的諸条件を考察する場合のことを指しているのだと思います。

(中略)マルクスが問題にしているのは「社会的に考察された不変資本、可変資本、および剰余価値」についてなのです。つまり社会が生産した総生産物の価値の資本の機能規定で表される不変資本部分や可変資本部分、あるいは剰余価値部分が、それらの使用価値の互いの社会的な結びつ(分業のなかで、社会的にはどのように流通して互いに価値としても補塡関係にあるのか、ということです。そしてそのことによって社会の総再生産過程が如何にしてなされているのかを解明することがマルクスの課題だったわけです。この問題はマルクスが長い年月をかけて苦労して追究し、ようやく解明した問題なのです。そうした考察の基礎になっているのが、この2節の「生産物の比例配分的諸部分での生産物価値の表示」というわけです。;大阪・亀崎『資本論』学習資料No.33(通算第83回)2023.03.01

13.これまでは112時間労働に生産された総生産物である20ポンドの30シリングを前提に、それを構成する価値部(不変資本、可変資本、剰余価値に分けて表した。今度は、一日の労働過程を時間軸で追って、生産物量を同じように資本の価値構成の諸部分が次々と生産されていくものとして示す。

14紡績工は、12時間20ポンドの糸を生産するのだから、1時間で12/3ポン20ポンド/12時間、ま8時問で131/3ポン12/3ポンド毎時×8時間を生産する。これ1労働日に必要とする部分生産(原料、綿花の総量に相当する価値を生産することになる。

同様に、次136分の部分生産物22/3ポンドの糸だが、これ12労働時間中に消費される労働手段や補助材料の価値を表わしている。

さらに同じように、紡績工は次112分で2ポンドの糸=3シリング、すなわち彼が6時間の必要労働でつくりだす全価値生産(消費された労働力の補填価値に等しい生産物価値を生産する。これ20ポンドの糸の生産に支出された紡績労12時間の具象物、つまり新価値の半分である。

そして最後112分で2ポンドの糸を生産し、これは彼6時間の剰余労働によって生産された剰余価値に等しい。

こうした時間列で次々に生産されていく生産物を区分し、自分が投じ(前貸した資本を回収していくという考え方は、資本家にとっては日常的に使っているやり方である。それゆえ、彼にとっては最初8時間、つま1労働日32で、ようやく彼が最初に投じた綿花の価値を回収したと考えるのである。

こうした時間列で生産される生産物諸部分を資本価値の機能規定を表すものとして分けてみる見方は、それ自体としては正しい。つまり総生産物を資本の機能規定にもとづいて分解して見たのと基本的には同じことで、生産物の諸部分が出来あがって並びあっている空間から、それらが次々に出来あがってくる時間に移し変えたものであり、資本家たちにとっては便利な見方といえるだろう。

こうした逐次生産される生産物部分で、資本の機能規定にもとづく価値が生産され補塡されるという考え方は、同時に、粗野で奇妙な考えを伴うものにもなる。特に、実践的には労働者を搾り取ることに熱心で、その意味では価値増殖過程に関心をもちながらも、理論的には利潤の源泉を曖昧にするために、価値増殖過程を正しく見ようとしない理論家などにとっては、とりわけそうである。

例えば、彼らは次のように考える。紡績工は最初8時間で綿花の価20シリングを生産し、次136分では消費された労働手段や補助材料の価4シリングを生産し、そしてその次112分には賃金に相当する価3シリングを生産し、そして有名な「最後1時間」で資本家たちのために剰余価3シリングを生産するのだ、と。つまり労働者1労働12時間=6シリングに何と5労働日(原料、労働手24シリング/1労働6シリング+紡績労1労働日、つまり30シリングも生産するという奇妙なことを想像する。

※ じっさい労働者たちは、原料の価値のどんな小部分をも、機械類等々のどんな小部分をも、生産もしなければ再生産もしない。原料の価値と生産中に消費された機械類の価値とに彼らが付加するのは彼ら自身の労働でしかなく、これが、そのうちの一部分が彼ら自身の賃銀に等しく、他の部分が資本家の入手する剰余価値に等しい、あらたに創造された価値なのである。したがって、資本家と労働者とのあいだで分配できるのも――生産が継続されなければならない以上――、全生産物ではなくて、生産物マイナスそれに前貸しされた資本だけである。(『61-63資本論草稿』、『資本論』草稿集④317頁)

強欲がこうした奇跡を信じさせ、この奇跡を証明しブルジョア達の利益を擁護する歴史的に有名な〈おべっか使い〉の例が次の節で紹介されているシーニアである。

第7章第2節PDFファイル ↓
https://drive.google.com/file/d/1qIj_4t_cjsPUEKSP3egoJeHcHgfAw3RV/view?usp=sharing





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