2025-06-25

第4章 貨幣の資本への転化 
第3節 労働力の売買 

  労働力の売買                                      

1.価値の増加は、貨幣自体からは生ずることはない。貨幣は交換される商品の価格を実現するに過ぎない。また貨幣が、そのまま自分自身の形態にとどまるなら、それは石化した価値でしかない38

同じく、第二の部(商品の再販売からも変化は生じない。ここでは商品の価値をその現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだから。

価値の増大が貨幣で生じないのであれば、あとは商品に生じるしかない。G-W-G'(商品に生じるしかない。しかし、商品自体は物でありそれ自体が価値増殖することはない。そして商品交換は、ただ等価物の交換が行われるだけで、そこでは価値の変化が生じない。

商品の価値に変化が生じないのであれば、その使用価値から――使用価値の実現である「商品の消費」から生ずるしかない

そのためには、貨幣所持者はその消費の過程が価値を創造するという独特の使用価値をもつ商品を見つけなければならない。そしてそれは見いだされる。すなわち労働能Arbeitsvermögenあるいは労働Arbeitskräfte[AN1] という商品である

〈…問題は交換価値においての変化であり、交換価値の増加である。商品の使用価値から交換価値を引き出すことができるためには、貨幣所有者は、次のような商品――その使用価値が交換価値の源泉であるという特殊な効力をもち、このために、消費することが労働を実現し、したがって価値を創造することになるような商品――を、流通のなかで、市場自体で、運よく発見していなければならない

そして、われわれの貨幣所有者は実際に、この独自な効力を授けられた商品を、市場で見出すのであって、この商品が労働能力あるいは労働力と呼ばれる。〉


  
38 貨幣の形態では、この資本は利潤をまったく生まない。貨幣がそれと交換されうる原料、機械および食料の形態では、資本は収入を生み、国家の富と税源を増加させるであろう。(リカード『経済学原理』 岩波文庫版、19876月、下、31頁)


2
労働力または労働能力[AN2] とは、それは生きている人間の肉体、人格にそなわっていて、何らかの使用価(有用物を生産するときに運動させる、肉体的・精神的諸能力の総体を意味する。

※ 「したがって、次のことはしっかりとつかんでおかなければならない。――労働者が流通の領域で、市場で、売りに出す商品、彼が売るべきものとしてもっている商品は、彼自身の労働能力であって、これは他のあらゆる商品と同様に、それが使用価値であるかぎり、一つの対象的な存在を――ここではただ、個人自身の生きた身(ここではおそらく、手ばかりでなくて頭脳も身体の一部であることに、言及する必要はあるまいのなかの素質、力能〔Potenz〕としての存在ではあるが――もつ。しかし、労働能力の使用価値としての機能、この商品の消費、この商品の使用価値としての使用は、労働そのものにほかならないのであって、それはまったく、小麦は、それが栄養過程で消費され、栄養素として働くときに、はじめて現実に使用価値として機能する、というのと同様である。この商品の使用価値は、他のあらゆる商品のそれと同じく、その消費過程ではじめて、つまり、それが売り手の手から買い手の手に移ったのちにはじめて、実現されるのであるが、それは、それが買い手にとっての動機である、ということ以外には、販売の過程そのものとはなんの関係もないのである。」(『資本論』草稿集④『61-63草稿』78-79頁)

 

3.貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、条件がある。商品交換はそれ自身から生ずる以外の従属関係は含んでいない労働力が商品として市場に現れるためには、労働力の所有者が自分の意志でそうするかぎりのことである

そのためには、第一に労働力が彼の自由な所有物として認められていなければならな39。そうした自由が認められて、初めて彼は自分の労働力を自分の自由意志で商品として売りに出すことができる。言いかえると、労働力の売り手、労働者は誰にも支配されていないからこそ、自分の労働力を商品として「自由」に処分することができる

したがって、市場における労働力の所持者と貨幣所持者とは、まったく対等な商品所持者として関係を結ぶ。違いはただ一方は売り手であり、他方は買い手であるというだけで、法律上はまったく対等・平等の関係にある

39 労働力を商品として市場に見い出すことができるのは、ある特定の歴史段階、すなわち資本主義的生産様式が発展してくる段階においてであり、それ以前の古代世界にはない条件である。ところが百科事典ではそうした歴史的条件というものに対する無知と混乱しか見いだせない。〔46 W・キーセルバッハ氏(『中世における世界商業の歩み』、1860年)は、じっさい相変わらず、そこでは商人資本が資本一般の形態だという世界の観念のなかで暮らしている。資本の近代的な意味を彼は少しも感知していないのであって、それは、著書『ローマ史』のなかで「資本」や資本の支配を語っているときのモムゼン氏と同様である(全集25a408


 この関係を維持するためには、労働力の所持者が常に一定の時間を限ってのみ労働力を販売する[AN3] 必要がある。もし彼がそれをひとまとめに売ってしまうなら、それは自分自身を販売することになり、彼は自由人から奴隷、商品所持者から商品になってしまう。だから、労働力の所持者は常に一定の時間を限って自分の労働能力を使用する権限を貨幣所持者に販売し、消費にまかせるだけであり、労働力を手放しても、それに対する所有権は放棄しないかぎりのことである40

※ 資本家は労働者そのものを所持することはできない。資本家が所持しているのは、一定期間労働して価値を生産する能力だけであるD・ハーヴェイ『〈資本論〉入門』155

※ 労働力という商品は、物的な通常の商品とは違って、直接つかんだり、誰かにそのまま手渡すことはできない。人間の身体と不可分のものである。

したがっ労働力は時間決めで売るしかない、それを買い手に引き渡すためには、労働者は実際に資本家の監督下で労働するしかない。つまり、買い手による消費という行為を通じて、実際に労働することでしか労働力を現実に引き渡すことはできない。

40 ここでは労働契約を解除するための予告条件も法律で決められていることが指摘されている。現在の日本の「労働基準法20条」では、経営者が労働者のクビを切るためには、30日前に予告することが定められている。

マルクスは18671011日のクーゲルマンへの手紙のなかで、クーゲルマンから「債務奴隷制とは何か?」という質問を受けたことに対して、こう言っている。

債務奴隷制とは、将来の労働にたいする貨幣の前貸しです。この前貸しは普通の高利の場合と同じことです。労働者は一生債務者であり債権者の強制労働者であるばかりではなく、この関係は家族やそのあとの世代にも引き継がれ、したがってあとの世代は事実上債権者に属するのです。」(31465-466頁)

わたしの肉体的・精神的な特殊技能や活動の可能性のうち、それにもとづく個々の産物や時間的に限られたその使用は、他人に売ることができる。このような限定がつけば、それは、私の全体性や一般性の外に出たものとなるのだから。労働によって具体化された時間の全体や産物の全体を売るのは、わたしの魂を、わたしの活動一般と現実一般を、わたしの人格性を、他人に所有されることである。」(ヘーゲル『法哲学講義』 作品社20004月、154頁)「召使や日雇いは、金で他人に雇われるが、時間単位で雇われる点で、奴隷とは本質的にちがいます。だれかが全生涯を雇われたとすると、私たちの国家はこれを認めないでしょう。それは奴隷になることであるし、全生涯をかけてうみだすものは、その人の人格そのものですから。」(同前155頁)

ヘーゲルの先の引用文でも、前半部分は時間を限って労働力を売ること、後半部分の「私の一般的な活動と現実性、私の人格をある他人の所有とすることになる」というのは奴隷について述べている

※ 人は誰でも、自分自身の身personに対する所有propertyをもつ。これについては、本人以外の誰もいかなる権利をももたない。彼の身体の労labourと手の働workとは、彼に固properのものであると言ってよい。;ジョン・ロッ『統治論』2論文5章所有権について

※ 言うまでもないことだが、商品を売るためには、事前にその商品を「所持」していなければならない。「所持」で結ばれる人間と商品の関係をマルクスは次のように説明する。

商品は物であり、したがって、人間に対しては無抵抗である。もし商品が従順でなければ、人間は暴力を用いることができる。言い換えれば、それをつかまえることができる。;『資本論』12

商品が商品所持者に「無抵抗」であるのは、それが生命のない「物」であるからではない。本末、「物」でないはずの人間も、「物」として、アリストテレスのいわゆる「生ある道具」として、商品となりうる。「もし商品が従順でなければ、人間は暴力を用いることができる」と言うとき、ただの「物」ではなく、奴隷を念頭に置いていることは明らかである。人間の抵抗を暴力で封じ、従順な「生ある道具」にすることを「所持」という概念は含意している。つまり、マルクスの言う「所持」には、主人と奴隷との関係のような支配・従属関係が含まれているのである。

労働力とその所持者との関係も同様に支配・従属関係と捉えることができる。もちろん、労働力がその本人の手元に留まっている間は、それを支配・従属関係と考えることに積極的な意味はない。せいぜい自分の身体を思うように動かせることを意味するにすぎない。しかし、(売買によって、労働力が他人に譲渡されれば、「所持」に支配・従属関係が含まれていることは重要な意味をもってくる。そのことによって、労働力の売り(賃労働者の人格―身体を買い(資本家の支配下に置くことが可能になるからである。;沖公『「富」なき時代の資本主義』113-114

4.第二の条件としては、彼が自分の労働を対象化した商品を持たず[AN4] 、自分の労働力そのものを商品として売り出さざるを得ないということである。

※ 労働者は自分自身のために働くことができない。D・ハーヴェイ『〈資本論〉入門』155

5.彼は、労働力を支出する対象(原料や道具等=労働対象、労働手段を持っていなければ、商品として売ることのできる有用物を生産することができない。

さらに、生産し販売している間に、生きるために消費する生活手段も事前に持っていなければならない。

6.貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な 労働者に出会わなければならない。ここで自由というのは、二重の意味がある。

自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、もう一つは労働力のほかには商品として売るべきものを持たず、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれている。つまり、すべての物から自由であるという意味での自由なのである。

※ 労働者は、すでに生産手段に対するアクセス権を剥奪されているのでなければならない。;D・ハーヴェイ『〈資本論〉入門』155


※ たとえばジョージ・W・ブッシュ〔〕大統*43が繰り返し繰り返し世界に自由をもたらすと言っていた時、その自由とはどういう意味だったのだろうか? 彼は二期目の就任演説で、「自freedom, liberty」という言葉を合計で約五〇回も使った。マルクスの批判的解釈にのっとれば、これが意味するのは、ブッシュは、世界のできるだけ多くの人々から、生産手段に対する直接的な統制権やアクセス権を剥奪するための運動を動員していたということであろう。そうだ、実際、個々の労働者は、労働市場においては、自分自身の身体に対する権利と個人的な法的権利を有するだろう。原理的には、彼らは自分の選ぶ誰に対しても、自分の労働力を売る権利と、受けとる賃金を使って市場で何でも欲しい物を買う権利を有している…;ハーヴェ『〈資本論〉入門』155-156

※ ……そもそも「自由な自己決定」とは複数の選択肢があることを前提とするものであって、他の選択肢がないなら、それは「自由」ではない。奴隷が受けるのが暴力的な「直接的強制」だとすれば、「自由な労働者」は、雇用されて働く以外に選択肢がなく、失業したら生きていけない、という経済的な「間接的強制」を受けているのである。しかも、「自由な自己決定」の結果については、必然的に「自己責任」が問われることになる。;植村邦彦『隠された奴隷制』142

労働者とは、自分の売るものが、価値を創造することのできる労働力という商品しかもたない者のことをいう。そしてこれが商品生産社会が産まれる条件であり、資本主義とは、労働者が歴史的に誕生するのと同時にできた社会体制なのだ。奴隷でもない、臣下でもない、自由に自分の労働力を売ることができる者というのは、いつの時代でもいたわけではない。『あらすじとイラストでわかる資本論』文庫ぎんが堂85


7自由な労働者を市場に見いだすということは貨幣が資本に転化するための条件である。つまりそれは資本主義的生産様式が歴史的に登場することと同じ意味を持つ。しかしここでは、発展した資本主義的生産様式を前提してその内在的な諸法則を解明しようとしているので、それが歴史的にどのように生まれてきたか、ということは、貨幣所持者の関心の外にある。

※ このような自由な労働者の存在は封建社会が崩壊する過程の血塗られた歴史のなかで準備されるのだが、それは『資本論』の1巻の最後の*第七篇 資本の蓄積過程でとりあげる。

こうした社会的な関係は、決して自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通なものでもない。明らかに、先行する歴史的発展の結果であり、多くの経済的変革の産物、すなわち、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物といえる

8.これまで考察してきた経済的諸範疇も同じようにはそれらの歴史的な痕跡を帯びている。生産物が商品になることにも一定の歴史的諸条件がある

生産物が商品になるためには、生産物が生産者自身の生活のために必要なも(直接的生活手段として生産されているような状態ではだめなのである。生産物が自分の生活手段になるのではなく、他人のための生活手(使用価値とならなければならない。つまり社会的分業が要求されるのである。

多くの生産物が商品という形態をとるのは、資本主義的生産様式の基礎の上だけで起き(資本主義社会だけで起きることだということ

しかし、商品生産や商品流通は、まだ大規模には自己需要に向けて行われていなくとも、すなわち生活物資の大多数が商品として作られていなくとも、つまり、社会的生産過程がまだその広さや深さにおいて完全に交換価(貨幣に支配されていなくても、行われうるのである。

※ 14節や2章のなかで、商品交換が生まれてくるのはどのようにしてか、まず有用物と価値物との分離が生じ、やがて貨幣が生まれて、商品流通がますます発展してくる過程をみてきた。そして価値形態の発展とは、まさにこうした商品交換が発展する過程において、価値関係のなかの価値表現という関係について、それの発展過程を見てきたのである。したがって1篇「商品と貨幣」で検討してきたこととは、こうした商品交換の歴史的な発展過程を凝縮して分析的に考察したものなのである。

生産物が商品として現れることは、社会内の分業がかなり発展して、使用価値と交換価値との分離がすでに実現されていることを条件とする。しかし、このような発展段階は、歴史的に非常に違ったいろいろな経済的社会構成体に共通なものである。

9.次に貨幣に目を向けるならそれは商品交換の発展の程度の高さを前提する。さまざまな特殊な貨幣形態、単なる商品等価物としての貨幣、または流通手段や支払手段としての貨幣、さらには蓄蔵貨幣や世界貨幣は、あれこれの貨幣の機能の範囲の相違や相対的な重要さにしたがって、社会的な生産過程のさまざまな段階をさし示している。しかしそれにもかかわらず、これらのすべての形態が形成されるためには、経験の示すところでは、商品流通の比較的わずかな発達で十分である

しかし、資本についてはそうはいかない。〈資本の歴史的存在条件は、商品および貨幣の流通と同時には生じない。資本は、生産手段や生活手段の保有者が市場で、自分の労働力をそこに売りに来る自由な労働者に出会うところで、はじめて生まれるのであって、この唯一無二の歴史的条件が、新しい世界全体を包括する資本は最初から、社会的生産の一時代を告げ知らせている41。〉

※ 資本は商品や貨幣を前提するが、しかしそれ以上に決定的なのは、二重の意味での自由な労働者が市場に登場するということである。そしてこうした労働者が生まれてくるのは、〈多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物〉である。だからこそ“資本主義的生産様式”というのは、歴史的に階級対立の社会の最後の発展段階を指し示しており、だから世界史の特定の段階を包括したものとして登場したのである。それははじめから社会的生産過程の新しい一時代を告げ知らせるものである。こうした意味で商品や貨幣とは同じ形態的諸範疇だとはいえ、根本的に異なったものなのである。

※ 資本ははじめから、ある一定の歴史的過程の結果でしかありえないような、また社会的生産様式のある一定の時代の基礎でしかありえないような関係として出現するのである。;『資本論草稿集』④55

41 資本主義時代を特徴づけるものは、労働力が労働者自身にとって自分のもっている商品という形態をとっており、したがって彼の労働が賃労働という形態をとっているということである。他方で、この瞬間からはじめて労働生産物の商品形態が支配的な社会形態になる。すなわち、資本主義的生産様式において、はじめて生産物の商品形態が一般的となり、ますます多くの生産物が商品になり、価値法則が社会全体に貫くものになということである。

※ 資本家や価値といった範疇が「自然な」ものではないのと同じく、賃労働という範疇が「自然な」ものではないという点を徹底するためにも、賃労働システムが特殊な歴史的起源を有しているということを認めなければならない。プロレタリア化の歴史は、後の第八724でより詳細にとり上げられる。ここでは*マルクスは単に、完全に発達した労働市場がすでに存在すると前提することを望んでいる(中略)

過去さまざまな形態で存在した商品生産は、同様に歴史的に多くの形態で存在した貨幣流通とともに、マルクスの頭の中では賃労働という形態の出現と明確に関連づけられている。これらの発展は、資本主義的生産様式の支配が出現する上で、相互に独立した要因ではない。またしても、共同体的生産を貨幣化へと論理的に結びつけ、この両者を今度は賃労働の商品化へと結びつける社会的に必然的な関係は、独特の歴史的起源を有している。われわれには自明で論理的に見える賃金制度と労働市場は、ヨーロッパ封建制の終わり近くになっても自明ではなかったことは、ほぼ間違いない。;D・ハーヴェ『〈資本論〉入門』158-159

10.この独特な商品、労働力を詳しく見ていこう。この商品も一定の価値を持42。〈その価値はどのようにして規定されるか? その生産に必要な労働時間によって。〉

※ フランス語版には答えがついている。

42 イギリスの最も古い経済学者で、かつ最も独創的な哲学者のひとりであるトマス・ホッブズは、すでにその『リヴァイアサンで、彼の後継者たちがみな見おとしたこの点に本能的に気づいていた。

「人の価値つまり値うちとは、ほかのすべてのものにあってと同じように、彼の価格、すなわち彼の力の使用にたいしてあたえられるであろう額である。」 『リヴァイアサンホッブズ『著作集』1839年;『賃金、価格、利潤全集16129

※ …労働力は独特の商品であり、他の商品とは違った特殊な商品である。まず何よりも、それは価値を創造する能力を持つ唯一の商品である。それは、自己の社会的必要労働時間を商品のうちに凝固する労働者であり、労働者は、自らの労働力を資本家に売るのである。逆に、資本家は、この労働力を使って、剰余価値の生産を組織する。しかし注意してほしいのだが、労働力が流通する形態は、W-G-Wであ(労働者が市場に労働力を持って行き、貨幣と交換でそれを売り、その貨幣で生きるために必要な諸商品を購入する。だから忘れないようにしてほしいが、労働者はつねにW-G-W循環の中にいるのであるが、他方の資本家はG-W-G循環の中で活動しているのである。それゆえ彼らのそれぞれの状況に関する考え方には、異なったルールがあることになる。労働者は等価物の交換で満足できるが、その理由は、問題となっているのが使用価値だからである。他方、資本家は、等価物の交換から剰余価値を得るという問題を解決する必要がある。;D・ハーヴェイ『〈資本論〉入門』159-160

11.労働者は、自分の労働力を一定の時間、資本家に使用させる。これは労働力を一つの商品として資本家に販売するということである。したがって、労働力の価値は、他の商品の価値と同じく、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定される。それが価値として現れるということは、労働力は、それに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているということである。

労働力は、生きている個人の素質として存在する。つまり、労働力の生産はこの個人の存在を前提とする。すなわち、「労働力の生産」とはその個人を再生産し、あるいは維持するということである。個人の存在を維持するためには、彼が生きていくために、いくらかの量の生活手段を必要とする。だから、労働力の生産に必要な労働時間というのは、そのための生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えると、労働力の価値とは、労働力の所持者の生存を維持するために必要な生活手段の価値ということができる。

労働力も商品である以上、使用価値と価値をもつ。労働力がその対価として貨幣を得るところの価値は、どこから産まれるか。それは労働者が生きていくための生活手段だ。具体的には、彼が毎日正常に労働できるための能力を維持するために必要なもの、すなわち食料、衣服、暖房、家などをいう。

※ …労働能力は日ごとに再生産され、あるいは――ここでは同じことであるが――同一の諸条件のもとで引き続き維持される。ここで諸条件というのは、すでに述べたように、単なる自然的諸欲望によってではなくて、ある一定の文化状態において歴史的に変更が加えられているような自然的諸欲望によって限定されているものである。;『資本論草稿集79

〈労働力はその外的発現によって実現される。労働力は労働によって発現し確認され、この労働のほうは人間の筋肉、神経、脳髄の若干の支出を必要とし、この支出は補塡されなければならない。損耗が大きければ大きいほど、修理の費用はますます大きくなる43。〉

労働力の所有者は、自分の労働力を発揮して、労働が終わったならば、明日もまた同じ労働を繰り返すために、彼の力や健康を同じ条件のもとで繰り返し維持し補充する必要があ43。だから労働力の価値に相当する労働力の所持者を維持するために必要な生活手段の総額というのは、労働者をその正常な生活状態に維持するものでなければならない

※ 〈食糧、衣服、暖房、住居などのような自然的必要は、一国の気候やその他の自然的な特殊性に応じて異なる。他方、いわゆる自然的必要の数そのものは、それをみたす様式と同じに、歴史的産物であり、したがって、大部分は到達した文明度に依存している。それぞれの国の賃金労働者階級の起源、この階級が形成されてきた歴史的環境は、久しい間、この階級が生活にもちこむところの、習慣や要求にもまた当然の結果として必要にも、最大の影響を及ぼしつづけている。したがって、労働力は価値の観点からみれば、精神的、歴史的な要素を内包しており、このことが労働力を他の商品から区別しているのである。だが、与えられた国、与えられた時代については、生活手段の必要な範囲もまた与えられている。〉

※ さらに、労働能力としてその消費のまえから存在しているこの使用価値は交換価値をもっているが、それは他のあらゆる商品のそれと同じく、そのなかに含まれている、したがってまたその再生産に必要な労働の分量に等しく、またすでに見たように、労働者の維持に必要な生活手段を創造するのに必要である労働時間によって、正確に測られている。たとえば重量が金属のための尺度であるように、生活そのもののための尺度は時間であるから、労働者を1日生かしておくのに平均的に必要な労働時間が、彼の労働能力の日々の価値なのであり、これによって労働能力は日ごとに再生産され、あるいは――ここでは同じことであるが――同一の諸条件のもとで引き続き維持される。ここで諸条件というのは、すでに述べたように、単なる自然的諸欲望によってではなくて、ある一定の文化状態において歴史的に変更が加えられているような自然的諸欲望によって限定されているものである。;『資本論草稿集79

生活する上での自然的な欲望地理的特色により変わる。しかしその欲望の範囲や充足の仕方も歴史的産物である。それは一国の文化段階によって定まるものであり、また同時に労働者階級がいかなる条件の中で形成されたかにもよ44。だから、労働力の価値は、他の商品の価値とは異なり、歴史的、精神的な要historisches und moralisches Elementを含んだものである。とはいえ、ある与えられた国や時代においては、必要な生活手段の平均的範囲は定まってくる

Moral ():道徳のこと。文化史的に固有な意味合いをもつことばなので、しばしば原語のまま用いられる。モラルはもともと習俗、風習を意味するラテン語「モーレス」moresからきているが、それぞれの時代の習俗として成立した社会的規範がただちにモラルであるのではない。そうした規範はある種の強制力をもってわれわれに外から与えられる。これに反して、モラルは良心や内心の命令として、個人の決断によって生み出される。それはいわば、人が自分自身に対して自発的に与える規範なのである。時代の転換期における新旧思想の対立は、なによりまずモラルの問題をめぐっておこってくる。そのようなときには、既成の権威や社会的規範に反抗することによって、新しいモラルが形成される場合もある。とはいえ、モラルは外的規範と無関係に成立する、単なる主観的なものではない。それはつねに、その時代の社会生活全体によって深く制約されている。いわば、社会のうちから生まれた外的要請と個人の内的自発性が一致する地点においてモラルは成立する。;小学館 日本大百科全ニッポニカ)

※ 「他方、いわゆる必要欲望の範囲も……歴史的な精神的な要素を含んでいる」…この文言の意味するところは、労働力の価値は階級闘争の歴史から独立しているのではないということである。さらに、一国の「文化水準」は、たとえばブルジョア的改良運動の強弱に応じてさまざまであろう。尊敬すべき高潔なブルジョアは時として、大衆の貧困を目にして罪悪感を抱き、まっとうな社会では大衆が現在のような生活を送ることは受け入れがたいという結論に至ることがある。彼らはまっとうな住居、まっとうな公衆衛生、まっとうな教育、まっとうなあれこれを提供すべきだと主張する。これらの施策のなかには、利己的に見えるものもある(たとえばコレラの流行は階級的境界で立ち止まりはしない、何らかの文化的価値感覚を持たないブルジョア社会は存在しないので、この感覚は、労働力の価値がいくらであるべきかを規定する際に決定的な役割を果たす。;D・ハーヴェイ『〈資本論〉入門』162

43 ここではヴィリクスという農耕奴隷の管理(彼も奴隷が、農耕の力仕事をする奴隷に比べて楽な仕事をやっているという理由で、彼が管理する奴隷たちよりも少なく受け取ったという。つまり消耗が多ければそれだけそれを補充する費用も多くなるが、そうでなければ少なくて済むということで、本文の「この支出の増加は収入の増加を条件とする」という一文を裏付けるものになっている。

44 ソーントン William Thomas Thornton1813-1880)イギリスの経済学者で、J.S.ミルと親交があり、その影響をつよくうけたが、学説の個々の点ではミルを批判しているところもある。……マルクスは、ソーントンが、労働賃銀の規定にかんしても、労働者が正常な生活状態を維持するために必要な慾望の範囲を風俗習慣の諸条件に依存せしめている観点を記述しているこK-179や、過剰人口の問題をめぐって資本の不断の搾取による工業人口の涸渇が農村からの労働力の供給によって補填される事情、さらにその供給源の農村労働者さえも衰弱をよぎなくされてい19世紀中葉の労働事情を論じていることなどK-281、きわめて高く評価している。;『資本論辞典511

12.労働力は日々再生産されるとはいえ、それには限界があり、やがて労働者は死を迎える。だから貨幣の資本への転化がそれによって途切れないように、労働力の所持者も、すべての生きている個体がその生殖によって命を永久化するように、生殖によって、つまり子供を産み育てることによって永久化しなければならない。

だから労働市場から引き上げられる労働力に代わって、常に新たな、少なくとも引き上げられるもの以上の、労働力が供給される必要がある。労働力の生産に必要な生活手段のなかには、こうした新たな労働力を育成するための手段、すなわち子供たちの生活手段も含んだものでなければならない。こうして労働力という独特な商品の所持者の種族が商品市場で永久に維持されることにな46

※ だが、人間もやはり機械と同じく消耗するから、ほかの人間がいれかわらなければならない。彼には、自分自身の維持に必要な生活必需品の量のほかに、さらに一定数の子供――労働市場で彼にいれかわり、労働者種族が永続するようにする子供――を育てあげるための生活必需品の一定量も必要である。;『賃金、価格、利潤全集16130

46 トレンズは労働力の自然価(価値は、労働者を維持し、その家族を養うことを可能にする生活手段と文化的手段の量と的確に指摘している。労働者とその家族が「文化的」にするに必要な諸手段の量も入れていることは注目に値する。Dingen der Bequemlichkeit, comforts of life;便利なもの、生活の快適さ→「文化的」とした》

13.〈特定の労働種類における能力、精密さ、敏捷さを獲得させるように人間の性質を変えるためには、すなわち、その性質を、特殊な方向に発達した労働力にするためには、若干の教育が必要であって、この教育自体に、大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。この額は、労働力の性格がより複雑か複雑でないかに応じて、変動する。この教育費は、単純な労働力にとってはわずかかもしれないが、労働力の生産に必要な商品の総計のなかに入るのである。〉 

14労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。したがって、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動する。

※ 〈その価値は生活手段の価値につれて、すなわち、生活手段の生産に必要な労働時間に比例して、変動する。〉


15.〈生活手段の一部、たとえば食糧や暖房などを構成するものは、消費によって毎日失われるものであり、毎日更新されなければならない。それ以外の衣服や家具などのようなものは、これよりも緩慢に消耗するものであって、これよりも長い期間に更新するだけでよい。若干の商品は毎日、他の商品は毎週とか半年ごと等々に、買われあるいは代価を支払われなければならない。しかし、これらの支出が一年の期間内にどのように配分されることがあっても、その総額はいつでも1日の平均収入によって支弁されなければならない。〉

   かりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすると、

これらの商品の一日に平均に必要な額は

となる。

〈1平均日に必要なこの商品量の価値は、これらの商品の生産に支出された労働総量のみを表わしているが、それを6時間と仮定しよう。そのばあいには、労働力を毎日生産するために、半労働日が必要である。労働力が日々自己を生産するために必要とする労働量が、労働力の日価値を規定する。〉

労働者が1日に平均的に必要とする生活手段の価値が6時間の社会的労働の対象化されたものだとすると、労働日の労働者の労働時間)が12時間としたばあい、労働力の日価値は半労働日になる。つまり労働者が日々自分を再生産するために必要とする労働時間は、彼が1日労働する時間の半分だということになる。

また、6時間という半労働日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表されるとすると、ターレルは労働力の日価値に相当する価格である。労働力の所有者が毎日労働力を1ターレルで売るならば、労働力の販売価格は労働力の価値に等しい。貨幣所有(資本家は、金銭をもってこの価値に支払いをする。資本家はその日々の労働力の価格を支払うことによって彼の貨幣を資本に転化することになる。

※ 生きた身体をもつ労働する諸個*労働者のことは、毎日休息と睡眠を必要とするから、労働力の時間極めでの販売は、正常な場合、資本のもとで毎日一定時間に限って労働する、という形態で行なわれる。だから、労働力の時間極めでの販売のさいの単位となる時timeとして時hourや週や月をとってもいいように思われるが、それはなによりもまずdayなのである。このような単位としての1日の労働量が、またこの労働量を時hourで表現したものが、イギリスでは「労働working day」と呼ばれてきた労働日とは、労働者が資本家のもとで行なう1日の労働、またはその労働時hourのことである。契約の単位が週や月である場合にも、つねにこの日極めが計算の基礎となるのである。;大谷禎之介『図解 社会経済学』131

16.〈労働力の価格は、それが、生理的に不可欠な生活手段の価値に、すなわち、これ以下になれば労働者の生命そのものを危険にさらさざるをえないような商品総量の価値に、切り下げられるとき、その最低限に達する。〉

※ この最低限というのは、労働者個人の生理的に肉体的に欠くことのできない生活手段の価値のことなのかと思えますが、しかし次に紹介する『賃金・価格・利潤』の説明を見るとそうではなく、労働者がその家族を養い子供を養育するに必要な費用もその最低限のなかに入るということが分かります。大阪『資本論』学習資2022213

この彼の労働力の価値は、彼の労働力を維持し再生産するのに必要な生活必需品の価値によって決定されるものであり、生活必需品のこの価値は、結局はそれらのものを生産するのに必要な労働量によって規制されるものである、と。

だが、労働力の価値または労働の価値には、ほかのすべての商品の価値と区別されるいくつかの特徴がある。労働力の価値を形成するのは二つの要素である。一つは主として生理的な要素、もう一つは歴史的ないし社会的な要素である。労働力の価値の最低の限界は、生理的要素によって決定される。すなわち、労働者階級は、自分自身を維持し再生産し、その肉体的存在を代々永続させるためには、生存と繁殖に絶対に欠くことのできない生活必需品を受け取らなければならない。したがって、これらの必要欠くべからざる生活必需品の価値が、労働の価値の最低の限界となっているのである。》;『賃金、価格、利潤全集16巻 「14 資本と労働との闘争とその結果」148

もし労働力の価格がこの最低限まで引き下げられたとすると、それは労働力の価値よりも低く下がることになる。それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできない。

※ このばあい、労働者自身の労働力の再生産が不十分になる以上に、次世代の育成が委縮または不完全になってしまうだろう。このことは労働力を剰余価値の源泉とする資本にとっては、労働者の減少は自らの死活の問題でもある。

しかし、いずれにしてもどの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されている。

※ 労働力の価値も他の商品と同じように、その商品が正常な品質を保って供給されるために必要な労働時間によって規定されているのですから、私たちは労働力の価値という場合はその最低限ではなく、そうしたものを想定すべきでしょう。;大阪『資本論』学習資料2022213

※ 「労働能力の価値に一致する労賃は、われわれが述べてきたような、労働能力の平均価格であり、平均労賃である。この平均労賃はまた、労賃あるいは賃銀の最低限とも呼ばれるのであるが、ここで最低限と言うのは、肉体的必要の極限のことではなく、たとえ1年についてみた日々の平均労賃であって、労働能力の価格――それはあるときはそれの価値以上にあり、あるときはそれ以下に下がる――はそこに均衡化されるのである。」;『資本論草稿集79

※ 労働力の価格は一定時間の労働の価格=労賃という形態をとる。…労働力の価格がこのように労働力の価値の貨幣表現として規定されても、現実に個々の場合に支払われる労賃がこの価値どおりの価格であるとはかぎらず、それは他の普通の商品の場合と同じである。しかし、理論的にはまず価値どおりの価格が支払われるものとしたうえで資本の価値増殖が説明されなければならないのであって、このことは本章の前節の所述からも明らかであろう。;岡崎次郎『資本論入門88-89

※ 資本家が唯一、関心をもっていることは、なんとか労働者の個人消費を必要最低限のレベルに抑えておきたいということだ。

もちろん、これは一人ひとりの資本家の視点から見れば、まったく合理的なことだ。しかし、もし全員の資本家がそんなふうに行動するようつき動かされているとすれば、彼らはもう一方で、どこかにそんな衝動に駆られない資本家もまた存在してくれるだろうという淡い幻想を抱いているとしか考えられない。というのも、すべての労働者の収入が抑えられてしまったら、そもそもだれが大衆市場用に生産された製品を買うというのだろうか。

それぞれの資本家は……労働者に対して、生産者が消費者に対するような関係には立っていない。それゆえ資本家は、労働者の消費、すなわち彼の交換能力、彼の賃金をできるだけ抑えたいと思うのである。もちろんこの資本家は、他の資本家に雇われている労働者たちには、自分たちの商品を買ってくれる、できるだけ太っ腹な消費者でいてほしいと願っている。しかし、それぞれの資本家が自分自身の労働者と結んでいる関係は、資本と労働の関係であり、まさにそれこそ本質的な関係である(マルクス『経済学批判要綱』;マイケル・ウェイン『ビギナーズ「資本論」』167

17.〈労働力のこの価値規定を粗雑であると見なして、たとえばロッシとともに次のように叫ぶのは、理由もなしに、またきわめて安っぽく、感傷にふけることであ*不適切で、非常に安っぽい感情論である。「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働能力を頭に描くことは、空想の産物を頭に描くことである。労働と言う人、労働能力と言う人は、それと同時に、労働者と生活手段、労働者と賃金、と言っているのである」47。これにまさる誤りはない。〉

ロッシの言葉は、「労働力」という抽象的な概念を扱うことに対する批判を表している。しかし、マルクスはこれを資本主義の分析において重要な方法だと捉えている。そして、労働力が価値として現れることこそが資本主義の根本である以上、それを「粗雑」と批判するのは非科学的であると結論づけている。

47 ロッシ 『経済学講義』1843年からの引用。ロッシが引用文で述べていることをマルクスは、本文で「これにまさる誤りはない」と批判し、否定している。

puissance de travail物理的な「仕事の力」や「作業能力」。どれだけの業務をこなせるか、またはどれだけ効率的に作業を進められるかということを意味する場合もある。

être de raison直訳すると「理性の存在」。哲学的には、「理性によって作られた存在」や「思考上の存在」といった意味で使われることが多い。つまり、現実には存在せず、頭の中や論理的な思考の中でのみ存在するものを指す。例えば、架空の概念や抽象的なアイデア、人間の理性が作り上げた概念を説明するために使われることがある。

18.〈労働能力と言う人は、まだ労働とは言っていないのであって、それは、消化能力が消化を意味しないのと同じである。そうなるためには、誰もが知っているように、健康な胃の腑以上のあるものが必要である。労働能力と言う人は、労働能力の維持に必要な生活手段を少しも無視していない。むしろ、生活手段の価値は、労働能力の価値によって表現されているのだ。〉

消化能力があっても、その人が実際に消化するためには、健康な胃があるだけでは十分ではなく、消化運動を行うエネルギーを生む食物を買う金が必要だ。だから労働能力という人は、労働能力の維持に必要な生活手段を無視しているのではなく、生活手段の価値を労働能力の価値として表現しているのだ。

上着の価値を実現する人は、それを売って得た貨幣で小麦を購入するように、労働力の価値を実現して、すなわちそれを資本家に売って、得た貨幣で彼は彼の労働力を維持し再生産するための生活手段を買うことにより彼の生命を維持することができる。だから労働力が販売できなければ、彼自身の生命は維持できないという残酷な現実に突き当たる。だからシスモンディがいうように「労働能力は売れなければ無である」ことを思い知ることになる。

ロッ47

労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段を、労働者と労賃を語るべきである。

①労働puissance de travailを独立した概念として扱うのは非現実的だ

ロッシは、「生産過程において労働力を語ることは、労働者の生活手段や賃金と切り離せない」という立場を取っている。彼は、労働力を抽象的な存ëtre de raison=理性的に作り出された抽象物、妄想として扱うことに疑問を呈している。

②労働力を語るなら労働者そのものを考慮すべき

労働(働く能力やその可能性は、それ自体が単独で存在するものではなく、それを提供する労働者と切り離せない。また、労働者の生活手(生きていくために必要なものや労(労働者が生活を維持するための賃金を含めて考えるべきだと主張する。

マルクス

マルクスは、ロッシの主張を「安っぽい感傷」と呼び、批判している。

①「労働力の価値規定」に対する無理解

ロッシの言う「労働力を抽象化するのは非現実的」という批判は、労働力が「商品」であるという資本主義の現実を見逃している。資本主義の下では、労働力そのものが商品として売買され、その価値は「労働者が生存するために必要な生活手段の価値」によって規定される。したがって、労働力を抽象的な(概念で捉えることは、資本主義社会における現実の分析として必要不可欠な方法である。

②ロッシの「道徳的立場」の限界

ロッシのような批判は、「労働力を売る労働者が生活手段なしでは生きられない」という事実を単に嘆くだけの感傷的な見方にすぎない。資本主義社会では、労働者は自らの労働力を商品として売る存在であり、これが労働力の「価値」として表れる。

この事実を単なる感傷で否定するのではなく、資本主義の仕組みの一部として科学的に分析する必要がある。

③妄ëtre de raisonではない

労働力を商品として捉えることは、資本主義社会の実際の構造を理解するための具体的な方法論であり、妄想や抽象という問題ではない。むしろ、ロッシのような「労働者の生活を切り離すべきでない」という感傷的視点が、現実分析を曖昧にしてしまう。

④ロッシの誤解:労働能(労働力の価値と使用価値の混同

▪労働能力の価値:これは、労働力が商品として市場で売買される際の「価値」を指す。具体的には、労働者がその労働力を維持・再生産するために必要な生活手(衣食住や教育などの価値である。したがって、労働能(労働力の価値は客観的な「価値規定」に基づいており、商品経済の法則の一部として捉えられる。

▪労働能力の使用価値:一方、労働能力の使用価値とは、労働者が実際に働くことで資本家に「価値を生み出す能(労働そのもの」を指す。この使用価値は、生産過程の中で資本家にとって初めて具体的な価値を発揮するものである。

労働能力を語るという事は「労働能力の価値」を語るという事である。だから、当然に労働能力を生み出すための「生活手段の価値」を語ることに等しい。労働能力の価値とそのための生活手段の価値が別のものであるかに言うロッシは、そもそも「労働能力の価値」という意味が分かっていない。ロッシは「労働能力」という言葉で、まだ実現していない「労働能力の使用価値」のことを考えている。だからこそ「生活手段」や「労賃」などという言葉が出てくるのである。

ロッシは、労働力の商品としての価(生活手段の価値を正しく理解せず、「労働能力」を単なる労働の潜在的な能力とみなしている。そのため、「生活手段」や「労賃」を切り離せないと考え、労働力の価値規定を批判しているのだといえる。

▪ロッシ Pellegrino Luigi Edoardo Rossi1787-1848)イタリア人の経済学者・法律家・政治家・外交官。革命思想に刺激されて、19世紀中国際的に活躍した人物の典型的な一例。……マルクスは、彼について、とんでもない知ったかぶりと、‘偉そうな出まかせの極致’、‘大衆文芸的論議、’教義ある饒舌にすぎない‘と酷評した(後略『資本論辞典586

※ 「ロッシにおいてばかげている点は、彼が「賃労働」を資本主義的生産にとって「本質的でない」ものとして描こうと努めていることである。」;『資本論草稿集235

※ ロッシの主張の〈誤り〉は、第一に、彼は生産過程にある間の労働者の生活手段がまさに労働力の価値のなかに含まれてい(それによって表現されていることが分かっていないことです。第二に、労働能力と労働とは同じではないこと、両者の区別が分かっていないということです。さらに第三に、賃労働が資本主義的生産にとって本質的であることも分かっていないことです。


マルクスがこのパラグラフ全体で言いたいことは労働力と労働とは異なること、労働能力はただの可能性にすぎず、それが売られなければ労働者にとっては何の意味もないこと、労働者の労働力はその使用価値を発現するための諸条件を欠いた単なる主体的な能力としてしか存在していないこと、しかしそれこそ資本主義的生産を規定する本質的なものであるということを述べているように思えます大阪『資本論』学習資料2022213

 

19.労働力という独自な商品の特有な性質は、買い手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまだ現実に買い手の手に移ってはいないということである。もちろん労働力の価値は、他のどの商品の価値と同じく、労働力が流通にはいる前から決定されている。なぜなら、労働力の価値を規定する労働力の生産に必要な社会的労働はすでに支出されているからである。だから労働力が販売された時(売買契約を結んだ時点で、その価値は実現される。しかし、その使用価値はあとで行なわれる(労働力の発揮においてはじめて成り立つ。だから、力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在の実証とは、時間的に離れているのである。

※ こうした特性は労働力商品に限ったものではなく、例えば家屋を一定期間使う契約を結ぶ場合も、その価値は契約時点で確定するが、実際に使用価値はその期間を通じて譲渡され実現されるという特性を持っている。

〈使用価値が販売によって形態的に譲渡されても現実にはそれと同時に買い手に譲られないようなこの種の商品が問題であるばあいに49、ほとんどいつでも、買い手の貨幣は支払手段として機能する。すなわち、売り手の商品はすでに使用価値として役立ったのに、売り手は長短の差はあれ期間を隔てて、やっと貨幣を受け取るのである。〉

※ ある種の商品の利用、たとえば家屋の利用は、一定の期間を定めて売られる。その期限が過ぎてからはじめて買い手はその商品の使用価値を現実に受け取ったことになる。それゆえ、買い手は、その代価を支払う前に、それを買うわけである。一方の商品所持者は、現に在る商品を売り、他方は、貨幣の単なる代表者として、または将来の貨幣の代表者として、買うわけである。売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。ここでは、商品の変態または商品の価値形態の展開が変わるのだから、貨幣もまた一機能を受け取るのである。貨幣は支払手段になる。;『資本論』第1巻3章の「b 支払手段」(全集第23a176-177頁)

〈資本主義的生産様式が支配している国ではどこでも、労働力は、それが契約できめられた若干時間すでに機能したときに、たとえば各週の終りに、はじめて支払いを受ける。したがって、労働者はどこでも、自分の労働力の使用価値を資本家に前貸しして、この価格を手に入れる以前にこれを買い手に消費させる。一言にして言えば、労働者はいたるところで資本に掛売りする。そして、この信用が空虚な妄想でないことは、資本家が破産したばあいに賃金の損失によって証明されるばかりでな50、これほど偶然ではない他の多数の結果によっても証明されるのであ51。〉

※ 俗流経済学の見解によれば、資本家はほとんどの場合労働者が生産する労働生産物を販売する前に労働者に賃金を支払っているがゆえに、賃金を労働者に前払いしているというのである。だが、現実には労働者が資本家に労働給付を信用貸ししているのである。;カウツキー『マルクスの経済学説66

※ 確かに私たちは、働いた結果、その成果として月末などに給与を受け取る。それは私たちが資本家たちに自分の労働力の使用価値を前貸して、信用を与えているのである。つまり我々は債権者であり、資本家はこの限りでは債務者である。だから資本家が破産したとき、労働債(未払い賃金の取り立てが問題になるのである。

貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかは、商品交換の性質を少しも変えるものではない。労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現される。とはいえ、契約で確定されており、労働力は、代価が後払いであろうと、すでに売られていることに変わりない。

当面は、いちいち支払手段としての機能を問題にせず、労働力を販(労働契約、雇用契約した時点で、その使用価値を譲渡し、その価格も実現されるものと想定して考えることにしよう。

49 「すべて労働は、それがすんだあとで代価を支払われる。」、「商人的信用は、生産の第一の創造者である労働者が、彼の節約によって、彼の労働の報酬を1週間とか2週間とか1か月とか4半期とかなどの末まで待てるようになった瞬間に、始まったにちがいない。」(ガニル)

あとの方の引用で「商人的信用は」、労賃が週賃金などになった瞬間に「始まったにちがいない」というのはまちがっている。ただマルクスは、ガニルがこうした週賃金などの形態が商業信用の一関係であることを見抜いていることに注目しているのだろう。

ガニール Charles Ganilh17581836)フランスの経済学者・金融評論家で、新重商主義者。……マルクスは‘復活した重商主義’とよび、彼を重商主義の‘近代的な蒸しかえし屋’あるいはフェリエとともに‘帝政時代の経済学者’と評価した。ガニールは富は交換価値からなり、貨幣だとして、商品の価値を交換の生産物と考えた。それは商品の価値形態から逆に価値が生ずるとする誤れる見方であり、結局、価値の実体を見ることなく、価値のうちにただ商品経済の社会的形態のみを、あるいはその実体なきその仮象のみを見るものである。;『資本論辞典』480



50 シュトルヒHeinrich Friedrich von Storch171661835は労働者が労働力の使用価(勤勉を信用貸しすることを認め、さらには賃金を失うこともありうることをも認めているが、それ‘物質的なものではないから、たいしたものではないかに主張して、資本家を弁護している。「賃銀が労働期間後に支払われ、その間労働者の信用貸となることに関連して、シュトルヒが労働者は勤労を貸すのであってなんら物質的なものを渡さないのだから賃銀を失うこと以外になんの危険もないと指摘している…ことを批判している」(『資本論辞典』500頁)

51 マルクスは一つの実例として、ロンドンには二種類のパン屋があることを引用する。一つは通常のパン屋、もう一つは安売りのパン屋。そして後者のパン屋が売っているパンは粗悪な品物で、さまざまな人体に有害な混ぜ物がなされて、増量されており、そのために安いのだが、しかしそのような有害なパンを労働者が買わざる得ない理由として、労賃の支払が週賃金と2週間末に支払われるという賃金の支払形態にあることを指摘している。彼ら1週間2週間働いたあとになってやっと賃金を受け取るので、それまでの間はパンをツケで買わざるをえず、だからそうした有害なパンでもとにかく掛け売りしてくれるパン屋で買わざるを得ないのだという。

またスコットランドの農業地方では、賃金の支払いの間隔がもっと長く、そのあいだにも労働者は生活手段を必要とし、ツケで購入する。だからツケで買える店に彼らは縛られており、そのために高い料金でもやむを得ず支払わされているのだと指摘する。これも賃金の支払形態からくる労働者への搾取の強化の一形態である。

このように賃金の支払が後払いになることによって、特にその支払が遅くなればなるほど労働者の不利益が大きくなるので、西スコットランドの捺染工たちはストライキに訴えて、支払期間を1カ月から2週間に短縮することを勝ち取ったことが例としてあげられている。

さらに賃金の支払形態の特徴を生かした資本家による搾取の強化について、マルクスはイギリスの炭鉱労働者の例を挙げている。労働者は月末に支払をうけるので、それまでの生活手段を炭鉱主から前借りする。それは事実上の現物支給であり、その場合の前借りする生活手段はその通常の市場価格よりも高いことが指摘されている。彼らは炭鉱主が経営する店でその前借りをするので、そんな高い商品でも買わざるを得ない。彼らへの支払いは月末1回行われるが、それまでの間の彼らの生活のためには週末ごとに炭鉱主の店で現金が前貸しされ、労働者は受け取った現金をそのままその店の商品の購入に当てる。受け取ったものを、そのまま右から左へと支払うことになる。

 

20.われわれは、労働力商品の独自性とその商品に特有な支払いの仕方を知った。この価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われる。

※その使用価値とは労働力の発現、すなわち労働そのもののことである。

貨幣所持者は労働力商品の消費過程に必要な、つまり労働者が彼の労働を対象化するのに必要なもの、すなわち原料その他を商品市場で購入して、その価格を支払う。

労働力の消費過程というのは、労働力の使用価値を実現する過程、すなわち労働過程であり、同時に商品の生産過程であり、同時にそれは剰余価値の生産過程でもある

労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行なわれる。そこで、われわれも、このそうぞうしい部面を、貨幣所持者や労働力所持者といっしょに立ち去り、隠れた生産の現場へ行こう。そこの入り口にはたいていこう書かれている。「関係者以外立ち入り禁止」と。

そこでは、どのように資本が生産を行うのかだけではなく、いかにして資本そのものが生産されるのか、すなわち剰余価値が形成されるのかということも、明らかになるだろう。ついに貨殖の秘密が暴かれる時が来た。

21.あの流通過(労働Arbeitskraftの売買も行われているというのは、これから進んでいく生産過程に比べると、まさに天賦人権の楽園だった。というのは、ここで支配しているのは、ただ自由Freiheitであり、平等Gleichheitであり、所有(財産Eigentumであり、そしてベンサ(利己主義Benthamである。

自由! というのは、労働力の売り手も、買い手も、彼らの自由意思にもとづいて行動する。彼らは自由で法的に対等な人として契約する。契約はそうした彼らの共通の意志の法的表現である。

平等! というのは、労働力の所持者も、貨幣の所持者も、ただ互いに商品所持者として関係し合い、等価物と等価物とを交換する。だから、彼らはその関係において平等である。

所有(財産 というのは、誰もが自己の労働にもとづいて生産物を領(所有するのである。

※ フランス革命[AN5] [AN6] 初期においては友(博愛の言葉は使われず、スローガンは「自由、平等、財産[AN7] [AN8] 」の言葉が一般的であった。;wikipedia「自由、平等、友愛」

「人および市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」1789826

1条 人は、自由かつ諸権利において平等なものとして生まれ、そして生存する。社会的区別は、公共の利益への考慮にもとづいてしか行うことはできない。

17条 所有権は不可侵のかつ神聖な権利であるから、何人も、適法に確認された公的必要がそれを明らかに要求する場合で、正当かつ事前の補償という条件のもとでなければ、これを奪われることはない。

ラ‐ファイエットMarie Joseph Paul Yves Roch Gilbert Motier La Fayette17571834]フランスの政治家・軍人。侯爵。 アメリカ独立革命で活躍後、フランス革命で人権宣言を起草。立憲王政を支持したため革命の進展の中で孤立して亡命。帰国後、王政復古を機に七月革命で再び活躍した。

 「交換価値の過程に基づく所有と自由と平等との三位一体は、まず最初17世紀18世紀のイタリア、イギリスおよびフランスの経済学者たちによって理論的に定式化されたが、それだけではない。所有、自由、平等は、近代ブルジョア社会においてはじめて実現された。」 「交換価値の制度は、そしてそれ以上に貨幣制度は、実際には自由と平等の制度である。そしてより深く展開してゆくにつれて現われてくる諸矛盾は、この所有、自由および平等そのものに内在している諸矛盾、葛藤である。というのは、所有、自由および平等そのものが折あるごとにそれらの反対物に転変するからである。」;『資本論草稿集』③『経済学批判・原初稿』134-136

※ マルクスの問題意*プルードンを小ブルジョア的社会主義として批判するからすれば、「自己労働こそが本源的な所有権原であると言明し、自己労働の成果にたいする所有こそがプルジョア社会の根本前提であると言明する」「近代経済学者(「原初稿」S.49.が批判されなければならないし、そのようにあらわれる姿態そのものの検証が必要とされよう。単純流通にあっては、等価交換の原則にしたがい等価物の取得によってのみ諸商品の所有者となりうるしたがって、等価交換が成就する以前の、つまりはこの単純流通が支配する以前の諸商品の所有は、その諸商品所有者の労働に由来したものであるかのように現象する、③かくして、「労働が領有の本源的な様式(「原初稿」S47.となり、「その商品で自分の労働をあらわしている者の対象性であり、彼自身の生みだした、彼自身の他の人々にたいする対象的な定在(同上となる。このように、「流通それ自体のなかでは、つまりブルジョア社会の表層にたちあらわれる交換過程のなかでは、各人は受け取るがゆえにのみ与え、与えるがゆえにのみ受け取る(「原初稿」S.48.ためには交換の主体も客体もいずれもその前提に「所有」がなければならないことになる。;赤間道夫『マルクスのベンサム論「自由、平等、所有そしてベンサム」の解剖愛媛大学法文学部論集「経済学」198922

ベンサム! 彼らのどちらにとっても、自分自身だけが問題だからであ(彼らはそれぞれ自分のことしか考えていない。彼らを対面させ、関係させる唯一のMachtは、彼らの利己主義の、彼らの個別的利益の、彼らの私益の、力である。各人は自分のことだけを考え、誰も他人のことを気にかけないのであって、まさにこのために、事物の予定調和によって、すなわち、全知の摂理の庇護のもとに、彼らはめいめい自分のために、めいめい自分の家で働きながら、同時に、全体の功利、共通の利益のためにも働くのである。〉

* Macht, [マハト] (()power)Kraft((単数で)) 力,威力 ((単数で))Herrschaft権力,支配力

※ ただ自分の欲得にもとづいて、利己的な計算だけで、彼らは互いに交換者として関係し合う。そしてめいめいが自分のことだけを考えて行動することによって、諸関係に内在する社会的な諸法則が自己を発現し、予定調和の摂理が働くことになる。彼らは自分のことだけに関心を持って働きかけながら、その結果として他人の役にも立つのであり、社会全体の共通の利益にも寄与する

※ ベンサムは、同時代の国民的傾向に一致して、個別的利益を普遍的利益の基礎とし、とりわけ後年彼の門弟ミルによって展開された命題、人類愛は達識の利己主義にほかならない、という命題のうちで、個別的利益と普遍的利益との同一性を承認し、『公益』を最大多数の最大幸福ととりかえ、こうしてこの原理の本質上社会的な本性をさらに展開している。……彼は、はじめに、普遍的利益と個別的利益とは分離できない、といいながら、あとでは一面的にまったくの個別的利益を固執している彼の命題は、人間は人類なり、というもうひとつの命題の経験的表現にすぎないが、経験的に表現されているので、自由な、自覚した、自己創造的な人間ではなくて、粗野な、盲目の、諸対立にとらわれた人間にたいして、類に属する諸権利をあたえる結果になっている。この命題は、自由競争を倫理の本質としており、所有すなわち物の法則によって、人類の諸関係を規制している。……ベンサムは、国家をのりこえないで、国家から一切の内容をとりさり、政治的原理を社会的原理ととりかえ、政治的組織を社会的内容の形式とならせ、こうして矛盾を絶頂にまでたかめている。;エンゲルス「イギリスの状18世紀」『フォルヴェル73 18449.11、全集第1S.567

*「イギリスの労働者階級の状態」は、エンゲルス25歳のときに出版された。ここでの「功利主義」批判は注目に値する(名

※ ベンサム Jeremy Bentham1748-1832)イギリスの法学者・功利主義思想の代表者。……彼はエルヴェシゥスのフランス唯物論およびイギリス経験論哲学を学び、道徳・立法の基礎を個人の利益・快楽におき'最大多数の最大幸福'The greatest happiness of the greatest numberという功利主義をもって市民社会の基礎原理とした。ここにおいてスミスにみられ‘見えざる手のような自然法思想は捨て去られ、徹底した個人的原子論的社会として資本主義社会が把握されるにいたった。;『資本論辞典』550

※ 1. 功利主義とは何か

功利主義はジェレミー・ベンサムによって体系化された倫理理論で、次のような原則に基づく。

▪行動や制度の価値は、それがもたらす幸(快楽や利益によって判断される。

▪「最大多数の最大幸福」を目指すことが、道徳的に正しい行動とされる。

功利主義は、人々が自分の利益や幸福を追求すること自体を道徳的に正当とし、その結果、全体の幸福が増進されるなら、それは良いことだと考える。

2. 資本主義との親和性

資本主義社会では、個々の経済主(企業、労働者、消費者がそれぞれ自分の利益を追求する。例えば、

    企業は利益を追求する。

▪労働者は賃金や生活の向上を目指す。

▪消費者は自分の満足を最大化する商品を選ぶ。

これらの行動が個別に行われても、市場メカニズ(価格や需要・供給の調整を通じて、全体の経済的調和が実現するとされる。ベンサムの功利主義は、この「自己利益の追求が全体の幸福を高める」という資本主義の基本原理を道徳的に擁護するものとなる。つまり、次のような主張が可能になる。

「各個人が自分の利益を追求することは道徳的である」。つまり、自分の幸福を目指して行動することが、結果的に社会全体の幸福を増進するなら、それは善であるとされる。

3. 功利主義が「倫理的正当性」を与える理由

功利主義が資本主義に「倫理的正当性」を与えるのは、次のような仕組みである。

(1) 自己利益の追求を正当化する

資本主義では、企業が利益を追求することや労働者が高賃金を求めることは不可欠な要素です。しかし、これらの行動は自己中心的に見えるかもしれない。しかし、功利主義は、「自己利益の追求」は社会全体の幸福を高めるための手段だと主張する。したがって、それは道徳的に問題がないどころか、むしろ善いことであるとされる。

(2) 競争を肯定する

市場競争はしばしば過酷であり、敗者を生む。それでも、功利主義的な視点からは、競争が全体の効率や幸福を高めるならば、それは倫理的に正当だとされる(例:企業が競争によって効率化すれば、消費者はより安価で良質な商品を手に入れることができ、社会全体の幸福が増す。)

(3) 不平等を許容する

資本主義社会では、しばしば富の不平等が生じますが、功利主義は「不平等そのもの」よりも、「全体の幸福」を重視し追い求める。つまり、不平等が全体の効率や幸福を促進するなら(不平等があったとしてもそれも正当化されていく(例:資本家が労働者を搾取して利益を得ることが、結果的に経済の発展や雇用の増加につながるなら、それは道徳的に許容されることになる。)

4. マルクスの批判:表面的な正当性

資本主義の流通過程では、売り手と買い手は対等で自由な立場に見える。しかし、実際には「労働力の商品化」や「剰余価値の搾取」という構造が隠されている。つまり、功利主義は外見的な平等を正当化する。

さらに、「最大多数の幸福」は搾取の結果であり、労働者が生産過程で剰余価値を資本家に奪われている現実を覆い隠しながら、一方では少数の資本家が巨大な利益を上げていく。「全体の幸福」という概念で不平等を正当化するのは欺瞞的だとマルクスは主張する。つまりマルクスの問題意識は、功利主義によって与えられるこの「倫理的正当性」を痛烈に批判することにある。

5. 具体例:労働力の商品化と功利主義

流通過程では、労働者が労働力を「自由」に売(労働力の対価として賃金を受け取る。公正な交換と流通の一方で、資本家はその労働の成果を「搾取」している。つまり支払った賃金以上の剰余価値を「搾取」している。この関係が功利主義的な論理で「全体の幸福」として美化されてしまう。

ベンサム的視点では、資本家が利益を追求することや労働者が賃金を得ることが、双方の利益に資する「合理的な行為」と見なされる。しかし、マルクスにとっては、この仕組みの背後にある剰余価値の搾取が問題の核心なのである。このことが等価交換が行われる流通過程の陰で行われる搾取の構造を暴露し糾弾することこそが、マルクスがベンサムを「流通過程」の議論で持ち出した理由である。

功利主義が資本主義に「倫理的正当性」を与えるとは、「個人の利益追求が全体の幸福を促進する」という論理を通じて、資本主義の競争や不平等、搾取を道徳的に肯定することを意味する。マルクスがベンサムを批判的に取り上げたのは、このような功利主義が資本主義の外見的な平等性や正当性を擁護するための思想的武器になっているからなのである。

※ ベンサムの「功利主義」と流通過程の関係

ベンサムの主張した功利主義の基本原理は、「最大多数の最大幸福」だが、その実践においては、「個々人が自分の利益を追求することが全体の幸福につながる」という考えが強調される。

流通過程における参加(売り手と買い手は、互いに等しい自由な主体とみなされ、それぞれが自分の利益のために行動する。この状況は、ベンサム的な倫理観と一致する。つまり、各個人が自分の利害だけを考えて行動しても、それが「市場」という場で調整され、全体の秩序が保たれるという暗黙の前提である。

マルクスが「ベンサム!」と呼びかけるのは、このような「自己利益の追求」を道徳的に正当化しようとする功利主義を、資本主義の流通過程と結びつけて、皮肉っているのであろう。

フランス革命の理念に続けてベンサムがスローガンとして出てくるのはいささか違和感を覚えないでもない。マルクスが「ベンサム」をここで言及した意義は、資本主義の流通過程を特徴づける際に、この功利主義がその思想的な基盤を提供していること(皮肉を込めて示す点にあったのであろう。

資本主義における流通過程は、外見上「自由で平等な主体同士の交換」という形態をとる。この交換過程では、売り手も買い手もお互いに対等で、誰もが自分の利益を追求する。ベンサムの功利主義は、この状況を倫理的に擁護する理論として、資本主義社会の「理想化された側面」によく馴染むものである。

しかし、マルクスはこの自由で平等な外見を批判する。つまり、流通過程の裏側では、労働力の商品化や剰余価値の搾取が隠されているため、この「自由で平等な交換」は実際には欺瞞的だと指摘し、後の章ではこの隠された「搾取」を実体とともに暴いていく。

ところで、生まれたての資本主義社会を分析し理論化したのはアダム・スミスであり、彼の「自由放laissez-faire」の考え方は、資本主義の経済秩序が「見えざる手」によって自然に調整されるという楽観的な観点に基づいていた。スミスの思想では、各個人が自己利益を追求することが結果的に社会全体の利益を増進すると考えた。しかし、スミスは市場の調整機能を重視する一方で、労働者の生活や労働条件の改善についても一定の配慮を持ってい(『国富論』の中で、労働者階級が置かれる状況についての懸念を示している。 『国富論』110のである。

 ベンサムの功利主義は、より抽象的かつ理論的に「個人の利益追求が社会全体の幸福をもたらす」という点を強調している。このため、倫理的な観点からも「資本主義の秩序」を正当化しやすい理論となっている。

マルクスにとって、スミスの議論はまだ資本主義の矛盾を完全に覆い隠すものではなく、労働者階級への影響にも目を向ける側面があるため、むしろ資本主義における自由や平等に隠された内実を暴くのにはベンサムが適切だと考えたのだろう

マルクスがベンサムをとり上げた理由をまとめておく。

資本主義の外見的な「平等性」と功利主義の親和性……流通過程の外見上の平等や自由を倫理的に正当化する理論として、ベンサムの功利主義が非常に都合よかった。

「自己利益の追求」に対する皮肉……流通過程における「各自が自分の利益しか考えない」という状況を、ベンサムの功利主義を引き合いに出して批判するため。つまり、ベンサムの理論が、資本主義の表層的な「調和」を支え、正当化する思想的な支柱となっている点を強調している。

アダム・スミスとの違い……アダム・スミスは、資本主義を肯定する中にも一定の懸念を持っていたが、ベンサムはその懸念をさらに削ぎ落とし、資本主義の倫理的擁護を純粋化していると言える。マルクスにとっては、より典型的な批判対象として適していたのである。

マルクスがベンサムを持ち出したのは、流通過程の「自己利益の追求」に基づく表面的な調和を、功利主義を通して皮肉を込めて批判するためである。また、アダム・スミスよりもベンサムを選んだ理由は、ベンサムの理論が資本主義の外見的秩序を倫理的に支える役割を果たしているからと言える

※ 功利主義:すべての個人の幸福の最大化を善とする倫理学説 wikiwandより)

倫理学において功利主(こうりしゅぎ、英:utilitarianismとは、影響を受けるすべての個人の幸福を最大化する行為を指令する規範倫理学の理論の一派である。

功利主義にはさまざまな種類があるが、それらの基本的な考え方は効用を最大化するということである。効用は、しばしば幸福や関連する概念で定義される。例えば、功利主義の創始者であるジェレミ・ベンサムは、「効用」を次のように説明している。

「ある対象が持つ性質で、それが利益や利点や快楽や善や幸福を生み出す傾向があるもの(またはその関係者の利益に反する害や苦痛や悪や不幸を防ぐ傾向があるもの。」

功利主義は、あらゆる行為の結果をその行為が正しいか間違っているかを唯一の基準とする帰結主義の一種である。他の帰結主義と異なり、功利主義はすべての感覚的存在の利益を平等に考慮する。功利主義の支持者は、行為をその可能性のある結果に基づいて選択すべき(行為功利主義、効用を最大化する規則に従うべき(規則功利主義など、多くの問題について意見が分かれている。また、効用の総(総量功利主義、平均効(平均功利主義、最も不利な立場にある人々の効用のいずれを最大化すべきかという問題もある。

22.この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働の社会についての彼の判断の基準を取ってくる。しかし、いまこの部面を去り「秘密の生産の場所」に移るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、すでにいくらか変わっている。

貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は資本家の労働者としてあとについて行く。一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまい、もはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のように。

※ このような単純流通や商品交換の部面は、ブルジョア民主主義の基礎となっていますが、そこから小ブルジョアジーたちのそれに対する幻想をもたらす一方で、ブルジョアジーたちが自分たちの利害の隠れ蓑に利用するということが生じてくる。つまり、ブルジョア社会の表面に現れている天賦人権の花園を去った先には、厳しい搾取の現実が待っている。そこでは平等や自由はすでになく、資本と賃労働との対立が待ち構えているのである。

※ 「単純につかまれた貨幣諸関係のなかでは、ブルジョア社会の内在的対立がすべて消し去られたようにみえ、またこの面からして、ブルジョア経済学者によって現存の経済的諸関係を弁護するための逃げ場とされる以上(彼らはこのばあい少なくとも首尾一貫していて、交換価値と交換という、貨幣関係以上に単純な規定にさかのぼる、ブルジョア民主主義によって、この貨幣関係がふたたび逃げ場に使われるのである。」;『資本論草稿集』①『資本論要綱』275

※ 現存のブルジョア社会の全体のなかでは、諸価格としてのこうした措定や諸価格の流通などは、表面的な過程として現われ、その深部においてはまったく別の諸過程が進行し、そこでは諸個人のこのような仮象的な平等と自由は消失する。;『資本論』草稿①『資本論要綱』285

※ 「まるで自分の皮を売ってしまって」:新日本新書版『資本論』訳者注 「普通は「危険をしょい込む」「不快な結果に耐える」を意味する慣用句であるが、マルクスは語句どおりに用いて風刺している。」(新版『資本論第2分冊302頁)

※ 奴隷の売買では、奴隷の人格―身personは「ひとまとめにして一度に」譲渡される。「ひとまとめ」の意味するところは、奴隷の人格―身体は買い手に全部譲渡され、売り手にはその奴隷に関するものは何も残らないということである。新しい主人が奴隷をどう扱おうとも、元の主人はそれに口出しすることはできない。これに対して、労働力の売買の場合、賃労働者の人格―身体のすべてが譲渡されるわけではない。つまり、賃労働者の人格―身体は、労働力の商品化を通じて、資本に譲渡される部分、すなわち、交換の対象―客object=商品と、譲渡されない部分、すなわち、交換の主subject=商品所持者とに二重化されることになるのである

労働力の売買における人格―身体の譲渡の部分性「ただ一定の時間を限ってのみ売るという点に、差し当たり、見て取ることができる。賃労働者は「ただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけ」であり、その後の労働力の所有権までは放棄していない。賃労働者が資本家の命令に従うのは雇用期間中だけであり、奴隷のように死ぬまで服従することを義務づけられるわけではない。雇用契約が切れれば、元の「自由」で、資本家と「対等」な人に戻ることができるのである。

しかしながら、人格―身体の譲渡されない部分が雇用期間の前後に限られるとするならば、賃労働者は、一時的にせよ、その全人格―身体を奪われ、隷属状態に陥ることになる。そうであるとすれば、賃労働を奴隷制とは異質の自由な制度と見なすためには、雇用期間終了後には自由が回復されるというだけでは未だ十分ではない。雇用期間中にも、人格―身体の譲渡されない部分、つまり、固有propertyが残っていると想定されねばならないのである。;沖公おきこうす『「富」なき時代の資本主義』115

※ 「集合的な意味での現代意識にしみついているいちばん愚かしい偏見は、おそらく労働に関するものである。……労働者たちは、ほとんど宗教的なやり方で、労働の思想を栽培している……」と、ブルトン1925『シュルレアリスム革命』誌のなかで語る時、彼は、ラファルグと同じ現代の悪を、労働のなかに見るのである。現代にはびこる「労働神格化」の思想こそ、労働者を、ひいては人間を悲惨の極に追いこんでいくと彼は説き、また、「……労働のこと、つまり労働の倫理的価値などについて聞きたくもない。私は労働の概念を物質的必要として受けいれざるをえないので、この点では、労働のもっとも有利な配分、もっとも正当な配分に、誰にもまして共鳴している。つまりいまわしい生活上の義務によって労働を課されるのならよいが、自分や他人の労働を信じろだの敬えだの言われるのはごめんだ。……労働している限りは、生きていることはなんの価値もない『ナジャ』、1928と断言している。ここにわれわれは、『怠ける権利』にこめられた主張の延長線上にある考え方を見ることができよう。;田淵晉也訳『怠ける権ポール・ラファルグ「訳者あとがき」208


 [AN1]〈労働能力は、使用価値としては、独自なものとして他のあらゆる商品の使用価値から区別される。第一に、それは売り手である労働者の生きた身体のなかにある単なる素質〔Anlage〕として存在する、ということによって。第二に、他のすべての使用価値からの、まったく特徴的な区別をそれに刻みつけるものは、それの使用価値――使用価値としてそれを現実に利用すること〔Verwertung〕、すなわちそれの消費――が労働そのものであり、したがって交換価値の実体であるということ、それは交換価値そのものの創造的実体であるということである。それの現実的使用、消費は交換価値を生むこと〔Setzen〕である。交換価値を創造することがそれの独自な使用価値なのである。〉 (草稿集④『61-63草稿』61)

 [AN2]  1章「商品」の第2節「商品にあらわされる労働の二重性」の最後のパラグラフに、次のような説明がありました。

  〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。〉 (全集第23a63)

  ここでは〈生理学的意味での人間の労働力の支出〉と〈特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出〉という形で〈人間の労働力の支出〉という言葉が二度出てきます。しかしこの段階ではまだ〈労働力〉というのはそもそも何か、ということは問わないままでした。

  また同章第4節「商品の物神的性格とその秘密」にも次のような一分があります。

  〈いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。〉  (全集第23a96-97)

  ここでは人間の身体に備わった潜勢的な力としての労働力ではなく、実際にそれが発揮される〈有用労働または生産活動〉を規定しているといえます。しかし〈人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だ〉というのは「労働力の支出」を規定しているといえるのではないでしょうか。

  最後に『61-63草稿』からも紹介しておきます。

 〈したがって、次のことはしっかりとつかんでおかなければならない。――労働者が流通の領域で、市場で、売りに出す商品、彼が売るべきものとしてもっている商品は、彼自身の労働能力であって、これは他のあらゆる商品と同様に、それが使用価値であるかぎり、一つの対象的な存在を――ここではただ、個人自身の生きた身体(ここではおそらく、手ばかりでなくて頭脳も身体の一部であることに、言及する必要はあるまい)のなかの素質、力能〔Potenz〕としての存在ではあるが――もつ。しかし、労働能力の使用価値としての機能、この商品の消費、この商品の使用価値としての使用は、労働そのものにほかならないのであって、それはまったく、小麦は、それが栄養過程で消費され、栄養素として働くときに、はじめて現実に使用価値として機能する、というのと同様である。この商品の使用価値は、他のあらゆる商品のそれと同じく、その消費過程ではじめて、つまり、それが売り手の手から買い手の手に移ったのちにはじめて、実現されるのであるが、それは、それが買い手にとっての動機である、ということ以外には、販売の過程そのものとはなんの関係もないのである。〉 (草稿集④78-79頁)

 [AN3]労働者が売るものは、彼の労働そのものではなく彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである。だからこそ、イギリス法では定められているかどうか知らないが、たしかに大陸のある国々の法律では、労働力を売ることをゆるされる最長時間が定められているのである*。もし労働力をいくらでも長期間にわたって売る事がゆるされるとしたら、たちどころに奴隷制が復活してしまうであろう。こうした労働力の売却は、もしそれがたとえば人の一生にわたるならば、その人をたちまち彼の雇い主の終生の奴隷にしてしまうであろう。

  * イギリスでは1848年の新工場法で婦人と年少者の十時間労働法が施行されたが、交替制の採用によって有名無実となり、また成年男子労働者の労働日は制限されておらず、一方、ヨーロッパ大陸、たとえばフランスでは、2月革命の結果、1848年の命令で成年労働者の1日の最長時間をパリで10時間、その他で11時間と定め、革命政府の倒壊後は、49年の大統領令で全国一律に112時間と定められた。 (全集第16巻『賃金・価格・利潤』128-129)

 [AN4] 〈彼が、自分の労働がそのなかに対象化されているなんらかの商品の代わりに、自分の労働能力を、すなわち、他のすべての商品――それが商品の形態で存在しようと、貨幣の形態で存在しようと――から独自に区別されるこの商品を、売ることを強制されるためには、次のことが前提されている、――すなわち、彼の労働能力を実現するための対象的諸条件、彼の労働を対象化するための諸条件が欠けており、無くなってしまっており、その諸条件はむしろ富の世界、対象的富の世界として他人の意志に従属しており、彼にたいして商品所有者の所有物〔Eigentum〕として、流通においてよそよそしく対立している――他人の所有物〔Eigentum〕として対立している――、ということである。彼の労働能力を実現するための諸条件とはどのようなものか、言い換えれば、労働の、すなわち過程にある〔in processu〕・使用価値に実現されつつある活動としての・労働の対象的諸条件とはどのようなものか、ということは、あとでもっと詳しく明らかにしよう。〉 (草稿集④『61-63草稿』52-53)

 [AN5]…フランス革命の特質が、19歳で革命勃発の報に接し、その後の動向をも息をつめるようにして追いかけた隣国ドイツの青年ヘーゲルに、「いまや精神的なものの意識こそが社会的現実の不可欠の要素をなし、哲学が支配の原理となる」と思わせたとしても、ふしぎはない。「哲学の支配」は一七九三年のジャコバン派独裁を経て、やがて「恐怖の支配」へとむかう。『精神現象学』でジャコバン派のテロリズムを痛烈に批判したヘーゲルだったが、だからといって、革命そのものを否定することはなかった。哲学的な理性を知的社会に広く行きわたらせたのが啓蒙思想だったとすれば、フランス革命はその理性を社会の現実そのもののうちに広く行きわたらせる、画期的な政治運動だったのである。

 太陽が天空にあって惑星がそのまわりをまわるようになって以来、人間が頭で、つまり思想で立ち、思想にしたがって現実をきずきあげるといったことはかつてなかった。ヌース(知性)が世界を支配する、と最初にいったのはアナクサゴラスだったが、いまはじめて人類は、思想が精神的現実を支配すべきだと認識するに至ったのです。ここには、まさしく、輝かしい日の出がある。思考するすべての人びとが、この時代をともに祝福しています。神と世界との現実の和解がいまはじめてもたらされたかのごとくで、高貴な感動が時代を支配し、精神の熱狂が世界を照らしだします。(ヘーゲル『歴史哲学講義』岩波文庫 下 359頁)

 ヘーゲルにとって、フランス革命を賛美することは、そのまま自分の生きるヨーロッパ近代を祝福することにほかならなかったのである。;長谷川宏『新しいヘーゲル』169-171

 [AN6]日本大百科全書(ニッポニカ)

フランス革命 ふらんすかくめい
Révolution française フランス語
French Revolution 英語

フランス革命とは1789714日から1799119日(共和暦8年ブリュメール18日)にかけてフランスに起きた革命をいう。

革命の意義

この革命は、思想、法律、政治、社会全領域に及ぶもので、自然権思想を武器とし、絶対王制の法構造を打ち破り、私的所有を基礎とするブルジョア社会を建設した。その過程で諸階級が並行的に革命に参加したので、市民革命の典型ともいわれるが、帰着するところは国内商工業の自由、土地耕作の自由の承認であった。革命は出発点においては絶対主義国家間の戦争を否定したが、途中からオーストリア、プロイセンなどの干渉戦争が始まり、ついでイギリスが参戦、その圧力を受けて急展開を示し、政情の不安定も続いたため、最終的に軍隊を背景にしたナポレオンのクーデターで収拾されることとなった。これはフランス革命が起きた歴史的環境を示しており、イギリスよりは後進国、大陸の他の諸国よりは先進の資本主義国であったことの反映である。

[岡本 明]

背景 

革命の思想を培養したものは、18世紀中葉からの啓蒙 (けいもう)思想である。このうち、モンテスキューは三権の区別と有機的結合を説き、貴族制を生かした君主制を理想とし、ルイ14世流の絶対主義を批判した。ボルテールは宗教的狂信を非難して寛容論を唱え、ケネーは啓蒙的君主専制の下で地主国家への脱皮を説き、ディドロは人間本来の幸福を欲望の充足に認めた。最後にルソーは、文明への激しい批判から出発して、個人が契約により人格と所有権を譲渡するかわりに平等な公的権利を受け取る人民国家を構想した。これら各種の批判の的になった絶対王制は、身分制社会に立脚し、2500万国民の2%にすぎない僧侶 (そうりょ)・貴族に免税特権を与えていた。彼ら特権身分は、第三身分とりわけ85%を占める農民の納税に寄生し、なおかつ封建領主としては領主制地代を徴しながら宮廷や地方で暮らしていた。ルイ16世(在位17741792)の政府は、それまでの累積赤字に加えて、アメリカ独立革命を救援した軍事費のため、財政の窮乏に陥った。このため、財務総監カロンヌはやむなく17872月に名士会を招集した(革命の開始点をこの時期にとる歴史家もある)。ここで特権身分にも課税する「補助地租」の提案を行ったが、僧侶・貴族の強い反対にあい、勅令審査権をもつ高等法院もこれに結託してカロンヌを失脚させた。同様に財務審議会長ブリエンヌと国璽尚書ラモアニョンの税制・司法改革も挫折 (ざせつ)し、17888月ネッケルがふたたび財務長官に起用された。彼は第三身分の財力を借りて財政危機を乗り切ろうとし、高等法院が要求した全国三部会 (エタ・ジェネロー)の招集に応じ、第三身分議員を倍増することを決めた。

[岡本 明]

革命の経過

三部会から国民議会へ 

全国三部会は178955日、ベルサイユ宮殿で開催された。僧侶・貴族議員は各300人、第三身分は約600人であった。シエイエスら第三身分議員は合同討議を主張し、僧族議員の一部がこれに和して617日国民議会を宣し、ラ・ファイエットなど自由主義貴族も合流して同月末、正式に承認された。国民議会は7月初めから憲法作成の作業にとりかかるが、アルトア伯など宮廷保守派は国王に圧力をかけ、ベルサイユ付近に軍隊を集結させたため、パリ市民に極度の不安を与えることとなった。

[岡本 明]

バスチーユ襲撃

1789711日、国王ルイ16世は事態の責任者としてネッケルを罷免した。この知らせがパリに届くと市民は激高し、同月14日約1万人が政治犯を収容していたバスチーユ牢獄 (ろうごく)を襲撃、王室親衛隊がこれに加担し占拠した。翌日、旧体制最後のパリ市長ド・フレッセルと守備隊長ド・ローネーは殺され、宮廷の企図は阻まれた。パリは自治制の確立に向かい、選挙人会から市長バイイ、国民衛兵隊総司令官ラ・ファイエットが任命された。

[岡本 明]

封建的特権の廃止と人権宣言

地方ではパリの運動に呼応するかのように激しい農民騒擾 (そうじょう)が起こった。すでに18世紀中葉から領主は地代滞納地の回収や、農民の出費による土地台帳の改訂を行って彼らの反発を浴びていたが、このころ、農村に野盗を放つという「貴族の陰謀」の流言におびえた農民は逆に領主の城館を襲い土地台帳を火に投じた。この騒擾を背景に、憲法制定議会(立憲議会)は178984日夜、ノアイエ子爵の提案で封建的特権と領主制の廃止を宣言し、法の前の平等の前提条件が実現した。ただし17903月、農奴身分にまつわる領主権は無償廃止されるが、土地に関する領主権、つまり領主制地代は貨幣による買戻しとされたため、小農層の不満は収まらなかった。立憲議会は次いで1789826日、ラ・ファイエットやシエイエスらの草案をもとに人権宣言を可決し、人間の生来の自由、権利の平等、国民主権、租税の平等、所有権の神聖など新しい国民社会の基本原則を打ち出した。この人権宣言は、即政治的平等をうたっておらず、抵抗権の具体的な行使法も明記していないことから、ルソーの社会契約論や後のジャコバン=山岳派 (モンタニャール)人権宣言とは同一視できないが、農村や都市民衆の運動を背景に、これをてことしつつ絶対王制や保守派貴族の抵抗を破って新しい市民社会の構成原理を宣明したといえよう。国王は封建的特権の廃止と人権宣言への同意をためらったが、105日、おりしもパン不足に悩まされていたパリ市場街の主婦たちは、ベルサイユまで行進し、議会に訴えるとともに翌6日王宮に乱入したため、国王は議会の意に添って宣言に同意し、同時に議会とともにパリに帰還した。これによって最終的に絶対王制への復帰の夢が奪われたといわれる。

[岡本 明]

▲1791年憲法

立憲議会はすでにバルナーブの線に沿って一院制と国王の停止的拒否権を定め、立憲君主制の根幹を築いたが、財政の改善は、タレーランの提案どおり教会財産の国有化と売却によるほかないと考えた。かくして17905月から教会財産の競売が始まったが、支払手段として発行したアッシニャを紙幣に切り替え、漸次、大量発行していった。僧侶自身については政府から俸給を払われる役人とし、これを定めた僧侶民事法への宣誓を強制された。こうして聖界は立憲僧と宣誓拒否僧に分裂し、宣誓拒否僧は革命に敵対し始めた。立憲議会はこのほか、県制の施行、司法制度の整備、農事法の制定、ギルドの廃止など近代的改革を行ったが、納税額によって能動市民と受動市民との差別を設け、3日分の労賃に相当する直接税を納める市民にのみ、予選会での投票権、集会権、請願権を認め、国民衛兵からも受動市民を排除した。またル・シャプリエ法によって、職人・労働者の団結を禁止した。要するに立憲議会は、自由主義貴族と上層ブルジョアジーを主体としながら、領主制の地主制への脱皮と商工業の自由というブルジョア革命としての最小限の課題は果たそうとしたのである。ところが、国王一家は、17914月のミラボーの死後、革命の成り行きに不安を感じ、大臣任命権への制約に不満なこともあって、620日、パリからの逃亡を図りバレンヌで捕らえられた。パリの急進派はこれを怒り、とくにコルドリエ協会の市民は7月シャン・ド・マルスに王制廃止の請願運動を起こし、ラ・ファイエット指揮の国民衛兵はこれを鎮圧した。議会ではバルナーブらが憲法の完成を急ぎ、9月、全編を採択して解散した。

[岡本 明]

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1881

 [AN7]この標語の誕生は派手なものではなく、明瞭なものでもない。(中略)アルフォンス・オラールは、この標語が革命のプロセスの各段階に対応する3つの運動によって順次形成されたものであると示唆している。最初が「自由」で、これは革命初期において最も人気のある概念であった。次いで、1792年の810日事件(ルイ16世の逮捕)を端緒に「平等」が浮上する。「友愛」の芽が出るのは山岳派支配の時期の終わりになってやっとであった。この標語の3拍子は歴史時間の流れのリズムであったということになる。アルベール・マチエもオラールと同意見であるが、「友愛」がもたらされたのはさらに後のことで、フリーメイソンを起源として、1848年になってやっと認められるようになったのではないかとしている[要出典]。革命暦の構成もこうした仮説の支持材料となる。1789714日に始まる年を「自由元年」、1792810日に始まる年を「平等元年」(自由4年)としているのである。
wikipedia「自由、平等、友愛」

 [AN8]哲学者で、『エスプリ』誌の元編集長のポール・チボーによれば、自由と平等が権利として受け取られうる一方で、友愛は各々が他者に対して負う義務である。よって、これは倫理的なスローガンなのである。


第4章第3節PDFファイル ↓
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