2025-07-19

第5章 労働過程と価値増殖過程 
第2節 価値増殖過程

マルクスは先に検討した「第1節 労働過程」と「第2節 価値増殖過程」との関係について、次のように述べている。

「価値増殖過程は、なるほど、一定の社会的形態における労働過程――あるいは労働過程の一定の社会的形態-―にすぎず、〔この二つの過程は〕二つの別々の現実的過程などではなくて、一つにはその内容から、もう一つにはその形態から考察した、同一の過程なのではあるが、しかしすでに見たように、労働過程の異なった要因の関係は、価値増殖過程において新たな諸規定を受け取るのである。」;『資本論』草稿集④220

1.資本家の所有物である生産物は、ある特定の使用価値である。しかし資本家はそれを有用のゆえに製造するのではない。

 1節では、まずは使用価値の生産の過程、すなわち労働過程だけを価値増殖過程と切り離して考察した。そこでは、労働過程というのは、使用価値をつくるための合目的的な活動であり、人間と自然との物質代謝を媒介するもので、あらゆる社会に共通する普遍的なものであった。

生産物が商品であるのは、それが価値をもつが故にである。この場合、使用価値はただ価値の担い手という意義を持つに過ぎない。商品を商品たらしめているのはそれが価値だからであり、資本家が使用価値を生産したとしても、それが商品としては価値を担う素材的な存在だからである。彼の目的はあくまでも価値である。

※ qu'on aime pour Jui-même それ自身のために愛され(存在している

「使用価値はその使用価値として重要視されているのではない」ということ。

まず、彼は商品を生産する。すなわち交換価値をもっている使用価値を生産する。すなわち商品を生産する。

そして第二に、彼が生産した商品の価値が、その生産のために必要で、彼が市場で買い入れた、諸商(生産諸手段と労働力の価値の総額よりも、高いことが必要である。

資本家はただ単に使用価値だけを生産するのではなく、商品を必要とするすなわち使用価値だけではなく同時に価値を生産しようとするそしてそれは単に価値だけではなく、剰余価値をも同時に生産することが目的である

※ 商品生産者の場合、使用価値の生産は商品の価値の生産という目的を実現するための手段にすぎない。なぜなら、商品はすでに述べたように使用価値と価値の統一であるために、使用価値を生産することなしには、価値の生産は不可能になるからである。したがって、商品生産者が生産する商品はなによりもまず人間の欲望を充足させる必要、すなわちなんらかの人々に効用をもたらす必要がある。さもないと、商品の販売が不可能になってしまうからである。けれども、商品が使用価値をもたなければならないということは、商品生産者にとっては必要悪にすぎず、彼の事業活動の最終目的を意味しない。

したがって、商品の生産過程は使用価値の生産過程であると同時に、商品価値の生産過程でもある。つまり商品の生産過程は、労働過程と価値形成過程との統一なのである。;カウツキー他「『資本論』の読み方」『マルクスの経済学説』70-71

※ 剰余価値という用語は、1857-1858年草稿のうち、単純な流通から無媒介に価値の増大を導こうとしているブルジョア経済学者の試みを分析している箇所で、マルクスによってはじめて導入された。マルクスはそこでは、本質的にはまだ利潤を考察している。というのは、彼は「剰余価値」という用語で、資本家によって無償で領有される、最初に前貸しされた全価値をこえる超過分のことをさしているからである。マルクスが貨幣から価値の分析に移ったのと同様に、彼は利潤から剰余価値に移った。具体的なものから抽象的なものへの移行は、抽象的なものから具体的なものへの次の上向の必要な前提をなしているのである。;バガトゥーリャ/ヴィゴツキー『マルクスと経済学の方法』上 78 

2.ここでは商品生産が問題なのだから、これまで私たちが1節で考察してきたものはただ過程の一面でしかないということは、明らかである。商品そのものが使用価値と価値との統一であるように、商品の生産過程も労働過程と価値形成過程との統一でなければならない

※ 労働過程は同一の過程をその内容から見たものであり、価値増殖過程はその形態から考察したものである。

 (労働過程は、特定の使用価値を作るため労働ということでは、資本家が介在しても本質的には何の変化も生じない。独立自営の織物業者は自分の必要と能力に応じていつでも、いかなる方法でも随意に労働できる。)しかしこの生産を資本家に雇用されて行う場合には二つの大きな変化が生じる。職工はもはや自分のためには働かず、資本家のために働く。そして資本家は、いまや労働者の労働を監督し、労働者が著しく怠慢に労働したりいい加減に労働することがないように配慮する。さらに、今や労働生産物は労働者の所有になるのではなく、資本家の所有になる。;カウツキー他「『資本論』の読み方」『マルクスの経済学説』71

3-4.今度は生産過程を価値形成過程としても考察してみることにする。

私たちが知っているように、どの商品の価値も、その使用価値に物質化されている労働の量によって、すなわち、その生産に社会的に必要な労働時間によって、規定されている。このことは、労働過程の結果として私たちの資本家たちの手にはいった生産物にもあてはまる。そこで、この生産物に対象化されている労働を計算してみよう。

5-6.糸の生産にはまず第一にその原料である綿花10重量ポンドだったとしよう。資本家はそれを市場で価値どおりに、たとえ10シリングで買った。綿花の価格には、その生産に必要だった労働がすでに一般的社会的労働として表わされている。

さらに、綿花の加工中に消耗する紡錘がある。他のすべての消耗し充用される労働手段を紡錘の消耗に代表させることにする。するとその紡錘の価格は、2シリングだったとする。

10シリングの綿花2シリングの紡錘を私たちの資本家は支出したのだから、少なくとも生産された糸の価値として12シリングの価値を、それに必要な労働時間を含んでいることになる。

今、12シリング分の金量24労働時間また2労働1労働日=12時間の生産物だとすると、この糸に2労働日が対象化されているということになる。

740ポンドの糸の価値=40ポンドの棉花の価値+1個の紡錘の価値 だとする。これが意味するのは、この等式の両辺を生産するためには等しい労働時間が必要だったということである。だから一般的価値法則にしたがっ(比例計算すると 10ポンドの糸=10ポンドの綿花+1/4個の紡錘 と書き換えることができる。

この等式は、それぞれの両辺の生産物を生産する労働時間が等しいことを示す。同じ労働時間が、一方では糸、他方では綿花と紡錘という使用価値に現われている。価値にとっては使用価値がどんな姿をとろうとも関係ないのである。

紡錘と綿花がただ静かに並んでいるだけではなく、紡績過程で結合されて、この結合によってそれらの使用価値が変えられて、それらが糸に転化されるということは、それらの価値には少しも影響しない。このことは、紡錘と綿花が、単純な交換によって糸という等価物と取り換えられたのと同じことを意味する

8綿花の価値とは、綿花を生産するに必要な社会的な労働時間を表している。そして、その労働時間は、それを原料として生産された糸の生産に必要な労働時間の一部分を構成する。したがって、綿花の生産に必要な労働時間は、今度は糸に含まれているということである。同じことは紡錘を生産するに必要な労働時間についてもいえる。それもまた、糸を生産するに必要な労働時間の一部分を構成する11

11 「諸商品に直接に充用された労働だけではなく、この労働を助ける器具や道具や建物に費やされた労働もまた諸商品の価値に影響する。」(リカー『経済学原理』16ページ。〔岩波文庫版、小泉訳『経済学及び課税の原理』、上巻、25ページ。〕)

リカードは、スミスの理論を批判的に検討しつつ、複雑な資本主義的生産の諸現象からその基本的関係をひきだし、これをスミスから学んだ労働価値説によって解明している。…スミスの混乱から労働量による価値規定を純粋な形に抜き固めたのは,リカードの大きな功績である。さらに…このばあい、たんに直接に使用された労働量だけでなく、資本として使用された生産手段も、一定量の蓄積された労働として商品価値の形成には参加するものであることをも明確にした。;『資本論辞典』576ページ

9.糸の生産に必要な労働時間には、綿花の生産に必要な労働時間と紡錘の生産に必要な労働時間とが含まれる。つまり、それらの労働が実際には時間的にも空間的にも離れて行われたとしても、糸を生産するために積み重なった労働時間、つまり同じ一つの労働過程のなかの別々の段階としてそれぞれが続けて支出されたものとみなされ、合体された労働時間の総計には影響しない

※ 価値としては綿花も紡錘も同じ社会的労働の一定量として存在しているだけである。だからそれらが結合されて糸に変換されたとしても、やはり価値としては、今度は糸という使用価値に表された同じ社会的労働の一定量として、量的には両者が合算されたものとして存在しているだけである。綿花と紡錘が、単純な交換によって糸に変態したときと同じことである。

 

10.要するに、12シリングという価格で表わされる綿花と紡錘という生産手段の価値は、糸の価値の、すなわち生産物の価値の成分をなしている

※ …「労働過程」における労働は、使用価値を生産する労働ですから、具体的有用的労働です。この具体的有用的労働は、労働過程において、道具や機械、原材料などの生産諸手段の価値新しい商品に移転するという働きをもつことになります。というのも、具体的有用的労働は、生産諸手段の使用価値を新商品の使用価値に転化させることになりますが、生産諸手段は使用価値と同時に価値をもっていますから、生産諸手段の使用価値の移*転化は、同時に生産諸手段の価値をも新商品に移転することになるのです。;高村是懿「『資本論』の弁証法」365

11.ただし、このためには二つの条件がある。

第一には、綿花も紡錘もその使用価値が、ある別の使用価値、すなわち糸の生産に役立つものでなければならない。価値としては、どんな使用価値によってそれが担われるかは、どうでもよいことだが、その使用価値は実際に使用価値の生産に役立つものでなければならない

第二には、それぞれの生産に必要な労働時間というのは、社会的に平均的に必要な労働時間でなければならない。したがって、ある資本家が気まぐれに鉄の紡錘の代わりに高価な金の紡錘を使ってみても、糸の価値としてはただ鉄の紡錘を使った場合の労働時間しか認められない。

12.ここまでの考察で、綿花や紡錘という生産手段の価値は、糸の価値の一部となり、それは、ちょう12シリング、言いかえれ2労働日が物質化されている。

次に、糸を生産する紡績工の労働がそれに加えられなければならない。この紡績工の労働を検討しよう。

13.紡績工の労働を、前述の労働過程の場合とはまったく別の観点から考察しなければならない。

※ 労働過程とは使用価値の生産のことであり、使用価値とは別の観点、つまり価値の生(価値増殖として考察するということ

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ロイドが集めた労働歌の中で、歌詞、曲ともに質が高いものの一つに木綿織工の歌がある。イギリスの産業革命はアークライトの木綿織機から始まったと昔の学校で教わったが、その産業革命の進行中、イギリスがナポレオンと戦っている頃には、特にランカシャー地方の織工たちが低賃金と物価高騰に喘いでいた。110シリング貰えれば幸運で、ひどい所では14シリング稼ぐために114時間働かねばならなかった。織工たちはオートミール、じゃが芋、玉葱のポリッジとカードだけで暮らし、妻たちは煮て食べられる蕁草を探して荒野を歩き廻ったと言われる。その後も状況はあまり改善されなかったと見え、20世紀初めには次のような歌が木綿工場で歌われた。

  ポヴァティ、ポヴァティ、ノック! 日がな(はた)が言っている。

  親方はけちで給金払わない。ずっと片目で時計を見ながら、

  ポヴァティ、ポヴァティ、ノックと音立てて

  ()が動くのを聞いているうちは飯が喰えると得心する。

  毎朝五時に起き出して、まだ生きているのかなあと思い、

  寒い夜明けに疲れて欠伸しながらも、侘しい苦行にまた戻る。

歌は以7節あって、織工の給料は現金で払われず会社に積み立てられ、食物は石板に書いて会社のつけで買わねばならない事、作業中に杼が飛んで女工の頭に当り、血を流して倒れても手を貸すために織機を離れてはならない事などが語られる。「ポヴァティ、ポヴァティ、ノック」は、旧式の蒸気機関で動く昔の織機の音を模写した言葉で、ひどく感動させるが翻訳出来ない。;松本達『イギリスの民謡について獨協大学英語研究81号(2020.2

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紡績工の労働を労働過程として考察した場合、明らかなのは、それは綿花と紡錘を糸に転化させる合目的的な活動だということである。その労働が合目的的であるほど上等な糸が生産される。

紡績工の労働は労働過程としてみると、他のさまざまな労働とは質的に違った独自なものである。それが他の労働との相違は、その特殊な目的、その特殊な作業方法、その生産手段の特殊な性質、その生産物の特殊な使用価値において現れていた。

だからこそ、綿花と紡錘とは糸を生産するための生産手段であり、それらからは、施条(ライフル砲を作ることはできないのである。

※ ライフリング…銃砲身の内側に螺旋状のスジを刻み、射出される弾に回転を与え弾道を安定させる、ライフリングの概念が発明されたの15世紀末頃だが、前装(先込め式での装填作業性が大きく劣るという問題から、本格的な普及は砲尾を開閉できる後装式大砲と共19世紀も末頃からであった。それ以前の砲身は火器の誕生以来の、素通しの筒である滑腔砲身であった。20世紀の前半までにほとんどの大砲は命中精度・有効射程に優れるライフル砲に取って代わった。

これに反して、紡績工の労働の価値形成労働という面では、砲身中ぐり工の労働や、綿花栽培者や紡錘製造工の労働と少しも違ってはいない。ただこの人間労働としての同一性によってのみ、綿花栽培も紡錘製造も紡績も一つの糸の価値という同じ総価値の、単に量的にのみ違うだけの諸部分を形成することができる。ここで問題になるのは、もはや労働の質やその牲状や内容ではなく、ただその量だけである。ただその労働の継続時間という量が計算されるだけである

紡績労働が単純な労働であり社会的平均労働であると仮定しよう。もちろん、これと反対の仮定をしても事態は少しも変わらないということは、あとでわかる。

14.労働過程では、労働は絶えず不静止の形態から存在の形態に、運動の形態から対象性の形態に転換される

※ 「労働者の側に不静止の形態で現われたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物の側に現われる。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたものである。」;第5章第1 労働過 全集版23a238

労働という常に流動状態にあるものが、対象に支出されることによって、それが何らかの属性や形状の変化したものとして静止したものになる

紡績工の労働が1時間後にはある量の糸として表わされている。つまり、一定量の労働、すなわち1労働時間が綿花に対象化された。この生産物の形状の変化は一定量の労働が対象化されたことをその形(糸で示している。労働というのは、その継続時間で計られる。したがって、1時間分の労働が綿花に対象化され、糸を生み出したのである。

それは労働者の生命力の支出であるが、生命力の支出としては紡績労働も綿花栽培労働も紡錘製造労働も同じである。われわれは労働時間を、紡績工の生命力1時間の支出と言うが、ここで紡績労働が労働として認められるのは、ただそれが労働力の支出であるかぎりでのことであって、それが紡績という独自な労働であるということは問題ではない。労働をその継続時間で計るということは、すでにその労働の質を問題にしていな(捨象しているということなのである。

15.綿花を糸に変える労働過程が続くあいだは、ただ社会的に必要な労働時間だけが費やされるということは重要である。

紡績工の労働の正常な状態とは、社会的に平均的な生産条件のもとでの労働ということであり、それが例えaポンドの綿花を1時間bポンドの糸に変えることであるなら、常にそれ12倍し12×aポンドの綿花12時間後にはやは12倍され12×bポンドの糸になる、そうした結果をもたらす1労働日だけが、12時間労働1労働日として認められる。だからもしある紡績工aポンドの綿花bポンドの糸に変えるのに例2時間かかったとしても、彼2時間の労働1時間の労働としてしか認められない。ただ社会的に必要な労働時間だけが価値形成的として認められるのである。

※ 社会的に必要な労働時間[AN1] とは、現存の社会的に標準的な生産諸条件と労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要とする労働時間である。『資本論第一章第一53

※ すなわち、価値を生む労働は、みな同じ人間労働であり、他と同じ人間労働力の支出である。商品を生産するすべての個別的労働力は価値を生む労働を支出するものとしては他と同じ人間労働力、社会的平均労働力である。価値を生む労働は社会的平均労働力の支出、つまり、社会的平均労働(=単純労働)である。したがってまた、社会的平均労働力として作用するそれぞれの個別的労働力は、他と同じ社会的平均労働を支出し、ある商品の生産のために他と同じ社会的必要労働時間だけを要することにもなる。ある商品を生産するために社会的に必要な労働時間は社会的平均労働の一定量にほかならない。……

『資本論』現行版では、ある商品の生産のために社会的に必要な労働の分量というものは、他と同じ人間労働、社会的平均労働に還元されたうえでの労働の分量でなければならないことがあらかじめあきらかにされ、そしてそのうえで、社会的に必要な労働時聞の規定がなされるということになっているのである。;大木啓次『単純労働』立教経済学研究 1971-11

16.労働そのものと同様に、原料や生産物も本来の労働過程の立場から見るのとはまったく違って現われる。

〈たんに労働ばかりでなく、生産手段と生産物もまた、いまではその役割を変えたことに注目されたい。〉

原料はここではただ一定量の労働の吸収物として認められるだけである。この吸収によって、原料は糸に転化するが、それは、労働力が紡績という形で支出されて原料につけ加えられたからである。逆に生産物である糸は、ただ綿花に吸収された労働の計測器でしかない。

〈原料は若干量の労働を吸収するにすぎない。確かにこの吸収は、労働者の活力が紡績作業という形態で支出されたので、原料を糸に変えるが、糸としての生産物は、綿花によって吸収された労働量を指示する測度器としてのみ役立つ。〉

例えば1時間に12/3ポンドの綿花が紡がれ(同量の糸に変わるとすると、10ポンドの糸は、6時間の労働を吸収したことをあらわ12/3×610

一定量の生産物、例え10ポンドの糸は、一定量の凝固した労働時6時間を表す。つまり、一定量の生産物が表わしているものは、一定量の労働、一定量の凝固した労働時間にほかならない。つまり、社会的労働1時間分と2時間分と1日分とかの物質化されたものなのである。

17.労働が紡績労働であり、その材料が綿花であり、その生産物が糸であるということは、労働対象そのものがすでに生産物であり、つまり原料であるということと同様に、ここでは問題にならない

炭鉱労働でいえば、労働対象である石炭は天然の存在であるが、炭層からはぎ取られた石炭の一定(たとえ1ツェントナーは、一定量の吸収された労働を表わすことになる。

価値形成過程では、労働の具体的内容や原料や生産物の具体的な内容はなにも問われず、生産物が吸収した労働時間だけが問題なのである

18.労働力の売りのところでは、労働力の日価値3シリングに等しいと想定され、またこ3シリングには6労働時間が具体化されており、したがって労働者の日々の生活手段の平均額を生産するためにはこの労働量が必要だということが想定された

※ かりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすれば、これらの商品の一日の平均は365A+52B+4C+etc.365であろう。こ1平均日に必要な商品量に6時間の社会的労働が含まれているとすれば、毎日の労働力には半日の社会的平均労働が対象化されていることになる。すなわち、労働力の毎日の生産のためには半労働日が必要である労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成する。また、半日の社会的平均労働3シリングまた1ターレルという金量で表わされるとすれば、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格である 全集23a巻『資本論』243労働力の売買225-226

今われわれの紡績工1労働時間12/3ポンドの綿花12/3ポンドの糸に変えるとすれば、6時間で10ポンドの綿花10ポンドの糸に変えるということになる。つまり、紡績過程の継続中に10ポンドの綿花6労働時間を吸収するわけである。6労働時間3シリングの金量で表わされる。つまり、この綿花には紡績そのものによっ3シリングの価値がつけ加えられるのである。

1労働時間
12/3ポンドの綿花 ➡ 12/3ポンドの糸

6労働時間
10ポンドの綿花     10ポンドの糸→  6労働時間   =  3シリング

19.生産物である10ポンドの糸の総価値を調べてみよう。

12段落…綿花や紡錘という生産手段の価値は、糸の価値の一部となり、それは、ちょう12シリング、言いかえれ2労働日が物質化されている

18段落…3シリングには6時間労働時間が具体化されており→3シリング=1/2労働日









10
ポンドの糸=15シリングの金  ➡  1ポンドの糸=15シリング/101シリング6ペンス

20.資本家は気づく。生産物の価値は前貸しされた資本の価値に等しい。前貸しされた価値は増殖されておらず、剰余価値を生んでいない。貨幣は資本に転化していない。

10ポンドの糸の価格は15シリングであり、そ15シリングは商品市場で生産物の形成要素、つまり労働過程の諸要因に支出したのと同額。10シリングは綿花に、2シリングは消耗した紡錘量に、そし3シリングは労働力へと。

出来上がった糸の価値は、ただ以前に綿花や紡錘や労働力に分かれていた価値の合計でしかない。既存の価値をただ単に加算することからは、けっして剰余価値は生まれえな13

支出された価値は、いまや糸の価値として集中されている。しかし、それらは、15シリングという貨幣額が三つの商品購買によって分散される前には、資本家の手の中15シリングの貨幣額として集中されていたのである。

13 重農学派は農業労働だけが生産的であり、農業労働だけが剰余価値を生み出すと主張した。というのは彼らは一粒の種籾から何グラムもの穀物が生まれるという物質的な関係だけをみているからである。彼らは農業以外の例えば工業ではこうした物質的な増殖は生じないから、剰余価値もまた生まれないと主張した。つまり綿花と紡錘と労働力の価値は、そのまま糸の価値に合体されているだけで一つも価値としては増えていない、だからこうした関係からは剰余価値は生まれないという。「加算することは掛け算することではない。[AN2] (メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『自然的および本質的秩序』、599ベージ。)

21.剰余価値が生まれていないという結果は当然ともいえる。

1ポンドの糸の価値1シリン6ペンスであり、したがって、10ポンドの糸には、その資本家は商品市場15シリングを支払わなければならない。資本家が私邸を建売りで買おうと、自分で建てさせようと、これらの操作のどちらも、家の取得に投ぜられた貨幣を増加させることはない。

糸にしても住宅にしても、確かに資本家の投資によって始まり、彼の意図のもとに始まった生産だが、10ポンドの糸にかかった費用15シリングであり、彼が市場10ポンドの糸を購入するために15シリングが必要である。自分で建築資材を市場で購入して大工を雇って家を建てたとしても、建売の住宅を市場で購入したとしても、やはり一軒の家にかかる費用は同じである。それらによって彼の貨幣を増加させることはできない。

22.世俗のもうけ話に耳ざとい資本家は、自分は一儲けしたい一心で投資したのだと叫ぶ。「私は別に糸がほしくて作ったのではない。糸を作って売れば一儲けできると考えたのだ。」と資本家は言う。そうかもしれないが、彼の意図がどうであれ、その結果として彼の貨幣はまったく増殖していないのであり、その結果を受け入れるしかない。やりたければ、彼は生産とは別の金儲けを考えることもでき14だろう。

* 「地獄への道は多くの善意で敷き詰められている」(英:The road to hell is paved with good intentions

俗流経済学に精通:「多くの価値をただ一つの価値に成層的に積み重ねていくやり方「加算」
設備や原料、労働者を買いそろえると貨幣は増殖すると考えた。
資本家は自分の貨幣をより増やそうとして、
善意で敷き詰めた。:設備、原料、労働者をそろえた。
しかし、
地獄であった。:彼の貨幣はまったく増えない。

生産では金儲けできないと言って、彼の仲間のみんなが、生産をやめて投資や金利で生活するなら、いったい商品はどこで見つけたらいいのか。貨幣を食べるわけにはいかないのだ。

資本家は自問する。自分15シリングを投資しようと、①節欲した。こ15シリングは贅沢をし、遊びにいくこともできた。だけど、自分はそうしないで糸の生産に投資したのだ、その努力を考えてもらってもよいのではないか。確かにそうだ。だからこそ彼15シリングの無駄遣いを悔やむ代わりに立派な糸をもっているのだ。何が不満なのか? 節約し、貯蓄に励んだところで、貨幣を咥えて飢え死にするわけにはいかないのだ。

何にもないところでは、例え皇帝であろうともその権力を行使することはできない。節欲の功績を持ち出すが、しかし糸の生産においては、生産物の価値は、生産に投じた商品の価値の総額に等しいだけなのだから、資本家の節欲に報いるためのものはなにもない。資本家として糸をもっていることで満足すべきなのだ。あなたの徳(節欲)の報いは徳(節欲した結果だけ)なのである。

※ ここでは「皇帝」が意味しているものは「資本、貨幣」である。いくら資本でも単に放置しているだけでは増殖しない。適切な「脇に並ぶもの」を揃えてやらなければ、資本は資本としての働きをしないということ。

資本家は、さらに言い張る。「私は糸が欲しくて糸を作ったのではない。糸なんてどうでもいい。自分は売るために生産したのだ」と。それなら、糸を売ればいい。しかし売ったとしても、あなたの貨幣は一文たりとも増えないだろう。もっと簡単な解決方法は、自分に必要なものだけを生産すればいい。これはマカロックが過剰生産という疫病の特効薬として資本家に与えた処方箋だ。

過剰生産とは、市場に供給される商品が需要を上回り、売れ残る現象のこと。
マカロックは、市場の自由競争が最適な資源配分を行い、過剰生産は本質的に起こらないと主張していた。

マカロックは、過剰生産はありえない という立場だった。その理由は以下のようなもの。

セーの法則の影「供給が需要を創出する供給はそれ自体が需要を生む。
   つまり、生産したものは必ず誰かの購買(所得となるので、全体的な過剰生産は起こらない。

アダム・スミスの影響を受けた古典派経済学の理「神の見えざる手」、市場メカニズムが調整する。
   もしある産業で過剰生産が起きた場合、価格が下がり、生産が減ることで調整される。

したがって、「長期的に見れば過剰生産の問題は存在しない。

彼はなおも強情に言い張る。「もし自分が労働者に綿花や紡錘などの生産手段を与えなければ、労働者は何ものも生産することはできなかっただろう。私が糸の生産に必要な材料を与えたからこそ労働者は糸を生産し得た。社会は労働者のように何も持たない素寒貧なのだから、自分は生産手段として綿花や紡錘を与え、労働者の生活手段まで面倒をみてやって、糸が生産され社会はそれだけの富を得た。だから、労働者に②雇用を提供した自分の貢献度を勘定に入れて何故いけないのか」と。

資本家が自分の貢献度を持ち出すなら、やはり労働者も彼のために綿花や紡錘を糸に変換するという貢献をしたと言わなければならない。いま問題なのは貢献とか役立ちなどいうような問題ではな15。役立ちというのは使用価値に関わる問16だが、いまここで問われるのは交換価値なのだ。

資本家は労働者3シリングという価値を支払った。だから労働者は綿花に彼の労働によっ3シリングの価値を付け加えて、糸として生産した。つまり価値に対して等価の労働を付け加えたのだ。

いままであれほど資本家っぽい尊大さを示していたこの資本家は、急に自分も労働者と同じようなしおらしさをみせてこう言う③私だって働いただろ? 紡績工の監視や監督という労働をしたではないか、私のこの労働もやはり価値を形成するはずだ!」と。しかしこうした彼の主張に対して、彼が雇っている支配人や工場長などは肩をすくめるだけだ。

※ 資本家は実際に質素で倹約家かもしれないし、自分の労働者たちに対して時には慈悲深い態度を示すかもしれな(たとえば、状況が不利のときに、雇用している労働力を維持しようと必死になってそういう態度を取るかもしれない。マルクスの言いたいことは、資本家は、美徳や道徳や慈悲に訴えることによってはシステム全体を維持することはできないということであり、資本家の個々の振るまいは、慈悲深い態度から悪辣な強欲までさまざまであろうが、資本家が資本家であるためになすべきこととは無関係だということ、そして資本家であるためには、まったく単純に、剰余価値を生産しなければならないということである。しかも、資本家のなすべきことは、マルクスが後で指摘するように、「競争の強制法則」によって定められている。この法則は資本家をして、彼らが善人だろうが悪名高き資本主義的豚であろうがそれに関わりなく同じような振るまいをさせるのである。;ハーヴェ『〈資本論〉入門190-191ページ

* 「しかしもし彼の労働が、労働者たちの労働とならんだ、またその労働以外の特殊的な労働、たとえば労働の監督などと解されるならば、彼は、労働者たちと同様に一定の労賃を受けとり、したがって労働者の部類に属することとなり、労働にたいして資本家としてふるまうことはけっしてなく、またけっして金持にもならず、彼が流通をとおして消費せざるをえない交換価値を受けとるだけのことであろう。」;『資本論草稿集』①経済学批判要綱386

そんなことを言いながらも、資本家はもう元の顔つきに戻った。彼はこの長々しい愚痴と無駄口で私たちをからかった。自分の繰り言に付き合わせたくせに、彼はびた一文、払ってくれない。

彼はこのようなつまらない言い抜けや見えすいたごまかしを、彼の御用学者たちに任せている。彼自身は一個の実務家であって、自分の商売の外での無駄口に責任など感じていないが、自分の商売のなかでやることはいつでも心得ているのである。

14 1847年の恐慌の前には、資本家たちだけではなく、それこそ猫も杓子も鉄道株に血道をあげて空前の空景気に沸き、資本家たちも自分の事業を放り出して、そこから資本を引き揚げて株式投機に走ったことを指摘している。つまり「生産することなしに金もうけをしよう」と目論んだのである。

アメリカの南北戦争(18614654月)の時代には、当時最大の棉花供給国であったことから「棉花飢謹」(Cotton Famine)を引き起し、棉花価格の上昇は投機的な価格騰貴に増幅され、最高値を記録した647月には60年の水準を4倍強上回っていたと指摘されている。こうした棉花の高騰が棉花取引所での投機を助長し、工場を閉め、労働者を解雇してまで、事業家はリヴァプールの綿花取引所でその投機をおこなった。

要するに資本家は時には自分の事業など放り出して、安易な儲けに走ったのである。だから金を儲けたいだけならそうすればよいだろうというわけである。

15 資本家たちは自分たちの役立ちについてくだくだと言っているが、ルターにいわせれば役立ちなどというものは、どんな悪人でも自分を弁護するために持ち出すことができるものであり、「悪魔でさえ、自分への奉仕者のためには大きな測りしれない役だちをする」のだから、「世界は大きな、すぐれた、日々の役だちと善行とに満ちている」のだと皮肉っている。

16 使用価値としては、商品は原因として作用する。たとえば小麦は食料として作用する。機械は一定の事情のもとで労働にとって代わる。商品のこの作用、それによってだけ商品は使用価値であり、消費の対象であるのだが、この作用は、商品の役だち、商品が使用価値としておこなう役だちとよんでよかろう。ところが交換価値としては、商品はいつでも結果の観点からだけ考察される。問題になるのは、商品がおこなう役だちではなくて、商品の生産にあたって商品そのものにたいしてなされた役だちである*

*「役だちserviceという範疇が、J・B・セーやF・バスティアのようなたぐいの経済学者たちにたいして、どんな「役だち」をなさざるをえないかが合点がゆく。すでにマルサスが正しく指摘したように、彼らの小理屈ふうの小ざかしさは、いたるところで経済的諸関係の独特な形態規定性を捨象するのである。;全集13『経済学批判22-23

23.なぜ資本家が嘆くことになったのか、詳しく見ていこう。

労働力の価値は3シリングだったが、これは労働力そのものに半労働日が対象化されているから、つまり1日に消耗した労働力を再生産するために必要な生活手段の生産に必要な労働時間が半労働6時間かかるということである。

しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量なのである。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている

※ 労働力の価値、すなわちその毎日の維持費と労働力が毎日支出する労働とはまったく異なる量である。この違いこそ剰余価値の源泉であり、資本家は早くからそれに感づいている。商品の価値と使用価値とが対立した契機であるように、労働力の二面性を理解することは重要である。

労働者24時間生かしておくためには半労働6時間だけが必要であればよいということは、彼がま日の労働、すなわ12時間労働をするということを妨げない。

労働力の価(それに物質化されている労働時間と、労働過程での労働力の支(資本家のもとでの労働時間、すなわち価値増殖の過程とは、まったく二つの違う量なのである。この価値の違いは、資本家が労働力を買ったときにすでに彼の心の中に存在している。

糸や長靴をつくるという労働力の有用な性質は、一つの不可欠な条件だが、それは、ただ価値を形成するためには労働は有用な形で支出されなければならないという理由からである。

しかし使用価値と言っても、労働力の使用価値は、独特で決定的に重要なものである。それは労働そのものだが、それは価値の源泉であるだけでなく、それ自身がもっているよりも大きな価値の源泉だということである。つまり剰余価値を生産することこそが労働力の使用価値の独自の役割なのである。それこそが資本家が目をつけ、期待するものである。

注目する必要があるのは、これらの関係は、すべて商品交換の法則に則って行われた結果であるということである。それは商品を価値どおりに交換することによって行われるのであって、価値よりも高く売って利潤を得ようという重商主義者のようなものとは違っている。

労働力の売り手は、他のどの商品の売り手と同じように、彼の商品の価(労働力の交換価値を実現して、その使用価値を引き渡すだけである。

労働者は他の商品所持者とまったく同じように、彼の商品である労働力の使用価値を手放す代わりに、彼の商品の価(賃金を実現し受け取ることができる。売られた商品の使用価値は、つまりこの場合、労働そのものはその買い(資本家のものであって、すでに売り(労働者のものではないということは商品交換の法則から明らかである。一般商品の売買と同様である。

資本家は労働力を買うために、彼の貨幣でその日価値を支払った。彼は労働力の一日の使用権を買い取った。だからそれをまる一1労働日=12時間使用するのは彼の当然の権利となる。

 労働力というのは一12時間活動し続けることができるにも関わらず、その一日の維持費には半労働6時間しか必要としないという事情は、資本家にとっては幸運であるが、だからと言って決して不法なものではない。彼は一日の労働力の使用によって、労働者が作り出す価値が、彼が支払った労働力の日価値2倍になるという事情は、彼のまったくの正当な権利となる。

※ 資本家は労働力の価値を支払う。この商品の価値は、思い出してほしいが、一定の生活水準において労働者を再生産するのに必要な諸商品の価値によって定められている。労働者は労働力商品を販売し、貨幣を受け取り、それから生きていくのに必要な一群の諸商品を買いにいく。しかし、労働者にとって、労働力価値と等価な部分を再生産するには一日あたりある一定時間の労働しかかからない。それゆえ、「労働力の毎日の維持費」と労働力による毎日の価値創造とは、二つのまったく違った量である。「前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている」。労働力は、思い出してほしいが、W-G-循環の中にあるのに対し、資本はG-W-+Δ循環のうちにある。;ハーヴェ『〈資本論〉入門191

ここで鍵となるのは、労働が獲得するもの労働が創造するものとを区別することである。剰余価値は、労働が一日の労働日で諸商品に凝固する価値と、労働者か商品としての労働力を資本家に譲り渡すことで獲得する価値との差から生じている。労働者は要するに、労働力の価値を支払われ、それでおしまいであるのに対して、資本家は労働者を働かせることで、労働者に、彼ら自身の労働力の価値を再生産させるだけでなく、さらに剰余価値をも生産させるのである資本家にとって労働力の使用価値とは、価値を生産し、したがって剰余価値を生産することのできる一商品であるという点にある。;ハーヴェイ『〈資本論〉入門』191

※ ところで、こうして得られた剰余価値は正式には誰の所有物だろうか。資本家は、それはもちろん労働力という商品を購入した自分の所有物だと主張する。資本家は原材料と労働力をそれぞれ適正な対価を払って購入した。購入した商品を消費することは商品購入者の自由であり、権利でもある。とすれば、購入した労働力が生産した生産物もまた資本家の所有物のはずだ。これが資本家の言い分になる。もしこれが通るなら、資本家は公正な市場を介した流通の中で等価交換のルールを一度も破ることなく、公正な方法で富を一方的に蓄積できるだろう。

しかし労働者にも反論の余地はある。過大な剰余労働は自分たちの健康を害し、労働力としての再生産を不可能にする。労働力としての商品価値を保持することは、この商品を売り続けなければならない労働者として譲ることのできない権利だ、と。そしてまたこうも主張できる。自分はたしかに労働力を自分の意志で売った。しかし、労働の「果実」まで売り渡した覚えはない。労働によって新しく生まれた価値は原則的にはあくまで生産者に属する。自分の手や足が誰にも譲渡できない自分固有の所有物である以上、労働によって生産した価値もまた労働者に属する。これはロックによれば社会契約以前に付与された自然法だった。かりに必要労働分の生産物については商品交換のルールに則って資本家の所有物と認めたとしても、それを超える価値生産については新たな合意が必要だ、と。

この論争は古典派経済学的には解決できないだろう、とマルクスは言う。双方にそれぞれの言い分があるからだ。とすればあとは力による決着しかない。こうして資本家と労働者の間には、剰余価値の生産様式や分配方法をめぐって絶えず紛争が生じる。資本家が剰余価値生産を極大化しようとすれば、それに応じて労働者は団結と抵抗を強めるだろう。それに対する弾圧が強化されれば、反発もまた過激化する。

資本主義的生産過程を動かす動機および規定している目標は、資本の自己増殖をできるだけ大きくするということである。すなわち、できるだけ多くの剰余価値を産出し、資本家が労働力をできるだけ大きく搾取することである。同時に雇用されている労働者の量が増大すると、それとともに、彼らの抵抗も増大し、それにともないこの抵抗を押さえ込もうとする資本家の圧力も必然的に増大する(『資本論11350

このようにしてエスカレートした階級闘争はやがて工場の敷地を超えて政治闘争へと発展する。しかも一つの国での闘争は他国の労働者に希望を与え、階級闘争は国境さえも越えて拡大するだろう。;木直『マルクス思想の核心』171-173

24.資本家には、自分を喜ばせるこのような事情は前からわかっていたのだ。だからこそ、労働者は生産現場にいくと6時間分だけではな12時間の労働に必要な生産手段が準備されているのを見いだすのである。

労働者6時間ではなく、まる一12時間の労働を支出するとして、この延長された労働過程の生産物を考えてみる。

まず綿花と紡錘が6時間の労働分ではなく、12時間分の労働を吸収することができる分だけ準備されなければならない。つまり20ポンドの綿花2本の紡錘が必要である。

以前は10ポンドの綿花が6時間の労働を吸収し10ポンドの糸になっただから、今度は20ポンドの綿花が1労働12労働時間を吸収し20ポンドの糸になる。

今で20ポンドの糸に5労働日が対象化されている。内訳は、まず原料代が20ポンドの綿花=20シリング、紡2本=4シリング、合24シリング、すなわ48労働時間=4労働日である。そこ1労働12時間の紡績労働が対象化されたのだから、合5労働日となる。

* 1労働日=12時間=6シリング相当の労働  労働力の日価値は3シリング=6労働時間

5労働日の全価値表現30シリン20ポンドの綿花2本の紡錘の価24シリング+1労働日が対象化する価6シリングである。したがって20ポンドの糸の価格30シリン1ポンド=20シリングだから、30シリング=1ポン10シリングとなる。

もっと1ポンドの糸の価値は相変わら1シリン6ペンスである。

(糸20ポンドの価値30シリング/糸20ポンド=糸1ポンドは1シリング6ペンス)

これ10ポンドの綿花か10ポンドの糸を生産したときと同じである。

しかし今度はその生産過程に投入された商品の価値総額27シリングである。20ポンドの綿20シリング2本の紡4シリング、労働力の日価3シリング、合27シリング。

そして生産され20ポンドの糸の価値30シリング。つま27シリング30シリングになった。前貸しされた価値よりそれ91だけ大きくなった。つまりそれ3シリングの剰余価値を生んだのである。

※ 労働力の使用価値生産的有用性はもちろん不可欠な前提条件ではあるが、資本家がとくにこの労働力商品に期待するところは、それ自身の価値よりも大きい価値の源泉であるという独自な使用価値なのである。労働力の一日の使用が労働力の日価値よりも大きい価値を生むということは、労働力の買い手にとって特別に有利なことではあるが、労働力の売り手にたいする不法なことではない。買い手は労働力の日価値を支払ってその一日分の使用価値を受け取り、売り手はその使用価値を引き渡してその価値どおりの価格を受け取っているからである。資本家は労働者に、六時間ではなく、たとえば一二時間の労働に必要な生産手段をあてがって、これをちょうど一二時間有効に使用させる。こうして、生産手段の価値には労働力の価値の二倍の価値が付加されることになり、それだけの剰余価値が創造される。資本家は、労働力をも含めてすべての商品を価値どおりに買い、それらを消費して新たな商品をつくり、これを再び価値どおりに売って、商品交換の法則を少しも侵害することなく、最初に投じたよりも剰余価値分だけ多くの貨幣額を流通から引き出すのである。;岡崎次『資本論入門』92-93

こうして、ついに手品は成功した。貨幣は資本に転化されたのである。つまり242節で提起された問題がついに解決された。

 こうして、二重の結果が生じた。貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!

Hic Rhodus,hic salta〕;全集第23a巻第2篇第4章第2節の末尾217-218頁

※ 労働力の日価値と労働が作り出したものとの格差を剰余価値として確保できるのは、①工場の中で労働者が行うこと、②その生産物、これらを資本家が統制することができることによる。

※ ここでは、資本家がこの労働力の全価値を支払うと仮定するが、実際には資本家は自分の雇う労働者にそれよりも過少に支払うよう強力に闘争する。そして全価値を支払うと想定したとしても、資本家はこの労働力を使用して、労働者が獲得するものと労働者が作りだすものとの格差を搾り取ることで剰余価値を創造することができることが明らかになる。

※ ……交換関係の諸規則のすべてが完全に機能している完全な自由主義社会においてさえ、資本家は労働者から剰余価値を抽出する方法を心得ていることである。自由主義のユートピアは結局それほどユートピア的ではなく、労働者にとって潜在的にディストピアであることが明らかになる。マルクスが言っているのは、賃金の決定が実際にこのようになっているということではなく、自由主義的な古典派経済学の諸命(そしてこれは現代の新自由主義時代にも受け継がれているが、資本に有利なようにひどくねじ曲げられているということである。自由、平等、所有、ベンサムの世界は仮面であり、計略であり、交換法則を侵害することなく労働者から剰余価値を抽出することを可能にするものだということである。;ハーヴェイ『〈資本論〉入門』193

25.問題の条件は満たされた。商品交換の法則は少しも侵害されてはいない。等価物が等価物と交換されただけである。資本家は、買い手として、どの商品にも、綿花にも紡錘量にも労働力にも価値どおりに支払った。

※ 20ポンドの綿花20シリング、2本の紡錘4シリング、労働力の価(賃金とし3シリング、合27シリング

彼は商品の買い手が当然にすることをし、これらの商品の使用価値を消費した。

労働力の消費過程、それは同時に商品の生産過程でもあり30シリングという価値のあ20ポンドの糸という生産物を生みだした。

そこで資本家は市場に戻り、今度は商品を売る。彼1ポンドの糸1シリン6ペンスで、つまりその価値どおり20ポンドの糸を売った。それでも、彼は、初めに彼が流通に投げ入れ27シリングより3シリング多く30シリングを得るのである。

そしてこの全経過、つまり資本家の貨幣の資本への転化は、流通部面で行われ、また、流通部面で行われていない。流通部面で行われるというのは、資本家は商品市場で生産諸手段や労働力を買い、生産した糸を市場で販売するからである。流通部面で行われてはならないというのは、価値の増殖は生産部面で行われており、流通はその条件を準備するだけである。

こうして問題の条件はすべて満たされ、なおかつ貨幣は資本に転化した。「最善の世界では万事が最善の状態にある」〔"tout poue le mieux dans le meilleur des mondes possibles"(59)

(59) ヴォルテールの風刺小『カンディード、または楽天主義』のなかにある警句。〔岩波文庫版、吉村訳、14-15ページ。〕(全集第23a巻注解12頁)

※ 最善説=楽天主は、オプティミズoptimismの訳語の一つ。「神がこの世界を作ったので、この世界は最善なはずである」

※ カンディードは現実世界が最善という主張を受け入れた上で、現実世界における災厄にため息をつく。「これがありとあらゆる世界の中で最善の世界であるなら、ほかの世界はいったいどんなところだろう」。ヨーロッパを離れるときには、カンディードは既にヨーロッパに絶望しアメリカ大陸に希望を見出そうとしていた。「ぼくたちは別世界へ行こうとしているのです・・・その世界ではかならず、すべてが善です。なぜなら、自然の面でも道徳の面でもぼくたちの世界に起こっていることは、ちょっぴり嘆かわしいと認めなければなりませんからね・・・間違いなく新世界こそが、あらゆる世界の中で最善の世界なのですよ」。新世界でも災難にあったカンディードはパングロスの説に疑問を投げかける。「先生がおられたら、地上と海上にあふれる自然の悪と道徳上の悪について、さぞかし名言を吐かれることでしょう。そしてぼくにしても、あえていくつかの反論をうやうやしくお返しするくらいの力があるはずですがね」。南米で黄金郷エルドラードを目にしたカンディードは、世界が最善であるという考えを必ずしも否定はしないが、自分の生まれ故郷は最善には程遠いと確信する。「…これはきっと、すべてが順調な国なのだろう。なぜなら、そんな国が絶対に存在しなければならないからだ。ついでに言えば、パングロス先生がなんと言われようとも、これまで何度も気づいたことだが、ウェストファリアでは万事が思わしくなかった」。しかしエルドラードを出て、母親に売られて製糖工場で働き、左手と右足を切り落とされた黒人奴隷を目にして、彼はついに最善説を「うまくいってないのに、すべては善だと言い張る血迷った熱病」と断じる。また、悪は全体の美に寄与する絵の陰影のようなもので、全体の善の向上に貢献しているという考えを皮肉ってもみせる。「わたしはもっと悪いことをみてきましたよ。しかし、ある賢者がそういったことすべてはすばらしく、一幅の美しい絵の陰影なのだと教えてくれました。もっとも、その賢者は不幸にも縛り首にされましたがね」。

『カンディード』の正式な題は『カンディードあるいは最善Candide, ou l’Optimisme』である。最善optimismeは、ラテン語の最optimumより派生した語であり、ライプニッツの死1737年より使われ始めたとされる。この作品では、最善説は、経験と常識によって明白に知られる事実と明らかに矛盾する、現実から遊離した悪しき哲学的思弁の産物である、と示唆されているといえるだろう。;枝村祥平「『カンディード』と最善説京都大学文学部哲学研究室紀要2010年3

※ …一見、生産力が進歩して、人間が必要労働のために一日中働かなくてもすむようになったことが、剰余価値が生まれる原因のようにも思えます。けれどもそれは、剰余価値が生まれるための必要な条件ではあっても、原因ではないのです。条件がそろっていても、ものごとを生みだす直接の原因がなければ何ごとも生じないのです

資本主義のもとで剰余価値が生みだされる原因は、生産手段が資本家階級に所有されていること、したがって、労働者階級は資本家階級のために剰余労働をすることによってだけ自分が生きるための必要労働をすることを許されていることになります。商品社会では労働者は二つの意味で〈自由〉なのです

「自由な、と言うのは、自由な人格として自分の労働力を自分の商品として自由に処分するという意味で自由な、他面では、売るべき他の商品をもっておらず、自分の労働力の実現のために必要ないっさいの物から解き放されて自由であるという意味で自由な、この二重の意味でのそれである『資本論』第4章第3節(183平野喜一「『資本論』を学ぶ人のために80

26.〈資本家は、貨幣を、新しい生産物の素材的要素として役立つ諸商(綿花や紡錘に変え〉、その死んでいる対象性生きた労働力を合体することによって、価値(すでに対象化されて死んでいる過去の労働を資本に、自分自身を増殖する価値に、転化させた。資本という、胸に恋でも抱いているかのように(60)「働き」はじめる活気づけられた怪物に転化させたのである。

※ 資本家たちが自慢する大規模な工場や積み上げられた原料にしても、それらがそのままただ放置されるだけなら、自然の物質代謝のなかで朽ちるだけであり、何の価値も剰余価値も生まない無意味な存在に過ぎない。それらが資本になるのはまさに生きた労働と合体させられるからであり、生きた労働者の血を吸うことによってそれらは生き返り、自ら増殖する怪物になりうるのである。

(60) 胸に恋でも抱いているかのように――ゲー『ファウスト』、1部、5場、「ライプツィヒ市のアウエルバハの酒場〔岩波文庫版、相良訳、1部、143-144ページ〕から言い変えて引用した言葉。 (全集23a巻注12頁)


※ 資本家が買うもの、そして労働者が売るものは、労働能力の使用価値、すなわち、つまりは労働そのもの、価値を創造し増加させる力〔Kraft〕である。したがって、価値を創造し増加させる力は、労働者のものではなくて資本のものである。資本はこの力を自己に合体することによって、生き生きとし、胸に恋でも抱いているかのように働work〕はじめる。生きた労働はこのように、対象化された労働が自己を維持し増加させるための手段となる。それゆえ、労働者が富を創造するかぎり、生きた労働は資本の一つの力となり、同様に、労働の生産諸力の発展のすべてが資本の生産諸力の発展となる。……こうして、対象化された過去の労働が、生きた現在の労働の支配Herrscherとなる。主体と客体との関係は転倒される。すでに前提において、労働者の労働能力を実現するための・したがってまた現実的労働のための・対象的諸条件が、労働者に対立して他人の自立的な諸力〔Macht〕として現われ、しかもそれどころかこの諸力は、生きた労働をそれら自身の維持および増加の諸条件として取り扱sich verhalten - 振舞う〕――道具、材料、生活手段が労働に身を委ねるのは、それら自身のなかにより多くの労働を吸収するためでしかない――のであるが、この同じ転倒が、結果においてはさらに多く現われるのである。労働の対象的諸条件は、それ自身が労働の生産物であり、また交換価値の側面から見るかぎり、それらは対象化された形態における労働時間でしかない。つまりどちらの側面から見ても、労働の対象的諸条件は労働そのものの結果であり、労働自身の対象化であって、この労働自身の対象化こそ、労働の結果としての労働そのものこそが、労働にたいして、他人の力〔Macht〕として、自立的な力〔Macht〕として対立するのであり、また労働はそれに対立して、たえず繰り返して同じ対象喪失状gegenstandslosigkeit無関係〕にあって、単なる〔なにももたない〕労働能力として対立するのである。;『資本論草稿集175-176

27価値形成過程と価値増殖過程とを比べてみると、価値増殖過程は、ある一定の点を越えて延長された価値形成過程にほかならないことが分かる。つまり、価値形成過程が一定の点、すなわち労働力の日価値という点を越えて延長された価値形成過程であるという事である。

価値形成過程が、資本によって支払われた労働力の価値部分、すなわち半労働日しか行われないとすると、それは単純な価値形成過程として終わる。しかし、それが労働力の価値部(半労働日を越えて延長されると、その価値形成過程は価値増殖過程になる価値増殖過程というのは、価値形成過程に付け加えられた形態規定性である

※ 最初6時間は価値形成過程だが、それを越え7時間か12時間までの労働過程が価値増殖過程だということではなく、最初6時間だけではなく、それ以降もすべて価値形成過程なのだが、その価値形成過程6時間以降にも延長されることによって、その全体が価値増殖過程という新たな形態規定性を帯びるのである。

28価値形成過程と労働過程と比べてみる。

労働過程は、使用価値を生産する有用労働によって成立する。労働過程はここでは質の観点で考察される。それは、特定の要求や必要をみたすという目的をもち、これに合った生産手段とともに機能し、独自な工程を用い、最後に目的生産物に到達するという活動である。

しかし同じ労働過程が価値形成過程となると、ただその量的な面だけによって現われる問題になるのは、労働がその作業に必要とする時間、労働者が自分の活力を有用な活動に支出する期間、すなわち労働力が有用的に支出される継続時間だけである

さらに、労働過程で消費される生産諸手段も、もはや価値形成過程としては、素材的な内容はまったく問われない。生産手段は、ここでは単なる労働吸収手段として機能し、対象化された一定量の労働量として数えられるだけである。生産手段のうちに含まれていようと、労働力によって付加されようと、労働はいまや、その継続時間でのみ尺度されるのであって、それは何時間、何日間というように数えられる

29労働は、ただ、使用価値の生産に費やされた時間が社会的に必要であるかぎりで数にはいるだけである。これにはいろいろなことが含まれている。

まず労働力は正常な諸条件のもとで機能しなければならない

労働が正常な諸条件で機能しなければならないという意味は、例えば紡績業において、紡ぎ車に代わって紡績機械が主流になっているのなら、労働者に紡ぎ車が与えられてはならないということである。あるいは正常な品質の綿花の代わりに絶えず切れるような屑綿が与えられてはならない。どちらの場合も労働者は1ポンドの糸の生産に社会的に必要な労働時間よりも多くの時間を費やすかもしれない。しかしその余計な労働時間は価値を形成しないし、貨幣にも転化しない。労働の対象的諸条件が正常かどうかの責任は、労働者ではなく、資本家にある

労働の対象的諸条件とともに、主体的条件である労働そのものにも一定の条件がある。それは労働力そのものの正常な性格労働力は、それが使用される部門で、支配的な平均程度の技能と熟練と敏速さをもっていなければならない

資本家が労働市場で買った労働力は、正常な品質のものだったとする。しかし、それが実際に生産過程で正常にその力を発揮するかどうはまた別の問題である。この力は、普通の平均的な緊張度で、社会的に普通の強度で、支出されなければならない。資本家たちは競争のなかで生きており、彼らは労働者からできるだけ多くの労働を引き出すことに注力する。しかし、自ずとそこには平均的な強度や緊張度というものが生まれてくる

労働者が労働しないで時間を浪費することの無いよう、資本家たちはこの点に細心の注意を払う。何しろ彼は一定の時間を区切って労働力を使う権利を買ったのだから。時間が無駄にされまいとするのは、自分のものを無くさないように気をつけるのと同じことである。労働者が力を抜いたり、怠けたりして、自分が買った労働時間が盗まれないように、彼は見張っていなければならない

最期に、資本家たちは独自の刑法典を持つ。それは、「原料や労働手段はその目的に反した消費が行われてはならな(無駄遣いするな!というものである。なぜなら、浪費された材料や労働手段は生産物の価値には入らないからである。

※ Er will nicht bestohlen sein. Endlich - und hierfür hat derselbe Herr einen eignen code pénal <ein eignes Strafgesetzbuch> - darf kein zweckwidriger Konsum von Rohmaterial und Arbeitsmitteln stattfinden, weil vergeudetes Material oder Arbeitsmittel überflüssig verausgabte Quanta vergegenständlichter Arbeit darstellen, also nicht zählen und nicht in das Produkt der Wertbildung eingehn.

※ 作業場の規律に関して、いかなる点がとくに重視されていたか……。服務規則は機械や備品の取り扱い、製品の出来ぐあいなどについての詳しい規定とそれに違反したばあいの罰則を記している…。就業中のふるまいはこまかい点にわたって規制され、これによって作業の継続と労働支出の増大とがはかられている。「家に送り帰し、親を通して叱る」が19、体罰を加えるが10、これに対して「罰金」は59、解雇を通告するは151に達している。;鈴木良『イギリス産業革命と労務管理一橋大「経営史学」197052

※ どの工場主も、とくに自分だけが使うための正真正銘の法典をもっており、それには、故意かいなかをとわずすべての過失にたいして、罰金が定められている。たとえば、労働者は、不幸にも椅子にこしかけた場合、ないしょ話をしたり、おしゃべりをしたり、笑ったりした場合、また何分か遅刻した場合、機械の一部がこわれた場合、要求された質の品物を渡さなかった場合等々には、それぞれの場合におうじて罰金を払うのである。この罰金はいつでも労働者が実際に起こした損害よりも大きいのだ。そして労働者にやすやすと罰を負わせるために、工場の時計をすすませたり、労働者に悪い原料を与えて良い品物をつくれといったりする。規則違反件数をふやすことがあまりうまくない監督はくびになる。

諸君、おわかりのように、こうした工場内だけの規則は違反をつくるために設けられているのであり、違反は金儲けのためにつくられるのである。こうして工場主は、名目賃金を減らし、また労働者にはどうにもできない事故まで利用して儲けるために、あらゆる手段を用いるのである。;『自由貿易問題についての演説全集第4461

※ 「これらすべての側面から見て、労働過程が、同時にまた労働および労働者自身が、資本の統御のもとに、その指揮のもとにはいるのである。私はこれを、資本のもとへの労働過程の形態的包摂と呼ぶ。」;『資本論草稿集『資本論61-63草稿』146-147[AN3] 

※ ある使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間を条件づける「社会的に標準的な生産諸条件」、「労働の熟練度および強度の社会的平均度」とは、その使用価値を生産する特定の生産部門において支配的な、「標準的な生産諸条件」なのでありそれが使用される特定の使用価値生産部門における「労働の熟練および強度の社会的平均度」なのである。それは、けっして、ある社会のあらゆる種類の生産部門に共通な、全社会的に標準的な生産諸条件だとか、労働の熟練および強度の全社会的な平均度とかを意味しているのではない。……

たとえば、ある使用価値を生産する部門において熟練および強度が社会的平均度の労働の一時聞が生みだす価値の大きさは、同じ一時間の社会的平均労働が生みだす価値と較量するとき、より大きいばあいも、等しいばあいも、また、より小さいばあいもありうる[AN4] のである。;大木啓『単純労働立教経済学研究 1971-11

※ ……個々の商品は、ここでは一般に、その種類の平均見本として通用する。だから、同じ大きさの労働分量をふくむ、あるいは、同一労働時間で生産されうる諸商品は同一の大きさの価値をもつ。ある商品の価値が他の各商品の価値にたいする比は、一方の商品の生産に必要な労働時間が他方の商品の生産に必要な労働時間にたいする比に等しい。価値としては、すべての商品は一定分量の凝固した労働時聞にほかならない。”『資本論』第一章第一54

17 原料や労働手段、とくに労働手段が乱暴に扱われて浪費されてはならないという事と関連して、だから奴隷労働の場合には奴隷労働に対応した頑丈でなかなか壊れない労働手段が使われているのだということを指摘している。

古代人の適切や表現では、奴隷はものを言う道具であり、半ばものを言う道具である動物と、ものを言わない道具、つまり普通の労働用具と区別されるという。奴隷主にとっては、奴隷は使役される役畜や鋤・鍬などの労働用具と同じ道具の一つである。しかしそうした奴隷主の扱いに奴隷たちは、自分たちは道具ではなく人間だということを、自分たちが使う動物や労働用具に対して、虐待し、乱暴に扱い、だいなしにすることよって、証明しようとする。だから奴隷に与えられる役畜や労働用具は、そうした乱暴なあつかいによっても壊れないような、もっとも粗雑で、飩重で、不細工なもの、そしてそれだからこそなかなか壊れないようなものだけがあてがわれる。それが、奴隷制生産様式の経済的原則になっているのだ。……」

オムステッドからの引用文も基本的に同じ内容が語られている。奴隷たちが扱っている用具は賃労働者が扱っているものとは比べ物にならないくらいに非常な重さと不細工なものであり、それは10%も労働を困難にするものであること、しかし奴隷が普通の賃労働者が使うような用具を取り扱うとすぐに駄目になってしまうこと、奴隷諸州の農場では馬ではなく騾馬が用いられるのも同じ理由からであることを指摘している。馬だと奴隷の使用には耐えられず、すぐに使い物にならなくなるが、その点、騾馬は頑丈に出来ていて乱暴な扱いに耐えられる云々。

※ この二つの労働システ奴隷制と賃労働が衝突して、相互に競争しあう場合、その結果はとりわけ破壊的なものになるだろう。奴隷制は、資本主義への市場的統合による競争の鞭によっていっそう野蛮なものとなり、その一方で、逆に、奴隷制は賃金と労働条件の両方に否定的な圧力をかけるだろう。主人と奴隷とのあいだにかつて存在したかもしれない人間的関係がいかなるものであろうと、そのようなものは破壊されてしまうだろう。もちろん、奴隷制はその内実において実に多種多様であるが、マルクスが言う意味での価値生産のためのシステムではない。それは異なったタイプの労働過程を必然的に伴っている。純粋な奴隷制においては抽象的労働は存在しない。まさにそれゆえ、アリストテレスは労働価値説を定式化することができなかったのである。なぜなら、この理論は「自由な労働」が存在する場合にのみ妥当するものだからである。思い出してほしいのだが、マルクスにとって価値とは普遍的なものではなく、資本主義的生産様式の内部における賃労働に特殊なものであった。;ハーヴェ『〈資本論〉入門』196

30-31.商品の分析から得られた、使用価値をつくるかぎりでの労働と価値をつくるかぎりでの労働とのあいだの区別は、いまや、生産過程の異なる二つの側面の区別、すなわち労働過程と価値増殖過程として表され、商品生産は資本主義的生産、すなわち資本主義的形態のもとでの商品生産、になる

労働の二重性、具体的有用労働と抽象的人間的労働は、一方は使用価値を生産し他方は価値を形成した。それが生産過程では労働過(使用価値の生産と価値形成過(価値の生産の二側面として現れた。この両者の統一が、つまり商品の生産過程である。この労働過程と価値形成過程というのは、単純な商品の生産過程として、資本の生産過程のより抽象的な契機として存在している。

 これに対して、労働過程と価値増殖過程との統一は、単なる商品の生産過程ではなく、資本主義的生産過程であり、商品生産の資本主義的形態として現れ、それがより具体的なものとして存在している。だからこそ、そこに資本関係が現れているといえる。

※ 労働過程と価値増殖過程の統一としての生産過程もまた、商品の生産過程として規定されなければならない。しかし、そのうえで、資本家の監督下における価値増殖すなわち剰余価値の生産という特殊性がその規定の中軸に含められねばならないのである。かくしてこの生産過程は、商品生産の資本主義的形態、すなわち資本主義的生産過程として規定される。そしてこの場合の労働過程と価値増殖過程との関係は、前者が後者の質料的担い手として、いいかえれば労働過程が資本家の価値増殖という目的のための手段として関係づけられることになっているのである。;岡崎栄松他編『解説資本論(1)』108

※ この統一は労働過程と価値増殖過程との均等で対等な統一ではない。資本主義的生産過程はあくまでも価値増殖過程を主たる側面としているのであり、労働過程はその価値増殖過程によって包摂された形で存在する。このことが労働過程に与える影響は決定的である。……労働過程一般においては労働者が主体であり、種々の生産手段が手段であり、何らかの労働生産物が目的であった。しかし、資本主義のもとでの労働過程にあっては、労働者はもはや主体ではなく、それによって生み出される生産物それ自体も目的ではなく、どちらも、資本が剰余価値を生産し取得するための単なる手段にすぎなくなる。労働過程は、G-W-Gにおいて、出発点の貨(Gを終結点でより多くの貨(G’に転化させるための媒介(手段にすぎない。資本のこの悪無限的な形態的運動原理に包摂されることで、労働過程は、したがってまた、その中に存在する労働者、労働対象、労働手段もすべて、資本にとって価値を増殖させるための手段にすぎなくなる。;森田成也『新編 マルクス経済学再入門』上巻145

※ 同じく自分自身の農地を耕作する農民や自分の計算に基づいて労働する手工業者も、自らの消費する生活手段の価値の補填に必要な労働時間を越えて労働を行うことができる。したがって、こうした人々もまた剰余価値を生産する可能性がある。それゆえに、こうした人々の労働もまた価値増殖過程となる可能性がある。だが、価値増殖過程が購入された他人の労働力で遂行されるようになるや否や、それは資本主義的生産過程となる。かくしてこの資本主義的生産過程は、その生質上、最初から価値増殖過程であるという必然性と蓋然性とを有しているのである。;カウツキ『マルクスの経済学説』(カウツキー他「『資本論』の読み方」より)74

32.前にも述べたように、資本家によって取得される労働が、単純な社会的平均労働であるか、それとも、もっと複雑な労働、もっと比重の高い労働であるかは、価値増殖過程にとってはまったくどうでもよい

* 11パラグラフ 「われわれは、紡績労働が単純な労働であり社会的平均労働であると仮定しよう。これとは反対の仮定をしても事態は少しも変わらないということは、あとでわかるであろう。」;全集第23a248

社会的平均労働に比べてより高度な、より複雑な労働として認められる労働とは、単純な労働力に比べてより高い養成費のかかる、その生産により多くの労働時間が費やされている。したがってより高い価値をもつ労働力が発現し、したがってまた同じ時間内に比較的より高い価値に対象化される。

といっても価値というのはあくまでも労働の社会的関係が物の社会的属性として現れているものなので、それは社会的関係の変化によっていくらでも変化するものである。

いずれにしても、こうした高級な労働かそうでないかということは、価値増殖過程には何の影響もない。[AN5]

例えば紡績工の労働と宝石細工師の労働とが後者が前者よりもより高級な労働だとしても、宝石細工労働において、彼自身の高い労働力の価値を補塡するだけの労働部分と、それを延長して剰余価値として追加する労働時間部分とは、質的にはまったく同じであって少しも区別されない。だからそれらはやはり価値形成過程としては同じ質のものである。

つまり、剰余価値は、例え高級労働であろうと、相変わらずただ労働の量的超過分によってもたらされる。だから紡績労働であろうと宝石細工労働であろうと、いずれもそれらの労働が延長された労働時間によってのみ剰余価値は生まれ18のであり、労働の質の違いは剰余価値の形成にとっては何の影響もない

18 高度な労働と単純な労働との、「熟練労働」〔"skilled labour"〕と「不熟練労働」〔"unskilled labour"〕との相違は、一部分は単なる幻想にもとづくか、または少なくとも、すでにずっと前から実在的ではなくなって、もはやただ伝統的な慣習のうちに存続するだけの相違にもとづいている。

初めに、単純な労働と複雑な高級な労働というものの区別というのは、社会的な慣習や伝統や社会情勢によって変わってくると述べている。ここでは「高度な労働と単純な労働との」と「『熟練労働』〔"skilled labour"〕と『不熟練労働』〔"unskilled labour"との」という文言が並べられて同じものとして扱われている。どちらも、それらの相違は「一部分は単なる幻想にもとづくか」あるいは「すでにずっと前から実在的ではなくなってもはやただ伝統的な慣習のうちに存続するだけの相違にもとづいている」と言い、何の客観的な根拠もない極めてあやふやなものだと指摘している。

また「一部分は、労働者階級中の或る階層のいっそう絶望的な状態にもとづいている」場合とはどういう事情でその労働者たちがそうした状態に陥ったのかは書かれていないが、極めて不利な状況に陥ったために、そうした労働者たちは自分の労働力の価値を資本家に認めさせる力が他の労働者たちよりも弱く、より単純な、不熟練な労働とみなされ、低級な労働に位置づけられるという。

これは今の不正規雇用の労働者にもある程度言いうる事情と思われる。彼らは別に労働の内容としては正規の労働者と同じ労働をしているにも関わらず、その雇用の不安定(だれの責任だ?から、低級な労働と見做され、だからまた価値の低い労働力に位置づけられてしまう。そしてその労働の多くは女性労働者が担わされ、女性労働と低級な労働への差別的悪循環が、女性労働者を低賃金労働に追いやっている。

また、偶然的な諸事情が大きな役割を演じて、そのために同じ労働種類が地位を替えることがある。たとえば、資本主義的生産の発達している国々ではどこでも同様だが、「労働者階級の体質が弱くなり比較的疲れている」ところでは、一般に、筋力を多く必要とする粗野な労働は、それよりもずっと精密な労働に比べてより高度な労働に逆転し、後者は単純な労働の等級に下落する。たとえば、イングランドでは煉瓦積み工の労働は綾織工の労働よりもずっと高い地位を占めている。

次に、視点を変え、マルクスは「偶然的な諸事情が大きな役割を演じて、そのために同じ労働種類が地位を替える」と書いている。資本主義的生産が発達しているところでは、筋力のいる肉体労働の方が、より精密で高度な内容の労働をしている労働よりも高級な労働として位置づけられ、だからまた価値を持つ労働力になると述べる。

これも今日の日本の労働者にとっても言えるのではないだろうか。例えば長距離トラックの運転手の賃金は普通の工場労働者よりもかなり高いものになっている。ニューズウィーク日本語2022101日付け電子版で17歳で飛び級入学で大学生になり、大学院まで卒業した人が卒業後、研究職を得たものの収入が手取り15万円しかなく、すでに結婚して子供までいたので、生活できず、研究職を諦め、思い切ってトレーラーの運転手に転向、今は一軒家を購入して生活できているという記事もあった。

また他方では、綿びろうど剪毛工の労(織物の表面に出たけばを切って織り目をはっきりさせたり、長さをそろえたりすることは、多くの肉体的緊張を必要とし、しかも非常に非衛生的であるにもかかわらず、「単純な」労働とされているという。当時のイギリスの事情にもよるだろうが、今日でも肉体的緊張を強いられ、非衛生的だったり危険であったりするにも関わらず、単純な労働として位置づけられている労働は少なくないだろう。

しかし、いずれにしても、いわゆる熟練労働というものが国民のなかで大きな範囲を占めていると想像するのはあたらないということである

例えば自動車を組み立てるのは非常に複雑な工程と作業だが、しかし今ではそれらはかなりの部分が自動化し、また作業場内の分業が徹底されているために、それぞれの作業分野で働く労働者の労働は、極めて単純な作業になっています。だから自動車工場の労働者のうち実際に組み立て作業に従事する労働者の労働は、ほぼ単純労働とみなしうる。複雑な労働を行っているのは、そうしたシステムを設計したりするわずかな労働者に限られている。しかし自動車組立工の労働が単純な労働だといっても、彼らは工場制度によって組織化されている分、自分たちの労働力の価値を強制する力は持っているとはいえるだろう。

「先日までインドの大蔵大臣であった『資本論初版』江夏訳209ラングは、イングラン(およびウェールズ1100万人以上が単純な労働によって生存していると計算している。これはラングの『国民的困窮』からその内容をマルクスが紹介しているもので、これはその直前の「とにかく、いわゆる「熟練労働」が国民の労働のなかで量的に大きな範囲を占めているものと想像してはならない」という一文の論拠として紹介している。イングラン(およびウェールズの当時の人口1800万だったが、そのなかで単純な労働者に数えられるの1100万になること、しかもそこに入らない高級労働者に数えられている労働者のなかには煉瓦積み工も入ってい(つま1100万人に煉瓦積み工は入っていないということが指摘されている。

「食物を得るために普通の労働のほかにはなにも提供するものをもっていない大きな階級が、人民の大多数である。(ジェームズ・ミル「植民地」の項目、所収、『大英百科辞典補遣』、1831これもやはり同じ主旨によるミルからの引用。普通の労働者が人民の大多数であることが明言されている。


33.現実に高度な労働が使われた場合でも、それは価値形成過程においては、常に社会的平均的労働に還元して計算されなければならない。たとえ1日の高度な労働はX日の単純な労働に還元して計算され19。つまり、資本の使用する労働者は単純な社会的平均的労働であると仮定することよって、そうした還元するという余計な操作を省き、分析を簡単にすることができる。

※ 〈他方、価値の生産が問題であるばあい、高度の労働はいつでも社会的な平均労働に、たとえ1日の複雑労働は2日の単純労働に、換算されなければならない。立派な経済学者たちがこの「恣意的な断言」にたいして異議を唱えるならば、ドイツの諺にしたがって、「樹を見て森を見ず」と言うべきではないか! 彼らが分析上の詭計であると非難しているものは、明らかに、世界の隅々で日々実行されている手続きなのだ。いたるところで、この上なく多種多様な商品の価値が貨幣で、すなわち若干量の金か銀で、無差別に表現されている。まさにこのことによって、これらの価値によって表わされたいろいろな種類の労働が、いろいろな比率で、同じ種類の普通労働の一定量、金か銀を生産する労働の一定量に、換算されたのである。〉 [* Den Wald vor lauter Bäumen nicht sehen ]

このフランス語版の書き加えは、複雑労働の単純労働への還元というのは、要するに複雑労働の生産(商品も、単純労働の生産(商品も、同じ価値として、ただ単に量的に異なるものとして表されているだけであり、それが一定量の金か銀に換算されているということは、複雑労働が単純な労働に還元されていることでもあるのだと述べている。

19 「価値の尺度という意味の労働について述べられる場合には、それは必然的にある特殊な種類の、またある与えられた継続期間の労働を意味する。他の種類の労働がこの労働にたいしてもつ比率は、おのおのに与えられるそれぞれの報酬によって容易に確定される。〔J・ケーズノヴ『経済学概論』、ロンドン、1832年、2223ページ。

ケーズノヴ, ジョン Cazenove, John イギリスの経済学者、マルサスの追随者(全集23b巻人名索引68彼はマルサスの信奉者でマルサスの著書『経済学における諸定義……』を編集しており、マルクスはそのカゼノウヴ版を使ってマルサスを批判している。またカゼノウヴの著書であ『経済学概論を「マルサスの諸原理を詳しく論じている一著書(『資本論草稿集』⑦85と評価している。

  


 [AN1] 久留間鮫造氏はつぎのように言われている。

「必要労働時間というのは、いうまでもなく、一定の使用価値を作るのに必要な労働時間、例えば米一升を作るのに必要な労働時間、糸一斤を作るのに必要な労働時間、等々であって、従ってそれは、一定の使用価値との関聯なしには、従ってまた労働の有用的具体的な性質に即することなしには考えられない。だからこそ、それは労働の生産力に逆比例することにもなるのである。ところで、単にこの面のみから見れば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云ひ現わすものに過ぎないのであるが、商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現われる。そしてその場合には、労働は有用的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。だから、必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現われるものと考えなくてはならない。ぞれは、有用的具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもっということになる。」(向坂逸郎・宇野弘蔵編『資本論研究』至誠堂版112)

gelten:通用する、適用される

大木啓次『単純労働』立教経済学研究 1971-11

 [AN2]諸使用価値のこのような倍加、すなわち、生産物のうち、新たな生産に用いられねばならない構成部分をこえる生産物の余剰〔Ueberschuß〕――したがって生産物の一部分は不生産的に消費されることができる――が明白に現われるのは、自然の種子がそれの生産物にたいしてもつ関係においてのみである。収穫物のうち種子として直接土地に返される必要のあるものは、ほんの一部分だけである。ひとりでに自然に見いだされる生産物、すなわち空気、水、土、光の基本要素、さらにまた肥料その他のかたちで供給される諸物質のなかで、種子はふたたび穀物などとして倍加された分量で余剰を生み出すのである。要するに、人間の労働は、剰余〔Surplus〕を手にいれるためには、すなわち同じ自然物質を使用上無価値な形態から価値ある形態に転化させるためには、(農業においては)ただ化学的な物質代謝を管理し、部分的には力学的にもこれを促進しさえすればよい、また(牧畜〔においては〕)生命の再生産そのものを管理し、促進するだけでよいのである。それゆえ一般的富の真の姿態とは、土地生産物(穀物、家畜、原料)の余剰のことである。したがって経済的に見れば、地代〔Rente〕だけが富の形態である。こうして、資本の最初の予言者たちは、非資本家、つまり封建的土地所有者〔feudaler Grundeigenthümer〕だけを、ブルジョア的富の代表者としてとらえることになる。;『資本論草稿集』①『経済学批判要綱』404

「あるただ一つの物にいくつもの他の物の価値を加算する」(たとえば亜麻に織物工の生活資料を加算する)「というこのやり方、つまり、いわば多くの価値をただ一つの価値に積み重ねてゆくやり方は、この価値をそれだけ増大させる。……加算という語は、労働生産物の価格が形成される仕方を非常によく表わしている。この価格は、消費されて加算されたいくつかの価値の総額にほかならない。しかし、加算することは掛け算することではない。」;リヴィエール『自然的および本質的秩序』599

 [AN3]労働過程のすべての要因が、すなわち、労働材料、労働手段、それに資本家が買った労働能力の実証、使用としての生きた労働そのものが、資本家のものであるので、同様に、まるで彼自身が自分自身の材料と自分自身の労働手段とをもって労働しているかのように、労働過程の全体が彼のものなのである。だが、労働は同時に、労働者自身の生の発現であり、彼自身の人的熟練および能力〔Fähigkeit〕の実証――この実証は、彼の意志しだいであり、同時に彼の意志の発現である――であるから、資本家は労働者を監視し、自分のものたる行動としての労働能力の実証を統御する。彼は、労働材料が労働材料として合目的的に使用されるよう、労働材料として消費されるよう、気をつけるであろう。材料が浪費されれば、それは労働過程にははいらず、労働材料としては消費されない。労働手段についても、労働者がひょっとしてそれの素材的な実体を、労働過程そのものによってではなくそれ以外の方法で摩損させる〔aufreiben〕ことでもあれば、同じことが言えるであろう。最後に、資本家は、労働者がほんとうに労働するよう、時間いっぱい労働するよう、また、必要労働時間だけを支出するよう、すなわち、一定時間内に正常(ノーマル)な量の労働をするよう、気をつけるであろう。これらすべての側面から見て、労働過程が、同時にまた労働および労働者自身が、資本の統御のもとに、その指揮のもとにはいるのである。私はこれを、資本のもとへの労働過程の形態的包摂と呼ぶ。(草稿集④『61-63草稿』146-147頁)

 [AN4] マルクスは、『直接的生産過程の諸結果』のなかで、つぎのように書いている。

『一般的な社会的な平均労働の対象化としての価値または貨幣については、なおつぎのことをのべておきたい。たとえば、紡績労働は、それ自体としては社会的平均労働の水準よりも上あるいは下にありうる。すなわち、ある分量の紡績労働は、同一分量の社会的平均労働、たとえば、ある分量の金に対象化されている同じ大きさ(長さ)の労働時間に等しいことも、より大きいことも、より小さいこともありうる。しかし、紡績労働がその部面における標準的な強度でもっておこなわれるならば、すなわち、たとえば一時間に製造される糸についやされる労働が、与えられた社会的諸条件のもとで一時間の紡績労働が平均的に供給する標準量の糸に等しいとすれば、その糸に対象化される労働は社会的必要労働である。この社会的必要労働として、それは、尺度として通用している社会的平均労働一般にたいして量的に一定の関係をもっており、したがって、社会的平均労働の同じ量、より大きい量、より小さい量をあらわしている。つまり、それは、それ自身、社会的平均労働の一定量をあらわしているのであるに(『直接的生産過程の諸結果』八八頁、訳七九頁〉
大木啓次『単純労働』立教経済学研究 1971-11

 [AN5]ここでは、労働の特定の仕方様式、労働の素材的規定性が、資本への労働の関係――ここではこれだけが問題であるが――に影響しない、ということがはっきりする。だが、それでいてわれわれは、労働者の労働は普通の平均労働とする、という前提から出発したのであった。けれども、労働者の労働は、それよりも高い比重をもった労働、力能を高められた〔potenzirt〕平均労働とする、と前提したとしても、事情は変わらないのである。資本家が、労働過程で対象化されたかたちで受け取るもの、労働過程によって取得するものが、単純労働すなわち平均労働であろうと、紡績工の労働あるいは製粉工の労働であろうと、農夫の労働あるいは機械工の労働であろうと、それは紡績、製粉、耕作、機械製作という、労働者の特定の労働である。彼が生みだす剰余価値はつねに労働の超過分のなかに、すなわち彼自身の賃銀を生産するのに必要である以上に彼が紡ぎ、粉を碾()き、耕作し、機械を作る、その労働時間のなかにある。つまり、それはつねに、彼自身の労働――この労働の性格がどのようなものであろうと、それが単純なものであろうと力能を高められた〔potenzirt〕ものであろうと――の、資本家が無償で受け取る超過分のなかにあるのである。たとえば、力能を高められた〔potenzirt〕労働が社会的な平均労働にたいしてもつ比率は、この力能を高められた〔potenzirt〕労働の自分自身にたいする比率を少しも変えないのであり、1時間のこの労働は2時間のこの労働の半分の価値しか創造しないこと、言い換えれば、それはその時間的継続に比例して自己を実現すること、を少しも変えないのである。つまり、労働と剰余労働――すなわち剰余価値を創造する労働――との比率が問題になるかぎりでは、つねに同一種類の労働が取り扱われるのであり、こうして、交換価値を生む労働そのものに関連してであれば正しくないことになることが、ここでは正しいのである。;『資本論草稿集』④『61-63草稿』142頁)


第5章第2節PDFファイル ↓
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