◎「第5章 労働過程と価値増殖過程」から「第6章 不変資本と可変資本」への移行について
マルクスは「商品に表される労働の二重性」のところで次のように述べていました。
「最初から商品はわれわれにたいして二面的なものとして、使用価値および交換価値として、現われた。次には、労働も、それが価値に表わされているかぎりでは、もはや、使用価値の生みの母としてのそれに属するような特徴をもってはいないということが示された。このような、商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に指摘したものである。この点は、経済学の理解にとって決定的な跳躍点であるから、ここでもっと詳しく説明しておかなければならない。」(全集第23a巻56頁)
このようにマルクスは「労働の二重性」は自分によって初めて批判的に指摘されたことを述べ、その点は「経済学の理解にとって決定的な跳躍点である」とも述べていました。そして実際、私たちはこれまでの展開だけでも、労働の二重性があらゆるものの基礎にあることを見てきました。第5章で問題になった労働過程と価値増殖過程というのは、資本による商品の生産が使用価値の生産と価値(剰余価値)の生産という二つの契機の統一したものであることを明らかにしていますが、その背景には労働の二重性があることも指摘されたのです。
今回から問題にする「不変資本と可変資本」も労働の二重性と同じくマルクスによって初めて区別され範疇として確立されたものです。そしてそれはやはり労働の二重性と同じく、まさに『資本論』全3巻にわたって重要な意味を持っていることが分かってくるのです。
一例を挙げますと、例えば第2巻の第3篇では社会的総資本の再生産過程が分析にされていますが、これも資本の構成を不変資本と可変資本と剰余価値とに分けることによって、それらの相互補塡関係として、再生産過程が分析可能になっています。さらに第3巻では資本主義的生産が高度化すればするほど、資本が生産の目的とも推進動機ともする利潤率が傾向的に低下せざるをえない法則をマルクスは明らかにしていますが、こうした法則の解明も不変資本と可変資本との区別なくしてはできないのです。だからこの第6章は比較的短いものですが、極めて重要な問題を論じているということがお分かりになるでしょう。;大阪『資本論』学習資料No.31(2022.11.19)
1.労働過程では、合目的な活動としての労働が労働手段を使って労働対象に働きかけて、新たな生産物をつくりだす。
労働過程の要因としては、労働そのもの、労働対象、労働手段があり、生産物から全過程をみれば、生産的労働と生産手段という諸要因がある。これらの諸要因が、それぞれ違った仕方で、生産物価値の形成をおこなう。
※ 「価値」においては、「労働の質」は問題とされないが、労働過程の諸契機が価値形成にそれぞれどのように寄与するのかという点で、「労働過程の諸契機」がその限りで問題になる。
※ 第5章第1節労働過程
「労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である。」(第3パラグラフ)
「この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。」(第8パラグラフ)
2.労働者は、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える。
他方では、われわれは消費された生産手段の価値を、再び生産物価値の諸成分として見いだす。つまり、生産手段の価値は、生産物に移転され、保存される。この移転は、労働過程のなかで、労働の媒介により行われる。
※ ここでは、物理的な移転と価値の流通とが区別されなければならない。この二つの流通過程は異なっている。というのも、綿は物理的で物質的な使用価値だが、価値は非物質的で社会的な(だがそれにもかかわらず、すでに見たように、対象的な)ものである。原料はまた、過去価値のある一定量を含んでいる。機械やその他の労働手段も同じである。これらすべての蓄積された過去価値は新しい生産過程の中に死んだ労働の形態で入っていく。この死んだ労働を生き返らせるのが生きた労働である。それゆえ、労働者は事実上、原料(その一部は製造物)と機械その他に凝固した価値を維持するのであり、それらを合目的的に使用することによってそうするのである(生産的消費)。マルクスは、労働者がこれを資本家のために無償で行なうという事実を大いに強調している。
これらの過去の使用価値とその凝固した価値とはいかなる新しいものも生み出さないし、生み出しえない。それらは単に使用され維持されるだけである。たとえば機械は価値を生み出しえない。これは重要なポイントである。なぜなら、時おり物神的に、機械が価値の一源泉であるかのように主張されるからである。しかし、マルクスの説明図式においては、そういうことは絶対にありえない。起こるのは、機械の価値が労働過程中に商品に移転することだけである。;ハーヴェイ『〈資本論〉入門』198頁
3.労働者は同じ時間に二重に労働しているのだろうか。同じ時間に二つのまったく違う結果を生み出している。自分の労働によって綿花に新たな価値をつけ加える一方で、他方では綿花の元の価値を保存するのだろうか。そうではない。彼は、ただ新たな価値をつけ加えることによって、元の価値を保存する。
生産手段の価値は、労働によって、生産物の価値として移転され保存される。しかしそのために労働者は別に新たな労働をするわけではない。それは労働者が新たな価値を創造しつけ加える労働によって、同時に生産手段の価値を生産物に移転し保存するのである。
このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明ができる。
※ すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。(全集第23a巻63頁/第1章第2節)
※ 生産物の価値形成過程における不変資本と可変資本との原則的に異なった役割の発見は、具体的労働は生産物に生産手段の価値を移し、抽象的労働は新価値をつくりだすという、労働の二重の性格を区別したことの結果としてのみ可能であった。;バガトゥーリャ/ヴィゴツキー『マルクスと経済学の方法』上78頁
4.労働者はどのようにしてこれらの労働時間を、したがってまた価値をつけ加えるのか? ただ彼の特有な生産的労働様式の形態(いつもどおりの労働)でそうするだけである。紡績工はただ紡ぐ、織物工はただ織る、鍛冶工はただ鍛える、これらにより労働時間をつけ加える(新しい価値をつけ加える)。
〈綿花と紡錘、糸と織機、鉄と鉄床のような生産手段を、新しい使用価値である生産物の形成要素に変えるものは、まさしく、機織や紡績などというこういった形態であり、一言にして言えば、労働力がそのなかで支出される特有な生産形態なのである。〉20
※ 生産手段の価値が生産物の価値として移転され保存されるのは、労働の二面的性質から説明できるとマルクスは言う。では、それはどのようにしてか?
まず、そもそも労働者の労働が生産手段に新たな価値をつけ加えるのは、どのようにしてか。それは何らかの具体的な有用な労働の形態で行われる。そもそも価値を形成する抽象的な人間労働というのは、具体的な有用労働からその具体性を捨象して得られるものであるから、価値形成労働そのものは具体的有用労働を抜きには存在し得ない。したがって価値を形成するのは労働の抽象的契機によってだが、それが支出されるのは何らかの具体的な有用な形での労働でしかない。だから労働者が紡績工であれば、その労働は紡ぐという具体的な形態で支出され、織物工はただ織るという具体的な形態を通して、あるいは鍛冶工は同じように鉄を鍛えるという具体的な労働の抽象的契機によって新たな価値を形成することになる。そして、綿花と紡錘、糸と織機、鉄と鉄床のような生産手段を、それぞれの生産物(糸、織物、錬鉄)に変えるのは、こうした具体的な有用な労働、それに特有な生産形態によってなのである。
生産手段の使用価値の元の形態は消えてなくなるが、それは、ただ、新たな使用価値形態で現われるためになくなるだけである。ところで、価値形成過程の考察で明らかにしたように、ある使用価値が新たな使用価値の生産のために合目的的に消費されるかぎり、消費された使用価値の生産に必要な労働時間は、新たな使用価値の生産に必要な労働時間の一部分となる。
※ 綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料とする糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、したがってそれは糸のうちに含まれている。それだけの摩滅または消費なしには綿花を紡ぐことができないという紡錘量の生産に必要な労働時間についても同じことである。(全集第23a巻246頁/第5章第2節)
※ ロビンソンが机を作るために、まず森に行って木を切るのに10時間、木から木材をつくるのに20時間、そして木材から机を作るのに30時間かかったとしたら、彼は机を作るのに必要な労働時間として合計60時間が必要だったと計算するでしょう。つまり生産手段の生産に必要な労働時間が、(新しい)生産物の生産に必要な労働時間の一部を形成するというのは一つの自然法則なのです。
ただロビンソンの場合はそれぞれの労働はロビンソンの合目的的な意識のもとに一連の労働は結び付いていますが、しかし商品生産社会ではそれぞれの労働は直接には社会的に結び付いて支出されません。それらは個々別々の私的な労働として支出されるだけなのです。だからそれらの労働の社会的な関係はそれらの労働の生産物の価値として関係するしかないわけです。すなわち価値が移転され保存されるという形で労働の社会的関係がそれによって実現されるわけです。;大阪『資本論』学習資料No.31(2022.11.19)
〈労働者が消費された生産手段の価値を保存し、この価値を生産物価値の構成部分として生産物に移すのは、彼が労働一般を付加するからではなく、この付加的労働の有用的性格、その生産形態によってなのである。労働は、それが有用であり生産活動であるかぎり、生産手段との単なる接触によって、生産手段を死から蘇生させ、これを労働自身の運動の要因となし、これと結合して生産物を構成する20。〉
なぜ、有用労働が生産手段の価値の移転や保存を媒介するのか。それは、労働の社会的関係が、その具体的な有用な形態にもとづいているからである。ロビンソンの伐採労働と製材労働と木工労働が机という生産産物を生産する一連の過程のなかで関連しているのは、その一般的抽象的な契機によってではなく、その伐採や製材や木工という具体的な形態によって結び付いているからである。
※ 具体的な有用労働が生産手段の価値に直接関わって、それを移転し保存するわけではないのです。生産手段の価値が移転され、保存されるのは、それらの生産に必要な労働時間が、それを生産的に消費して生産された生産物の生産に必要な労働時間の一部になるという自然法則にもとづいているからです。それが商品生産社会では、価値の移転と保存という形で現われているに過ぎないのです。そして生産手段の生産に必要な労働時間が、生産物の生産に必要な労働時間の一部になるというのは、まさにそれらの一連の生産物の生産のために支出された具体的な有用労働によってそれらの労働が社会的に結び付いているからいえることなのです。だから具体的有用労働が生産手段の価値を移転し保存するとマルクスは述べているわけです。;大阪『資本論』学習資料No.31(2022.11.19)
※ マルクスにとって労働の核心はそれが過程であるということだ。ちょうど資本が流通過程として解釈されているのとまったく同じく、労働は生産する過程として解釈されている。しかし、ここで問題になっているのは使用価値をつくる過程であり、資本主義のもとではこれは、他の誰かのために商品形態で使用価値をつくることを意味する。この使用価値は、直接的使用のために存在しなければならないのか? 必ずしもそうではない。なぜなら、過去の労働は未来の使用のために貯蔵することができるからである(原始的な社会でさえたいてい、将来に備えて剰余生産物を貯えておく)。われわれの世界では、膨大な量の過去労働が、耕地や都市や物的インフラに貯えられており、その一部は大昔から引き継がれている。労働の日々の活動はそれはそれで重要なのだが、労働が生産物や物の中に貯えられていることは、決定的な役割を果たす。;ハーヴェイ『〈資本論〉入門』181-182頁
※ 価値移転とは、原料の価値が、具体的有用労働(=糸を紡ぎ、布を織る)によって、そのまま新しい使用価値へと“織り込まれていく”ことである。これは、まったくもって超自然でも神秘でもなく、「社会的に組織された労働の連関の中で、前の労働の成果が次に引き継がれていく」、まさに合理的な運動なのである。
この流れの中で、各段階の使用価値は次の段階に変化しながら、「内包される価値」もまた連続的に運ばれていく。だから「価値移転」とは、むしろ価値の“労働連鎖”としての運動と理解することができるし、実際にその通りなのである。
注20 「労働は、消し去られた創造物の代わりに新たな創造物を与える。」(『諸国民の経済学に関する一論』著者匿名)
マルクスは「著書『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、1821年には二、三の非常にすぐれた独創的論点が含まれている」(478頁)と述べて、『資本論草稿集』⑨でも幾つかの抜粋が行われています。そのなかに〈不変資本のたんなる維持と可変資本の再生産との相違〉とマルクス自身による表題が書かれた、今回の原注の一文が含まれる次のような引用文が抜粋されています(下線はマルクスによる強調個所)。
「本来の唯一の再生産的消費とは、労働が商品にたいして行なう最終消費であり、この消費が消滅した創造物の代わりに新たな創造物を与える。生産の全体は、私の考えるところでは、すべての中間的交換や中間的過程を経過すること、同時にまた、商品を、農業であれ製造業であれ、全的に創造するか、または既成の商品に改良を加えるかのいずれかによって新価値を生む労働に委ねることからなるように思われる。」(13、14ページ。)「諸生産物は、それらが再生産的消費のために(終局的に、すなわち、生地に吸収されるインディゴのように間接的にではなく)、食糧、衣類、住居がそうであるように、価値を生む労働に委ねられる場合にのみ、資本となる。」(67ページ。)(『資本論草稿集』⑨479頁);大阪『資本論』学習資料No.31(2022.11.19)
5.労働者がその労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働が抽象的な社会的労働一般であるかぎりでのことであり、また、彼が一定の価値量をつけ加えるのは、それが一定時間継続するからである。つまり、その抽象的な一般的な性質において、人間労働力の支出として、紡績工の労働は、綿花や紡錘の価値に新価値をつけ加えるのである。そして、紡績過程としてのその具体的な特殊な有用な性質において、それはこれらの生産手段の価値を生産物に移し、こうしてそれらの価値を生産物のうちに保存するのである。つまり、同じ一つの労働によって、一方は新たな価値の付加、他方は旧価値の移転と保存という二つの結果をもたらす。
※ 商品を生産する労働は、労働過程と価値形成過程(価値増殖過程)の統一であり、具体的有用的労働と抽象的人間的労働という「労働の二面性」が、「労働の結果の二面性」に転化する。
6.労働の量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産手段の元の価値が生産物のうちに保存される。こうした労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的な作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われる。
※ 具体的有用労働の「(新しい)使用価値を作り出す」という性質の中には、生産手段の価値(古い価値)を「移転し保存する」という性質が含まれる。
※ 価値形成労働と価値移転労働というこの労働の二重的性格が明瞭となるのは、労働の生産性の変化か価値形成や価値移転に及ぼす影響を考察する場合である。一労働時間に生まれる価値の大きさは、その他の条件が同じであるならば、労働の生産性が増減した場合でも変化しない。それに対し、一定の時間に生産される使用価値量は、労働の生産性とともに増減する。それゆえ、労働の生産性が増減するのと同じ比率で、労働の価値移転も増減することになる。;カウツキー『マルクスの経済学説』76頁
7.❶紡績労働の生産性が向上したばあい。いまかりに紡績労働の生産性が6倍に上がったとする。具体的有用的労働の生産力が6倍になり、6倍の生産手段で6倍の新しい生産物が生産される。生産物全体には生産手段の6倍の価値が移転・保存されている。しかし、6倍の新しい生産物・使用価値は以前と同じ時間で生産されるのだから、そこには新しい価値(人間労働)は以前と同じ量しか付加されていない。新しい価値の量は生産力の変動に反比例する。
※ 紡績工が以前は36時間で紡いだのと同量の綿花を6時間で紡げるようになった、つまり生産力が6倍になったとする。その生産物は、6倍の糸、つまり単位時間当たり6ポンドから、同じ時間で36ポンドの糸ができあがる。しかし、その36ポンドの糸は、以前に6ポンドの糸が吸収したのと同じだけの労働時間しか吸収していない。労働時間は同じなのだから。言いかえると、一定量の綿花には古い方法による場合の6分の1の新たな労働がつけ加えられたのであり、したがって出来上がった糸には、以前の生産力の時の労働の価値の6分の1だけが含まれている。
生産力が6倍になったとき、そこでつけ加えられる労働は6分の1になる。すなわち、労働の量は生産力に反比例するのである。
8.❷労働生産性が不変で、労働対象(棉花)の交換価値が騰貴または下落したばあい。このばあいには、労働者は同じ分量の労働対象に同じ価値を付け加え、同じ量の生産物を生産する。しかし、生産物に移転する価値は以前にくらべて、騰貴したばあいには増加し、下落したばあいには減少する。
*N.B. 労働手段の交換価値の変動と生産物に移る価値の変動の対応が原文(独)、全集版、岩波文庫版、鈴木鴻一郎訳は上記と逆。新日本出版新版および長谷部文雄訳は、6倍は6倍、1/6は1/6の並びで訳されている。
※ 紡績労働の生産性が変わらないとする。紡績工が1ポンドの綿花を糸にするためには相変わらず同じ時間が必要である。しかし、綿花そのものの価値は変動して、1ポンドの綿花の価格が6倍に上がるか、または6分の1に下がったとする。
綿花価格の上下にかかわらず、どちらの場合にも紡績工は引き続き同量の綿花に同じ労働時間、つまり同じ価値をつけ加え、同じ時間に同じ量の糸を生産する。それにもかかわらず、彼が綿花から糸という生産物に移す価値は、以前に比べて一方の場合は6分の1であり、他方の場合には6倍になる。
綿花の価値が変動しても、生産力が変化しなければ、綿花の量は変動しない。1ポンドの綿花を1ポンドの糸にかえるために必要な労働時間には何の変化もない。つまり紡績労働の過程で付け加えられる新価値(労働の価値)は同じである。
しかし移転・保存された綿花の価値は、綿花の価値が6倍の場合には6倍になり、6分の1の場合は6分の1になる。紡錘のような労働手段の場合も同じである。6倍の価値の紡錘を使えば、やはり6倍の価値を移転・保存し、6分の1の価値の紡錘を使えば、移転される価値も6分の1になる。
つまり生産力には変化がなく、原料や労働手段の価値に変化がある場合、付加される新価値には変化はないが、移転・保存される旧価値(生産手段の価値)は、旧価値の上下に応じて変化する。
9.❸生産の諸条件が不変のばあい。生産の技術的条件の変化も生産手段の価値変動も起こらないこのばあいには、労働者は、かれのつけ加える価値が多ければ多いほど(長時間働けば働くほど)、生産物中により多くの価値を保存するが、しかし、それは、かれがより多くの価値をつけ加えるからではなくて、かれがこの価値を、以前と変わらない、そしてかれ自身の労働には依存しない諸条件のもとで、つけ加え続けるからである。
※ 生産力にも変化がなく、原料や労働手段の価値にも変化がない場合。この場合は当然、同じ労働時間には紡績工は同じ量の、しかも同じ価値の綿花や紡錘を消費する。そして次の時間にも同じことを繰り返す。だからこの場合には、紡績工が、生産物に移転・保存する価値量は、彼が(労働時間に応じて)新たに付け加える新価値の量に正比例する。
10.❹維持される旧価値の相対量。もちろん、労働生産性や生産手段の交換価値が変化すれば、新生産物に維持される旧価値の絶対量も変化するが、相対的な意味では、労働者はいつでも、新価値を付加するのと同じ割合で旧価値を維持する。たとえば、生きた労働が―かりに労働の生産性や生産手段の価値がどのように変動しようとも―2労働時間では1労働時間でよりも2倍の新価値を付加しつつ、2倍の旧価値を維持するのは明らかである。
※ 生産力は、もちろん、つねに有用な具体的な労働の生産力であって、じっさい、ただ与えられた時間内の合目的的生産活動の作用程度を規定するだけである。それゆえ、有用労働は、その生産力の上昇または低下に比例して、より豊富な、またはより貧弱な生産物源泉になるのである。これに反して、生産力の変動は、価値に表わされている労働それ自体には少しも影響しない。生産力は労働の具体的な有用形態に属するのだから、労働の具体的な有用形態が捨象されてしまえば、もちろん生産力はもはや労働に影響することはできないのである。それゆえ、同じ労働は同じ時間には、生産力がどんなに変動しようとも、つねに同じ価値量に結果するのである。しかし、その労働は、同じ時間に違った量の使用価値を、すなわち生産力が上がればより多くの使用価値を、生産力が下がればより少ない使用価値を、与える。それゆえ、労働の豊度を増大させ、したがって労働の与える使用価値の量を増大させるような生産力の変動は、それが使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮する場合には、この増大した使用価値総量の価値量を減少させるのである。逆の場合も同様である。;『資本論』第1章第2節(60-61)
※ たとえば、ある発明の結果、紡績労働の生産性が2倍に増加したのに、綿花栽培者の労働の生産性は同じままであると仮定しよう。前章の仮定によれば、1ポンドの綿花の中には2労働時間が含まれており、その貨幣価値は1マルクである。以前には1時間に2ポンドの綿花が紡がれていたのに対して、今や4ポンドの綿花が紡がれることになる。したがって、以前には1時間の労働によって2ポンドの綿花に加えられたのと同じ新価値―それは、われわれの計算によれば、50ペニヒ―が、今や4ポンドの綿花に加えられることになる。だが、今や1時間に2倍の価値が紡績労働を通じて綿糸に移転する。つまり、以前には2マルクの価値が綿糸に移転したのが、今や4マルクの価値が綿糸に移転することになるのである。(つまり、価値保持的力・価値移転的力は2倍になるが、価値形成的力は変わらない。)
以上のことから、労働の価値保持的力ないし価値移転的力とその価値形成的力とはまったく異なった性質に基づくものであるということがわかるだろう。;カウツキー『マルクスの経済学説』76頁
11.価値は、ある使用価値、ある物のうちにしか存在しない(使用価値は価値の素材的担い手である)。紙幣のような価値章標はただ価値をシンボルとして表すだけで、内在的な価値を持たないからここでは例外である。価値は何らかの物的対象のなかにあり、使用価値がなくなれば、本来は価値もなくなる。
労働力商品の価値も、その限りでは人間という物的存在と密接不可分なものとしてある。労働は人間の力の発現であり、それが労働力商品の使用価値である。
※ 商品は、使用価値または商品体の形態をとって、鉄やリンネルや小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありのままの現物形態である。だが、それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。(全集第23a巻第1章第3節64頁)
ところが生産手段の場合、労働過程でその使用価値があたらしい生産物を生産するために生産的に消費されるかぎりで、そこで失う価値量だけは消えるのではなく、新しい生産物に引き渡す。
生産手段が元の使用価値を失うのは、それによって生産物という別の新しい使用価値の姿を得るためである。価値というのは、確かに何らかの素材的担い手としての使用価値のうちにあるが、それがどんな使用価値であるかは関係ない。これは商品の変態が示すとおりである。
※ 生産手段のもつ使用価値とは、新たな生産物の素材として役立つことである。であるから、生産手段は具体的有用労働によってその使用価値が実現され、新たな生産物の一要素となっていく。したがって生産手段の持つ価値はこの有用労働によって新たな生産物の中に運ばれていくのである。生産手段の価値は労働過程で消費されるのではなくてただそれが宿る使用価値を乗り換えるだけであり(厳密に言えば、生産物価値のなかに再現するだけのことで)、再生産されるのではない。
※ 生産手段の価値が、生産物の価値として移転・保存されるということは、生産手段の生産に投じられた労働が、新たな生産物の生産に必要な社会的な労働の一部分になるということであり、生産手段は、労働過程でその使用価値(物的形態)を失い、その限りではその価値も失うのだが、同時にその失われた価値を新たな生産物の価値として引き継ぐことになる。
※ 生産手段の価値は、生産手段の使用価値の実現に伴い、新生産物に移転し保存されていくのであり、このことによって新しい価値が創造されているのではない。「剰余価値を生産することができるのは労働力であって、それができるのはただ労働力だけなのです。」(『マルクス自身の手による資本論入門』64ページ)
※ われわれは次のように言うことができるだろう。つまり、生産手段なしにはいかなる生産も不可能であるがゆえに、商品を生産するあらゆる労働は価値形成的であると同時に、価値保持的でもある、と。その際に、労働が価値保持的でもあるのは、労働が費消された生産手段の価値を生産物に移転させるという意味においてばかりでなしに、生産手段のもつ価値を死滅させないという意味においてもなのである。;カウツキー『マルクスの経済学説』76-77頁
労働過程のいろいろな対象的要因は、この点ではそれぞれ事情が異なる。次に見ていこう。
12.原料や補助材料など労働対象の使用価値は労働過程に入るときその独立の姿を失う。しかし、同じ生産手段でも、用具、機械、工場建物、容器などの本来の労働手段は、労働過程でその姿を失うわけではない。それらがまだ活用されている間も、すでに使用ずみになってからも、生産物にたいして独立した姿を保つ。
※ ここでマルクスは「本来の労働手段」と労働手段に「本来の」という形容詞を付けていますが、これはその具体例をみれば分かるように、何らかの労働によって生産された労働手段ということでしょう。マルクスは労働過程の考察において、「たとえば果実などのつかみどりでは、彼自身の肉体的器官だけが労働手段として役だつ」と述べたり、「たとえば彼が投げたりこすったり圧したり切ったりするのに使う石」のように「自然的なものがそれ自身彼の活動の器官になる」(『資本論』第5章第1節労働過程 全集第23a巻235-236頁)とも述べていましたが、これらのものは本来の労働手段とはいえないということではないでしょうか。;大阪「『資本論』学習資料No.31(通算第81回)」2022.11.19
※ 労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの導体として彼のために役立つ物または物の複合体である。;第5章第1節(S.Ⅰ,194)
※ へーゲルは、イギリスのラダイトを念頭において、機械の使用によって、労働者が「愚鈍」になり、人間を不要にするという機械の否定的な作用を指摘しつつ、しかしそれにとどまらないで、機械は人間がふさわしい住事を行なう可能性を生み出し、機械労働を通じて人間が「陶冶」される側面もみのがしてはいない。しかしこの側面についてのへーゲルの分析は概して抽象的であり、世界史的画期としての産業革命全体の積極的評価はやはりこれを果すことはなかったといわねばならい。……「機械の種差は、労働手段のばあいのように、客観への労働者の活動を媒介することではけっしてない」、「労働者は生産過程の主作用因ではなくなって、生産過程とならんであらわれる」としている。ここで、「機械」と「労働手段」とが区別され、「労働手段」が「客観への労働者の活動を媒介する」すなわち、へーゲルのいう道具をさしている。そして、「機械」の場合には、労働者が「生産過程」とならんであらわれるとみなされる。したがって、マルクスは機械を「本来の意味での労働手段」ではないとみて分析し、機械が人間にとってかわる面に眼をうばわれて労働過程の消失傾向という把握になっている。この弱点は、『1861-1863年草稿』における「労働過程」分析と、『機械論草稿』をへて克服されるのである。;吉田文和『ヘーゲルの目的論とマルクスの労働過程論』北海道大学, 経済学研究33-4, 1984.3
それらが労働過程で役立つのは、それらが労働過程において最初の姿を維持しその使用価値を実現させることができる限りのことである。それらの独立した存在は、例え使用価値として労働過程で役立たなくなっても、依然としてその姿を維持しているだろう。機械や道具や作業用の建物などの死骸は、相変わらず、それらに助けられて生産された生産物とは独立した存在をもっているからである。
労働手段の大部分(建物や機械など)は、一定量の労働対象が労働を加えられて生産物になる毎回の労働過程でその全体が使用価値として機能しても、一回の労働過程で使用価値全体を失ってしまうものではなく、長い期間にわたって労働手段として役だつので、その使用価値は毎回の労働過程で一部分ずつ失われてゆき、したがってその価値も使用価値が失われてゆくのに比例して毎回の生産物に移されてゆくわけである。つまり、このような労働手段は、使用価値としては毎回の労働過程で全体として機能しながら、価値としては毎回の価値増殖過程に部分的にしか参加しないのである。
※ 「本来の労働手段」はその使用価値を労働過程で維持しているように見えるが、徐々に磨耗してやがてその使用価値そのものをも失うときがくる。だから労働手段が役立つ全期間、それが作業場に入ってきた日から、がらくたになって廃棄されるまでの期間を考えると、その期間中にその使用価値は労働によって完全に生産的に消費されてしまい、だからその価値もすべて生産物に移ってしまっていると言える。
例えばある紡績機械の寿命が10年だとすれば、10年間の労働過程のあいだに機械のすべての価値が(毎年1/10ずつが)生産物に移っていったと言える。だから労働手段の生存期間(使用価値が維持される期間――この期間は経験が知らせる)のあいだには、この労働手段を用いて絶えず同じ労働過程が繰り返されるのである。
※ 生産手段の種類が異なれば、その価値移転形式も異なったものになる。ある種の生産手段は、労働過程の中でその独立的形態を失う。原材料や補助材などがそうである。また他の種類の生産手段は、労働過程でもその独立的形態を保持し続ける。たとえば綿花は紡がれると、その独立的形態を失うけれども、紡錘は綿花を紡いでも、その独立的形態を失わない。前者は生産過程に入るたびにその価値の全部を生産物に移転させるが、後者はその価値の一部だけを生産物に移転させるにすぎない。1000マルクの価値を有する1台の機械があり、この機械は通常の状況のもとでは1000日間で使用不可能になるとすれば、1労働日ごとに1マルクの価値がこの機械を使用して生産される生産物の中に移転してゆくのである。;カウツキー『マルクスの経済学説』77頁
※ 労働対象と労働手段とのこのような価値移転様式の相違は、後に(『資本論』は第2巻第8章のなかで)流動資本と固定資本との区別として現われるものである。
流動資本とは、生産物の完成とともに使い尽くされる、あるいは完全に生産物に変容する原料をさす。〔流動資本である〕原料は労働過程の中で変容するか、あるいは完全に消滅する傾向をもつのに対し、〔固定資本である〕生産手段は、「もともとの形態を保持し、昨日と同じように明日もまた同じ形態で労働過程に入っていくことで、はじめて労働過程で役に立つ」。
13.生産手段から生産物に移される価値は、生産手段が浪費されないことを前提すれば、生産手段が労働過程で失うだけの価値である。それが失う価値量の最大限は、それが労働過程にはいるまえからもっている価値量であって、それ自身の生産に必要な労働時間によって規定されている。それよりも大きい価値を失うことはなく、それよりも大きい価値を生産物に移すことはない。
※ 〈生産手段は、それ自身が労働の経過中の消耗によって失う以上の価値を、けっして生産物に移さないということは、このばあい一目瞭然である。〉
もしそれが失うべき価値をもたないならば、つまり人間労働の生産物でないならば、生産手段としてどんなに有用であり不可欠であっても、少しも生産物に価値を移すものではない。それは、価値を形成することなしに使用価値を形成するわけである。このような生産手段としては、土地、水、鉱脈中の鉱石、原始林の樹木などがある。
14.ここでもう一つ別の興味ある現象がわれわれの前に現われる。
労働過程と価値増殖過程との相違がここではこれらの過程の対象的な諸要因に反射している。同じ生産過程で同じ生産手段が、労働の要素としては全体として数えられ、価値形成の要素としては一部分ずつしか数えられないからである21。
注21[AN1] 機械は全体としてつねに労働過程で機能するが、しかしそのためには常に何らかの修理を必要とする。修理の場合は、機械は修理労働の労働対象であって、労働手段ではない。だから私たちが今問題にしている価値形成には修理そのものは関係しない。修理労働そのものは機械を生産するための労働の一部分であり、機械の価値はその修理分も含めて計算されている。先のパラグラフで1000ポンドの機械が1000日で寿命が尽き損耗してしまうという場合の損耗とは、何らかの修理によってどうこうできるというようなものではなく、すでに修理の効かない種類の損耗だということである。
機械が常に全体として労働過程に入りながら、価値増殖過程には部分的にしか入らないということを理解することは労働の二重性をベースにしていえることであるが、この二重性を理解できないところからさまざまな混乱が生じた。
リカードは靴下製造機械を生産した労働の一部が一足の靴下には含まれていると正しく主張したのに対し、うぬぼれ屋〔ein ungemein selbstgefälliger:極めて自信過剰〕の「知ったかぶり屋」〔“wiseacre”:賢人〕の『用語論争の考察』の著者は、どの一足の靴下の生産にも常に機械全体が働いたのだから、機械の一部だけがそのために役立ったかに考えるのはおかしいと批判した。
マルクスはリカードの主張していることはその限りでは正しいのであって、この知ったかぶりのうぬぼれ屋の方が混乱しているのだと言う。ただ、リカードが、あるいはその前後の経済学者たちが問題を正しく正確に理解しているかというとそうではなく、彼等は労働の二面性を正確に区別しなかったし、だから労働過程と価値増殖過程における労働の二重性が果している役割などはまったく分析していない。
このことを、この自惚れ屋が反論できるとしたら、それはそれで正当だろうが、そんなことはもちろんまったく期待できない。
※ (この反論に対し、)生産過程の二重的性格を認めるわれわれは、次のように答えることができる。なるほど、生産過程を労働過程として見るならば、機械全体が生産過程に入るのに対して、生産過程を価値増殖過程として見るならば、その一部だけが生産過程に入るにすぎない、と。つまり、使用価値としての機械はその全体が生産過程に入るけれども、価値としての機械はその一部しか生産過程に入らないと。;カウツキー『マルクスの経済学説』78頁
15.労働手段の場合は、全体として労働過程に入りながら、価値増殖過程には「その一部分ずつしか入らない」ということが見られた。それとは反対に、生産手段(労働対象)のなかには労働過程には一部分しか入らないのに、価値増殖過程には全体として入るケースがある。
※ 生産手段の価値全体が生産物に移転するけども、その現物〔使用価値〕は一部しか移転しない場合
例えば綿花を紡ぐときに、毎日115ポンドの綿花のうち15ポンドが綿くずとなってしまい、糸にはならない。しかし115ポンドの綿花の価値は全体として価値増殖過程に入っていく。この15ポンドの失われた綿花は糸にはならないが、糸を生産する過程では不可避な損失であり、それ自体が糸の生産過程の不可分の契機である。したがって、15ポンドの失われた綿花も、糸の実体となる100ポンドの綿花と同じように100ポンドの糸の価値に入るのである。だから綿花(115ポンド)は労働過程には一部分(100ポンド)しか入らないが、価値増殖過程には全体が(115ポンドの綿花の価値として)入るということになる。このような生産過程に不可避な損失も、その価値そのものは生産物に移転するのである。
これは労働過程のすべての排泄物について言えることである。ただし、これらの排泄物が再び新たな生産手段となり、独立した新たな使用価値になることはないという限定がつく。
排泄物が別に新たな生産手段になる例を挙げると、マンチェスターの機械製造工場では毎日大きな機械で削り取られた鉄くずの山が排泄物となるが、それらは製鉄所に運ばれて、再び大量の鉄として機械製造工場に帰ってくる。この場合、排泄物になった鉄くずの価値そのものは、そのリサイクルの過程で不可避に失われる部分を除けば、製造された機械にはその価値を移転しない。価値移転するのは「不可避に失 われる部分」だけである。
16.生産手段が労働過程において、その元の使用価値の姿における価値を失うかぎりで、それは生産物の新たな姿に価値を移す。それが労働過程における価値喪失の最大限度は、明らかに、それが労働過程にはいるときにもっていた元の価値量によって、すなわちそれ自身の生産に必要な労働時間によって、制限されている。すなわち、生産手段は、それが役だてられる労働過程にかかわりなくそれ自身の価値よりも多くの価値を生産物につけ加えることは、けっしてできない。
※ 生産手段は労働過程の中で自らが失った価値を生産物に移転させる。また生産手段は、その使用価値がどれほど大きいものであろうとも、自らがもつ以上の価値を生産物に付加することができない。したがって、俗流経済学が剰余価値やその転化形態である利子、利潤、地代などを生産手段の使用価値から、すなわち生産手段の「効用」から演繹するということが、いかに根拠のないものかがわかるであろう。;カウツキー『マルクスの経済学説』78頁
※ 生産手段は、それが労働過程に入る以前に持っていた価値以上の価値を生産物に引き移すことは決して出来ないということが指摘されています。これはある意味ではあたり前のことのように思えますが、しかし次の原注でも紹介されていますが、当時の経済学者たちのなかには(今日でもブルジョア経済学者たちが利潤は資本全体から生まれてくると考えるように)生産手段も価値を生み出すのだという混乱した主張があったので、こうしたことを確認することには意義があるのです。;大阪『資本論』学習資料No.31(通算第81回)2022.11.19
ある労働材料、ある機械、ある生産手段がどんなに有用であろうと、それが150ポンド(たとえば500労働日)に値するのなら、その役だちによって新たに形成される総生産物に、けっして150ポンドより多くの価値を移すことはない。その価値は、それが生産手段としてはいって行く労働過程によってではなく、それ自身が生産物として出てきた労働過程によって決定されている。
生産手段は、労働過程ではただその使用価値として、その有用な性質によって役立つだけである。労働過程というのは新たな使用価値の生産過程であって、それ自体は価値とは無関係な過程である。だから、それらが労働過程に入る前に価値を持たないなら、それらは生産物にまったく価値を引き渡すことはない22。
注22 このことから、まのぬけたJ・B・セーの愚かさがわかるだろう。彼は、剰余価値を、生産手段が労働過程でその使用価値によって果たす「生産的な役だち」から導き出そうとしている。
※ セー氏が……彼(A・スミス)の誤りだとしているのは、『彼が、人間の労働だけに、価値を生産する力を帰属させている』ということである。 『より正確な分析が示すところでは、価値は、労働の作用、というよりもむしろ、自然が供給する諸力の作用や資本の作用と結びついている人間の勤労によるものである。彼は、この原理を知らないために、富の生産にさいしての機械の影響についての真実の理論を確立することを妨げられたのである。』 A・スミスの考えとは反対に、セー氏は……自然力によって諸商品に与えられる価値について語っている云々。しかし、これらの自然力は、使用価値を大いに増加させるにしても、セー氏がいま論じている交換価値を増加させることはけっしてない。」(〔リカードウ〕『原理』、第3版、334-336ページ〔堀訳、329ページ〕。)「機械と自然力は、一国の富を実に大きく増加させうるであろうが、……これらの富の価値にはなにもつけ加え……ない。」(335ページの注〔堀訳、329/330ページの注〕。);『資本論草稿集』⑦269-270頁[AN2]
※ アダム・スミスの意見に反対して、セー氏は、第4章で、生産にさいしてときには人間の労働にとって代わり、またときには人間と協力するところの、太陽、空気、気圧などのような自然力によって諸商品に与えられる価値について論じている。しかし、これらの自然力は、たとえある商品にたいして使用価値を大いに増加させるとはいえ、セー氏がいま論じている交換価値を増加させることはけっしてない。機械の援助によって、または自然科学の知識によって、以前には人間がやった仕事を自然力にやらせるようになれば、そのときには、こういう仕事の交換価値はそれに応じて下がる。(〔リカードウ〕『原理』、第3版、335-336ページ〔堀訳、329ページ〕。);『資本論草稿集』⑥773頁
セーの価値を自然の力にもとめる主張に対して、ロッシャーが、〈きわめて正しい〉と同意している。「J・B・セーが『概論』第1巻第4章で、いっさいの費用を引き去ったのちに搾油機によって生みだされた価値は、とにかくある新しいものであり、搾油機そのものをつくるために行なわれた労働とは本質的に違うものである、と言っているのは、きわめて正しい。」(『国民経済学原理』、第3版、1858年、82ページ、注。)
※ リカードウにとってはただ、価値が労働時間によって規定されるからこそ、問題が存在するのである。いま言った連中の場合には、そうではない。ロッシャーによれば、自然そのものが価値をもっているのである。……言い換えれば、価値とはなんであるかを、彼は絶対に知らないのである。;『資本論草稿集』⑥182頁
ロッシャーが「セーが、いっさいの費用を引き去ったのちに搾油機によって生みだされた油の価値は、とにかくある新しいものであり、搾油機そのものを製造する労働とは本質的に違うものであると言っているのは、きわめて正しい」と述べたことに対して、マルクスは確かに「きわめて正しい!」と皮肉っている。油と労働が極めて違うものであるのは当たり前のことだと。
そして油が価値を持つからと言って、ロッシャーは天然に存在する石油にも価値を認めていることになる。それは次のようなロッシャーの言葉からもうかがえる。つまり、交換価値を自然は「ほとんどまったく」生み出さないということによって、自然も価値を生み出すこともあると考えていることを告白した。
この「まじめな学者」(“savant serieux”)はリカードが資本を「貯蓄された労働」といって労働に還元していることを批判(不器用!)して、資本の所有者は自分の享楽を抑制したのだから、対価として「利子を要求」するのだと主張している。だから、マルクスは、ロッシャーは資本家の単なる「要求」から利子を説明して事たれりとしているのであり、その経済学の「解剖学的生理学的方法」なるものは何とも「器用な」ものだと重ねて皮肉っている。
17.生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生(輪廻転生)が起きる。その価値は、消費された肉体から、新しく形づくられた肉体に移ってゆく。しかし、この転生は、現実の労働の背後で行なわれる。
生産手段の価値はその使用価値とともに失われるが、それは新たな生産物の価値として生まれ変わる。言いかえると、生産手段の生産に支出された労働時間は、それを使って生産された生産物の生産に必要な労働時間の一部分になるということであり、厳然たる自然法則である。しかし、それが生産物の価値として現われること(価値が移転すること)は神秘的に見える。
人間労働が価値として現われるのは、それぞれの生産物に支出された労働が孤立した私的な労働でしかなく、直接には社会的な関係を持っていないためである。しかし生産手段が新たな生産物の生産のために役立つということは、生産手段を生産した労働とそれを使って新たな生産物を作る労働との社会的関係がそこでは問われ、その結果として結合されている。しかし商品社会ではそれらの二つの労働は直接的には何の関係もないものとして存在しているため、労働の社会的な関係が生産手段の価値と生産物の価値という物の社会的な関係としてそれは現われるしかない。だからそれは一種の神秘性をまとって見える。
労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな労働をつけ加える――すなわち新たな価値(生産物)を作り出すことはできない。なぜならば、目的とする新たな生産物を作るためには、彼は労働を必ず特定の有用な形態でつけ加えなければならないからであり、そして労働を「有用な形態でつけ加える」ということは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段とすることにより、それらの価値をその新たな生産物に移し統合することなしには、できないからである。
このような価値の“輪廻”を生み出す労働は、使用価値を作り出す具体的な有用労働そのものであるが、使用価値が価値の素材的担い手であるように、商品を生産する労働において、有用労働と価値形成労働とは不可分の関係にある。だから元の価値を移転し保存する労働(具体的有用労働)は、新たな価値を付け加える労働(価値形成労働)と不可分だと述べているのである。
※ 彼が価値を形成するのは、彼が有用な労働により何らかの種類の使用価値を生み出す限りでしかなく、その有用な労働によって、生産手段の価値を新たな生産物の価値として移転し保存することによってのみ出来るのである。だから、新たな価値を付け加えようとするなら、何らかの生産手段の価値も移転し保存することを同時に行うことになるのである。
だから価値を付け加えながら価値を移転し保存するということは、一つの労働がその労働の二面性によって同時に行うことであり、だからこそ「活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資(天性)なのである」。
※ 〈だから、活動中の労働力、生きた労働は、価値を付加しながら価値を保存するという属性をもっており、これこそは、労働者にはなんら費用がかからないが資本家には多額の利益をもたらす自然の贈り物であって、資本家は自分の資本の現存価値の保存をこれに負うている。〉
それが労働者に何の費用もかからないというのは、ある意味では自然法則そのものが価値という形態をとって現われているからであるが、それは資本家にとっては極めて大きな恩恵を与えることになる。これは生産手段が生きた労働と結び付かなければ自然の物質代謝によってその使用価値とともに価値をも失う(朽ちていく)のに、それが生きた労働と接触することによって死から蘇えり、その価値を移転させ保存させてくれるからである。この移転は資本家にとって何の費用もかからず、多大な恩恵となる22a。
こうした”恩恵”は景気がよいあいだは資本家は当たり前のことと思っているが、ひとたびその労働過程が中断せざるを得ない事態が起きたとき、その”恩恵”は身をもって感ぜざるを得ないのである。たとえば恐慌で生産がストップするなら、生産手段には自然の物質代謝(さび付き棄損していく)が容赦なく襲いかかり、その使用価値とともに価値をも破壊し資本家に多大な損害を与える。その時、資本家は労働者の労働のありがた味を、それによってこそ彼自身も生かされて来たことを思い知ることになる23。
注22a バークは人間を農業で用いられる器具の一つと考え、それがあらゆる器具のなかで資本の償却のために最も頼りになるものだとしている。というのはそれ以外の器具、役畜や犂や鋤は人間労働がなければなんにもならないからだとしている。つまり労働があるからこそ生産物にそれらの器具の価値を移転し、その価値の回収が可能になるのである。
バーク Edmund Burke(1729-1797) イギリスの自由主義的政論家・著述家。
マルクスは、これらバークの政治的活動を評して、「かつてアメリカの動乱の初期には、北アメリカ植民地に雇われてイギリス寡頭政府にたいし自由主義者たる役割を演じたのとまったく同様に、イギリスの寡頭政府に雇われてはフランス革命にたいしロマン主義者たる役割を演じたこの追従屋は徹頭徹尾、俗物ブルジョアであった」(KⅠ,800)と非難した。そしてこの追従者たる無節操さから、バークは、’商業の法則は、自然の法則であり、したがって神の法則である’とのべ、自分自身その法則にしたがい最良の市場でみずからを売ることとなったのであり、そこになんの不思議もないと極言している〔同上〕。;『資本論辞典』530頁
注23 1862年11月26日の『タイムズ』紙上で、インド綿とアメリカ綿を消費している紡績工場主が、自分の工場の毎年の休業費(操業中断費、つまり空費)を嘆き訴えているという。フランス語版では〈一紡績工場主は、自分の工場での労働が断続的に中断するために失費する毎年の出費のことについて、泣き言を言っては公衆を悩ませている〉。つまり工場が動いているあいだは気にもしていないのだが、いざ工場がストップしたときには大変な損失が発生していると嘆いている。
彼はそれを6000ポンドと見積もっている。この失費のうちには、ここでは労働者に関係のない多くの費目がある。すなわち、地代、租税、保険料、1年契約の労働者や支配人や簿記係や技師の給料などで、それが4650ポンド。次に彼は、ときどき工場を暖めたり蒸気機関を時おり運転したりするための石炭や、そのほかにも臨時の労働によって機械を「動きやすく」しておく労働者の賃金を150ポンド。最後に、機械の損傷による1200ボンドがある。なぜならば、「天候と腐朽の自然法則とは、蒸気機関が回転をやめたからとて、その作用を中止しはしない」からだ。彼は、この1200ポンドという金額は、機械がすでにひどい損耗状態にあるので、こんなに小さく見積もられた、と明言している。
※ 現世に存在する一切のものは死滅する。生産手段もまた、たとえ使用されないままであっても、いずれは死滅する。また多くの生産手段、たとえば多種多様な機械は動かさなければ、かえって早く駄目になる。こうした生産手段の使用価値の消滅とともに、生産手段の商品価値もまた消滅することになる。換言すれば、生産過程での消費が通常になされる場合には、費消された生産手段の価値は生産物の価値の中に移転するけれども、生産手段が生産過程で使用されないまま使い物にならなくなった場合には、その価値は永久に失われてしまうということなのである。資本家は、通例労働のこのような側面を無視しているけれども、たとえば、恐慌の結果生産過程の中断を余儀なくされた場合などには、彼はそのことを強く意識するようになる。;カウツキー『マルクスの経済学説』77頁
※ 労働者がこの機能を果たすかぎりにおいて、彼らはそのことに対するある種の報酬を断固要求するべきだろう。何しろ資本家が、労働者を雇用したことを、理由に剰余価値に対する権利を要求できるのだから、どうして労働者は、資本家によって充用された不変資本のいっさいが労働者の努力なしには無価値になることを理由にして剰余価値を入手するに値すると論じることができないのか?;ハーヴェイ『〈資本論〉入門』199頁
18.新しい生産物を生産する過程で消費されるのは生産手段の使用価値であって、価値ではない。労働過程では、生産手段の使用価値が消費されて新しい使用価値(生産物)が作られる。だから生産手段の価値そのものは消費されるわけではない24のだから、当然、それが再生産されることもできない。
生産手段の価値は保存されるのだが、しかし、労働過程で価値そのものに何らかの操作が加えられて保存されるのでない。最初、価値が内部に存在していた使用価値は消失するが、しかしただ別の使用価値と姿を変えるために消失するのだから、その価値が保存され新しい生産物に引き継がれる。
そもそも生産手段の価値を新たな生産物に移転して保存するのは、労働過程における労働の有用な属性によるものである。しかし具体的な有用労働が生産手段の価値に何らかの操作を加え、それを新たな生産物の価値として移転し保存するわけではない。そもそも価値というのはその商品の生産に必要な社会的な労働が対象化されていることを示す“シンボル”みたいなものであり、だから生産手段が新たな生産物の生産のために消費されるから、その生産手段の生産に必要だった労働時間(価値)は、新たな生産物の生産に必要な労働時間(価値)の一部になるというだけのことであり、そこには、つまり価値そのものに対しては、有用労働による何らかの作用などは生じていない。有用労働は、あくまでも生産手段の使用価値に作用するだけである。だから生産手段の価値が、生産物の価値として移転され保存されるのは、支出された労働時間はその過程で次の生産物の必要労働時間の一部として積み重なっていくという一つの自然法則の商品形態における現われでしかない。ただ生産手段の使用価値を消費して新たな生産物を生産するのは具体的な有用労働だから、具体的な有用労働が生産手段の価値を移転し保存するとマルクスは言うのである。
だから生産手段の価値は、新たな生産物の価値として移転され保存されることによって「再現」されるとは言えるが、「再生産」されるとは言えない。つまり失われた価値が、何らかの操作によって「再生産」されたとは言えないのである。生産手段を消費して生産されるのは、新たな生産物の価値ではなく新たな使用価値である25。
注24 「生産的消費、そこでは商品の消費は生産過程の一部分である。……これらの場合には価値の消費はない。」(S・P・ニューマン『経済学綱要』、296ページ。)ニューマンも生産的消費では、価値の消費はないということを指摘している。
ニューマン Samuel Phillips Newman(1797-1842)アメリカの牧師・著述家・教師。
……主著として……《Elements of Political Economy》(1835)などがある。後者は、その大部分がアダム・スミスの経済学に依存しており、独創性に乏しいが、きわめて明快な文章でその当時生起しつつあった問題にかんし原理的説明をあたえたものである。ニューマンは、この書のなかで一方では、一般に生産過程で生産手段の消費がおこなわれるばあい、消費されるのはそれらの使用価値であって価値ではないというような正しい観察をものべているが(KⅠ-216)、他方では、「商業は生産物に価値を附加する、なぜかというに、同一生産物が生産者の手中にあるより消費者の手中において、より多くの価値をもっているからだ。したがって“商業は、言葉どおりに生産行為と考えられなければならぬ”」(KⅠ,167)といって、セーとともに、俗流的見解に陥っている。;『資本論辞典』527頁
注25 ウェーランドは、「どんな形で資本が再現するかは、問題ではない」という。つまり、あらゆる生産成分が資本として再現すると言うのである。そして最後に、生活手段の価値は、人間の身心に与えられる力のうちに再現し、その力は生産に用いられて新たな資本の形成に役立つと述べている。
「生活手段の価値」は、「力のうちに再現される」のではなく、“労働力の価値として再現される”のであり、それが労働力として支出されることで「資本を形成する」のでもない。
マルクスは、ウェーランドの主張の他の奇妙な部分は置いておくとしても、労働力そのものはパンの価格によって形成されるのではなく、パンの使用価値によって形成されるのであり、労働力の価値として再現するものは、パンの使用価値ではなく価値であるとその正しい関係を対置している。生活手段の価値が、半分になっても、その使用価値が変わらなければ、同じだけの筋肉や骨などとなり、労働力を形成する役立ちも変わらない。しかしそれは同じ価値の労働力を生産するということではない。つまり、生活手段の価値が半分になれば、それが再現する「労働力の価値」も半分になる。
このように「価値」を「力」と言い換えるようなあいまいさは、往々にして前貸しされた価値の単なる再現から剰余価値をひねりだそうとする魂胆を秘めている(搾取を隠ぺいしようとしている)のである。
※ パリサイ人的あいまいさとは、「形式主義的で、衒学的、独善的人間の、物の本質にまで迫ろうとしないあいまいな態度」を意味する。;『資本論辞典』673頁
19.労働はその合目的的な形態によって生産手段の価値を生産物に移して保存する。他方で、労働過程の主体的要因である活動しつつある労働力は、その運動の各瞬間において追加価値を、新価値を、形成する。労働の具体的契機で生産手段の価値を移転しているあいだに、その抽象的契機によってそれは生産物に新たな価値を付加(形成)する。
例えば、労働者が自分の労働力の価値と等しいだけの価値を付加した時点で、労働を止めたとする。それは確かに自分の労働力の価値を生産物に再現したかに見える。その場合でも、労働が付け加えた価値とは、生産手段の価値が移転した分を超えた部分であり、それが新たに形成された価値、この生産過程で唯一生産された価値なのである。もちろん、量的には、それは資本家が最初に前貸しして労働力の購入に投じた分と同じであり、だからそれを補塡するものであるが、しかしそれは新たに生産された価値として補塡されているものである。
支出された3シリング(労賃)との関係からみれば、3シリングという新価値はただ再生産として現われるだけである。しかし、それは現実に再生産されたのであって、生産手段の価値のようにただ外観上再生産されているだけではない。労働力の価値を、活動しつつある労働によって形成された価値によって補塡するということは、新たな価値を形成することによって行われるのである。
※ 労働者は彼ら自身を雇うのに必要なコストを補填するのに十分な価値を生産しなければならない。これは、貨幣形態をとるならば、一定の場所と時間における一定の生活水準での労働力を再生産するのを可能とする。労働者は自分たちの貨幣を、生きていくのに必要とし欲し望む諸商品に費やす。このようにして、可変資本は文字通り労働者の身体を通じてW-G-Wの流通過程を流通し、個人的消費と社会的再生産を通じて生きた労働者を再生産する。;ハーヴェイ『〈資本論〉入門』199-200頁
20.労働過程は、労働力の価値と等しい価値が再生産によって労働対象につけ加えられる点を越えて、なお続行される。6時間を越えて、たとえば12時間続く。だから、労働力の活動によって、単に労働力の価値の再生産だけではなく、それに加えて剰余価値が生産される。補塡する部分もそれを越える部分も、それらはすべて労働が新たに形成する価値である。
この剰余価値は、新生産物価値のうちの、生産物形成するために消費された部分(前貸資本)つまり生産手段と労働力との価値、つまり資本家が最初に投じた価値額を越える超過価値である。
21.ここまで、生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本の価値増殖過程で資本自身のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけてきた。
● 第6章の冒頭で「労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加する」と述べて、労働過程の諸要因として生産手段と労働力という二つの契機に分けた。まず生産手段の価値が如何にして生産物価値の形成に参加するかを検討し、その次に労働力が生産物価値として如何にして新たな価値を付加するかを見てきた。これは、資本が自分の価値増殖過程で自身のさまざまな要因が果たす機能を見てきたということである。
第5章では絶対的剰余価値の生産過程を使用価値の生産と価値の生産に分けて分析的に見てきたが、ここでは視点を転換し、それらを資本自身が運動する場合のいろいろな機能として特徴づけた。そうした視点の転換があって、はじめて生産手段に投下された資本の価値を不変資本、労働力に投下された資本の価値を可変資本という資本の機能規定として特徴づけることができる。
そもそも価値というのは単に質的に同じでただ量的に異なるものである。しかし我々は同じ価値でも元の価値(あるいは等価)と剰余価値という区別を行った。これらは価値自身が量的に区別されることから、それ自身が変化し増殖するものとして捉えられたときに、価値は常に自己自身を比較の対象にして自身を区別する存在として捉えられるからである。だからここでは元の価値とその増殖分としての剰余価値との区別が生じている。もちろん元の価値も剰余価値も同じ価値であり質的に同一である。
そしてこの常に増殖する過程として存在する価値こそが資本という新たな形態規定性をもった価値である。資本もそれ自体としては単なる価値だが、しかし資本が自己を増殖する過程のなかでその機能規定として受け取るのが、すなわち資本が自己増殖するために生産手段に投下した部分と労働力に投下した部分というその資本の機能上の区別として捉えられたものが、すなわち不変資本と可変資本という新たな規定性なのである。
生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額を越える超過分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分である。
一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかない。つまり資本の相異なる機能を果たす別々の資本の存在形態なのである。
22.生産手段、すなわち原料や補助材料や労働手段などに転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えない。つまり、生産物にその価値を移転し再現するだけである。そこで、これを不変資本部分と呼び、もっと簡潔に不変資本(konstantes kapital)と呼ぶ。
23.これに対し、労働力に転化された資本部分は生産過程でその価値が変化する。それ自身の等価と、これを超えた剰余価値とを再生産する。この剰余価値部分はそれ自身が変動しうるものである。
労働力商品に転化する資本部分(労働者を雇用するために投下される価値―賃金)は一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化する。したがって、この部分を可変資本部分―可変資本(variables kapital)と呼ぶことにする。
労働過程、すなわち使用価値の生産という観点からは、客体的要因(生産手段)と主体的要因(労働力)として区別される資本の諸要素が、価値増殖過程という観点から資本を見たばあい、不変資本と可変資本として区別―機能規定される。
※ この可変資本こそが実際に資本を増殖させるのであり、不変資本はただそのための条件にすぎない。したがって、「無限に自己増殖する価値の運動体」としての資本の規定は実は可変資本の規定なのであり、可変資本は、資本そのものであると同時に、不変資本との対比において特殊な資本部分となるのである。;森田成也『新編 マルクス経済学再入門』上巻148頁
※ 労働過程における能動的要素は可変資本である。これこそ、生産に充用される生きた労働の「造形的な火」である。またしても、この議論には政治的論点が存在する。「親愛なる労働者諸君、見たまえ」とマルクスは言う。「諸君こそ、ここでは実際にすべての仕事をする者である。諸君は過去からの価値を保存し、自らの労働を通じて自分自身を再生産するだけでなく、資本家が領有する剰余価値をも生産する者である。資本家はこの剰余価値によって生きることができ、さらにはたいてい贅沢をもする。明らかに、資本家の利害は、諸君が自分たちのこの中心的役割と大規模な力を認識しないようにすることである。彼らが望むのは、諸君がただ単に働きに出て仕事をしてそこそこの賃金を得ているだけだという自己イメージを持つことであり、諸君が家に帰って自分自身と家族とを再生産し、そして願わくば翌日も仕事場に戻って来ることである。諸君はW-G-Wの流通過程の中にいる。彼らは、諸君が自らの野心をこうした生活状況に制限するべきだと考えている」。マルクスが望んでいるのは、労働者階級に対して剰余価値生産と資本蓄積に対するその真の位置を教えることによって、こうした巧妙な物神化に対抗することである。;ハーヴェイ『〈資本論〉入門』200-201頁
● 「不変資本/可変資本」といったマルクスの概念規定は、「固定資本/流動資本」(『資本論』第二部第10-11章でA・スミスとリカードの「固定/流動」資本カテゴリーが批判されている。)といったブルジョア的経済カテゴリーとは別物であり、前者は社会的関係の歴史的運動の一部として把握されている点に本質がある。
「固定/流動」は物理的な性質(時間的な耐久性)に基づいた分類(ブルジョア経済学の水準)であり、一方で、「不変/可変」は価値を生み出すか否かという社会的・歴史的機能の差異に基づいている。そしてこの差異は、「賃労働と資本」という資本主義的生産様式の全体構造(総体性)と結びついている。
資本の循環が周期的に反復され更新される過程としてとらえられるとき、その運動を資本の回転という。この回転から資本の形態区分をみると、労働手段のように生産過程に全部的に投下されているが、数回転以上にわたって回転ごとに部分的に価値を新生産物に移転する固定資本と、原材料や労働力のように1回転で必要なだけ投下され、その全部が1回転で価値移転や価値対象化する流動資本との区分が生ずる。これは価値増殖による資本区分である不変資本・可変資本とは異なり、搾取関係を隠蔽するものとなっている。
24.不変資本と言っても、その諸成分の価値の変動を排除するものではない。
不変資本という概念は、その成分である労働対象に価値革命が起こるばあいにもなりたつ。生産手段の一方の要因である労働対象、たとえば棉花の価値が凶作のために2倍に騰貴したばあい、労働力は従来より2倍の旧価値を同一労働時間に生産物=糸に移転する。それだけでなく、価値革命はすでに生産された糸の価値にも及び、糸の価値は棉花の価値騰貴分だけ増加する。
「一商品の価値は、その商品に含まれている労働の量によって規定されてはいるが、しかしこの量そのものは社会的に規定されている」。つまり商品価値は、現在の社会的に必要な労働時間で計られるからである。社会的必要労働時間の変化は、それ以前に作られた商品にも遡及して作用(Rückwirkung)する26。
注26 「この商品はいつでもただその商品種類の個別的な見本としか認められず」への注で、ル・トローヌは「同じ種類の生産物は一つのかたまりとして存在していて、そのかたまりの価格が個々別々の事情にかかわりなく決まってくる」ということを述べている。
※ 価値革命(Wertrevolution)……凶作・豊作、技術革新などによる商品価値の変動(生産力の変動による当該商品の生産に必要な労働時間が変動するため)を反映して既存の商品価値が急激に大きく変動すること。
※ 商品の価値の大いさは、労働生産力の変化に逆比例して変動する。なぜなら、商品の価値はその再生産に必要な社会的な労働時間によって、その大小が規定されるのであるから、生産力が上がってその社会的必要労働時間が減少すれば当然に価値は減少し、逆に生産力が低下すれば価値は増大する。
生産手段の価値変動は、生産手段が生産手段として用いられている生産過程の外部で発生する。このような生産過程の外部で生じる価値変動に規定されるかぎりで、生産手段の価値は、より多くあるいはより少なく、生産物に移転される。
※ 歴史的な認識というものは、このような蔽いを引き裂くことによってのみ、可能となる。なぜならば、こうした物神的な対象性形態の反省諸規定は、まさしく、資本主義社会の諸現象を超歴史的な実在として現象させる、という機能をもつものだからである。このように、ある一つの現象の真実の対象性を認識すること、その歴史的な性格を認識すること、およびその社会的全体のなかでの真実の機能を認識することは、それぞれ分離しえない、一つの認識行為なのである。このような統一性は、前述のような、一見科学的にみえる考察方法によって、引き離されるであろう。だからこそ、たとえば、不変資本と可変資本といった――経済学にとって基本的な――区別を認識することは、弁証法的方法によってはじめて可能となったのであり、古典経済学は固定資本と流動資本とを区別すること以上に出ることはできなかったのである。しかも、これはけっして偶然のことではないのであって、この点についてマルクスは、次のように説明している。「可変資本は、ただ、労働者がかれの自己維持と再生産のために必要とし、社会的生産のどのような体制においても、つねに自分で生産し再生産しなければならない、生活手段原本(*原本=財源、以下同じ)または労働原本の、一つの特殊な歴史的現象形態であるにすぎない。労働原本がかれの労働の支払手段という形態で絶えずかれのもとに流れこむのは、ただ、かれ自身の生産物が資本という形態で絶えずかれのもとから遠ざかるからでしかない。……生産物の商品形態と商品の貨幣形態とが、この取引を蔽いかくすのである。」(『資本論』第1巻第21章「単純再生産」)
資本主義社会のあらゆる現象を取りまく物神的な仮象は、このように、現実を蔽いかくすという機能をはたすのであるが、このことは、たんにその歴史的な、すなわち過渡的、暫定的な性格を蔽いかくすというだけのことにとどまるものではない。;ルカーチ『正統的マルクス主義とはなにか』白水社p45-46
● ルカーチは「総体性」とは、世界を断片ではなく「歴史的全体」として捉える視点であり、この総体性を把握するのは、プロレタリア階級の実践的認識=階級意識の形成であり、そして、「この全体性を捉えることこそが、マルクス主義的思考であり、読むことの核心である」と述べる。
「対象の総体性のうちに個別の現象を捉えるということは、思考の“観照”ではなく、現実の変革に向けて行為するための実践的立脚点をつくることである。」
言いかえると、「読む」という行為は、断片的現象(賃労働・国家・商品)を総体的運動として再統一する実践的思考の運動である、ということになる。ルカーチにとって「正統マルクス主義(orthodoxer Marxismus)」とは、結論を受け入れることではなく、この方法=総体性への接近を原理的にとらえることを主張している。
前置きが長くなったが、「価値革命」のような現象を、「なぜ別の場所・時間での変化が、ここにある商品の価値に影響を与えるのか?」という問いとして捉えること――これは、部分を孤立して考えるのではなく、全体の運動として理解するための視点である。これが、ルカーチが「総体性」と呼んだ認識の根幹だろう(たぶん)。
ルカーチはなぜ「総体性」ということにこだわったのか、その背景には、第一次世界大戦と社会民主主義の堕落(SPD、ドイツ社会民主党の戦争協力)があった。革命ではなく議会主義に傾倒し、「革命的主体としての労働者階級」ではなく「福祉国家の中の部分」として労働者が扱われるようになった。これはSPDが議会での一大勢力となったことが大きく影響したのであろうが、このような状況の中で、ルカーチは「マルクス主義とは何か」「それは世界をどう見る方法か」という問いに立ち戻っていった。
ブルジョア的学問は知性を断片化し、自然科学のように、社会を機械的な因果の集合として捉え、経済・法律・道徳などをバラバラに説明する立場が支配的となっていたが、ルカーチは「断片ではなく、歴史的全体として社会を捉える視点」こそがマルクスの核心と理解し、それを「総体性」と名づけた。
例えば、商品価値の決定は「個別的事情」によらない(例:古い生産方法で作られた商品の価値が、新しい方法で作られた同種商品によって規定される……価値革命!)→
これは、価値が「個別商品の内的属性」ではなく、「社会的・歴史的な総体の中の位置」によって規定されることを示している。このような価値の運動は、個々の主体が意図しないところで作用する。
<全体の構造=価値法則という見えない体系が個別に影響する→つまり「社会的総体性」が現象に内在している>
ここから、「個人や行為の意図とは無関係に、社会の全体構造が作用している」というルカーチの視点が生まれてくる。
「なぜ、ある個人の活動とは無関係に、他の活動がその成果を変えてしまうのか?」 「なぜ、現に存在する商品の価値が『今』ではなく『社会的な平均的労働時間』によって決まるのか?」
→ そこには、個別ではなく「社会の全体的運動」が本質的に存在し、この運動が、個々の商品の「内在的価値」を決めてしまうという「構造」がある。
総体性とは「構造が行為を先取する」ということであり、この構造こそが、ルカーチの言う「総体性の先在性」であり、彼が『資本論』の方法から汲み取った歴史的・社会的媒介の現実的力といえるだろう。
* “観照”という言葉のそもそもの出どころは古代ギリシャ哲学であって、ギリシャ語で「テオリア」といい、「見る、観察する」という意味のほかに「考察する、研究する、理論付ける」といった意味を持っている。古代ギリシャの人的世界においては、人間が日々従事しているあらゆる活動のなかで観照という行為が最も高尚であり、価値があるとされていたようである。
価値革命が起きた場合、それが労働過程の工程の通過が少ないほど、当該商品の価値変化は明瞭に現れる。
※ 綿花の価値変動はすぐに価格に反映される。しかし、すでに糸になったものを原料である綿花の価値が上がったからといって、そのまま糸の価格の引き上げとして反映できるかどうかはさまざまな市場の条件なども加わって不確実さが増す。
したがって価格の変動を見越して投機を行おうとする者は、できるだけ原材料に近いもの、織物よりも糸に、糸よりも綿花そのものに賭けるのが「投機の法則」なのである。
※ この段落でマルクスが論じているのは、①不変資本(constant
capital)―つまり、生産過程に投入されるが、その価値が製品にそのまま移転する資本(例:原材料や機械)―の価値は、生産体制の変化によって変動する可能性がある。②たとえば不作により綿花の価値が上昇すると、すでに保有している綿花の価値においても「再評価」が起こり、それに伴って生産物に反映される価値も高くなる。③しかし、その価値の変動は、労働過程での価値形成とは関係がない。これを価値革命という。
「価値」とは何か? その商品に含まれる抽象的人間労働による労働時間である。だからこそ旧生産体制によって作られた商品であろうと、今現在その商品を作るための労働時間で価値を表わすことになる。すなわち、価値の本質(労働時間)が社会的に再規定される運動が価値革命なのである。(なにか、新しい商品につられて、とか、相場とかによって変化するように感じるかもしれないが、そうではない。あくまでもその商品そのものの中でそれ自身の価値が再規定されるということなのである。)
※ 「このような価値革命にさいしては、最も少なく加工された形態にある原料に賭けるのが、つまり、織物よりはむしろ糸に、糸よりはむしろ綿花そのものに賭けるのが、投機の法則なのである。」
つまりこれは、価値変化の影響による価格の変動(とくに上昇)によって利ざやを得ようとする人々が、①より「加工が進んでいない」段階の材料を買い込む(投機の対象とする)傾向がある、②なぜなら、原材料のままであればあるほど、その価格変動の影響を「そのまま」受けやすいからだ、という経験則(あるいは市場行動の法則)である。
なぜ原料に賭けるのか? ①綿花が高騰すると、綿花を使って作られた糸も価値が上がる。②さらには糸で作られた製品、織物の価値も上昇する可能性がでてくる。③しかし、価格の変動が「最もストレートに反映される」のは、原料(この場合は綿花)そのもの。糸や織物の価値変化(価格変動)は時間的に遅れて起き、しかもその影響度、変動幅は縮小されることが多い。④だから、価格が変動しそうな時期には、「より前段階の形態にある商品」を持っている方が、価格上昇のメリットを最大限に享受できる。これが「投機の法則」と呼ばれる所以である。
● ところで、なぜここでいきなり「投機の法則」などというものをマルクスは持ち出したのだろうか[AN3] ? 唐突に感じる人も多いのではないだろうか?
価値革命とは、社会的に生産に必要な労働時間が変化し、商品の価値そのものが変わることを意味する。そしてそれは、価値革命が「古い綿花」「すでに糸になったもの」「市場にある織物」にも波及する。これに続いて、マルクスは「投機の法則」を持ち出す。それは、「価値革命が市場での価格変動を引き起こし、それを見越して利益を狙う人々(投機家)が現れる」ということである。そして「加工度が少ない原料ほど、価格変動の影響をダイレクトに受ける」という経験則を示す。
マルクスの意図は明確である。価値革命の「社会的影響」を強調するためである。価値革命は、単なる「理論的抽象」や「生産過程内の現象」ではなく、実社会全体に波及する現実の現象である。価値が変動すれば、それは市場価格に反映され、価格変動が起きる。その価格変動は、単に価格表に記載されるだけでなく、投機家たちの「儲けのチャンス」として現れる。(もちろん、これとは別に、需給関係などによる「価格変動」が起きることもありえる。)
資本主義では、価値の変動がただの理論や帳簿上の数字ではなく、実際の取引・利益獲得のゲームとして展開される。つまり、価値革命は、現実社会において「価格」「市場」「利益」「投機」という形で表面化するし、資本主義経済においてはそれが「投機」という形でダイナミックに動き出すのである。
マルクスは『資本論』を「単なる生産理論」ではなく、資本主義というシステム全体の理論として書いている。だからこそ、生産過程での価値移転や価値革命の話は、自然に、そして当然に市場での「投機」にまで議論がつながり、広がる。
すなわち、価値論は「単なる生産理論」に留まらず、「現実の資本主義の動き」と直結していることを示そうとしているのである。『資本論』とは単なる抽象的な理論書、学術書ではなく「資本主義そのもののダイナミズムを解明する書物」でるということを確認しておきたい。そしてこれは先に述べたルカーチの言う「『読む』という行為は、断片的現象(賃労働・国家・商品)を総体的運動として再統一する実践的思考の運動である」ということにつながるのであろう。
25.同じ不変資本である労働手段にも、その価値が変化することがある。だからその価値の変化とともにそれが生産物に引き渡す価値部分も変化することになる。しかしこの場合もやはり不変資本という概念から外れることはない。
新しい発明によって同じ種類の機械がより少ない労働時間で再生産(reproduziert:再現、複製)されることになれば、当然その価値は減少する。同時に、すでに生産過程にある古い機械の価値も同じように減価し、それが生産物に引き渡す価値もそれに比例して減少する。
この場合にも価値変動は、その機械が生産手段として機能する生産過程の外で生じている。この過程のなかでは、その機械は、それがこの過程にかかわりなくもっている以上の価値を引き渡すことはない。生産過程のなかで生産手段として、すなわち価値増殖過程で資本として機能することにおいては、その価値をけっして変えない。こうした意味において、この資本部分は不変なのである。
26.生産手段(原料や労働手段)の価値の変動が、すでに生産過程にある古い生産手段の価値に反作用してその価値の変動をもたらしても、その不変資本としての性格を変えるものではない。
不変資本の価値が変化すれば、当然、不変資本と可変資本との割合は変化する。しかし同様に、不変資本と可変資本との割合の変化も、それらの機能上の区別そのものには何も影響しない。
たとえば、労働過程の技術的な諸条件が変化して、以前は10人の労働者が、わずかな価値の10個の道具で比較的少量の原料を加工していたのに、今では1人の労働者が1台の高価な機械を使って以前の百倍の原料を加工したとする。この場合には、不変資本は安物の道具から、高価な1台の機械に置き換わったのだから、その資本部分つまり不変資本は飛躍的に増大する。しかし、可変資本、すなわち労働力に投じられる資本部分は、10人から1人になるため、1/10に減少することになる。この変動は、総資本の投下する不変資本と可変資本との量的割合を変化させる。しかし、それは一方が不変資本で他方が可変資本だという資本の機能上の区別そのものには何の影響もしない。(もちろん生産される商品の価値量は労働者が減ったことや、機械の減損分の変化に応じて変化する。)
[AN1]ここに出てくる〈『経済学における或る種の用語論争の考察、特に価値および需要供給に関して』、ロンドン、1821年〉という著書も匿名のもののようです。『資本論草稿集』⑦にこの著書を「種々の論争書」の一つとして最初に取り上げています。その前書きを紹介しておきましょう。
〈1820年から1830年までの時期は、イギリスの国民経済学の歴史において形而上学的に最も重要な時期である。リカードウの理論にたいする賛否の理論上の試合が行なわれた。一連の匿名の論争書[が出版されたが〕、ここで.言及するのは、そのうちの最も重要なもので、特にただ、われわれの論題に属する点に触れているものだけである。だが同時に、これらの論争書を特徴づけているのは、それらのすべてが実際には単に価値概念の規定とそれの資本との関係を中心問題にしているだけだ、ということである。〉
(159頁)
そして原注で引用している匿名の著書についてマルクスは〈この著書には、いくらか鋭さがないこともない。『用語論争』という表題は特徴的である。〉(160頁)と述べ、さまざまな引用と批判を行っていますが、今回の原注と関連するものをここでは紹介しておきましょう。
〈たとえばリカードウが言っているのは、たとえば一足の靴下のなかに含まれている「機械製造のさいの機械工の労働の一部分」についてである。「だが、われわれが論じているのが一足一足の靴下であるとしても、一足一足の靴下を生産した『労働全体』は、その機械工の労働全体を含んでいるのであって、その一『部分』を含んでいるわけではない。というのは、一台の機械は多数のなん足もの靴下を製造するのであって、それらの靴下のどの一足も機械の全部分なしには製造されえなかったであろうからである。」(同前、54ページ。)〉 (163頁)
これに対してはマルクスはそれに続けて〈あとのほうの文句は誤解によるものである。労働過程にはいるのは機械全体であるが、価値増殖過程にはいるのはただその一部分だけである。〉(同頁)と書いているだけです。ここで〈あとのほうの文句〉というのは今紹介した部分を指しており、紹介したものはその前からの引用に続くものなのです。;大阪『資本論』学習資料No.31(通算第81回)2022/11/19
[AN2] 〈彼(マカロックのこと――引用者)は、ミルの「逃げ口上」によって厚かましくなり、セーに反駁しながら、同時にセーを盗用している。しかも彼が盗用しているセーの文句は、まさに、リカードウが第20章「価値と富」のなかで自分やスミスの〔見解〕と根本的に対立するものとして攻撃しているものなのである。(ロッシャーが、マックは極端化されたリカードウである、と繰り返し言っているのは当然のことである。)ただ、セーが火や機械などの「作用」を労働と呼んでいないのに比べて、彼のほうが、よりばかげているだけのことである。しかも、前後撞着はよりひどい。というのは、セーは、風や火などが「価値」をつくりだしうるとするのだからである。〔ところが〕マックのほうは、ただ独占されうる使用価値である物だけが「価値」をつくりだしうるであろうとするのであって、これは、風や蒸気や水が、風車や蒸気機関車や水車を所有せずに動力として充用されうるかのようである! これでは、それを所有することによってのみ自然の諸力を利用しうることになる諸物を所有し独占している人たちが、これらの自然諸力をも独占することはないかのようである! 空気や水などであれば、自分の欲するだけ手に入れることができる。だが、それらを生産的な諸力として手に入れるのは、ただ、それの使用によってそれらがこのような諸力として作用するところの、諸商品、すなわち、こういう諸物を、私がもっている場合だけである! だから、マックはセーよりもなお劣っている。〉 『資本論草稿集』⑦272頁;大阪『資本論』学習資料No.31(通算第81回)2022/11/19
[AN3] 『資本論』は「現実の運動」を描く。
マルクスは、単に「価値とはこういうものだ」「価値革命はこういうメカニズムで起きる」と説明して終わりません。むしろ彼は常に問い続けます。
この理論が、現実世界ではどう作用しているのか? 理論が実際の社会にどう現れるのか? それはどんな結果を引き起こし、人々にどう影響を与えるのか?
そしてこの姿勢こそが、『資本論』を単なる抽象的な理論書から、「資本主義そのもののダイナミズムを解明する書物」へと押し上げています。
ここでのマルクスの議論、価値革命から「投機の法則」への流れはその典型である。
1️⃣ 理論の核心:価値革命
価値は「社会的に必要な労働時間」によって決まる。生産方法が変われば、価値も変わる。その結果、古い商品も新しい価値水準に再評価される。
2️⃣ 現実での展開:投機の法則
価値の変動は価格変動として市場に現れる。その価格変動を見越して、投機家たちが動き出す。資本主義社会では、価値の本質は「投機のチャンス」として具体化する。
マルクスは、抽象的な価値の概念を、「価格」「市場」「投機」という具体的な運動に結びつけています。
✅ マルクスは一貫して、「価値の理論」を現実の資本主義の運動に接続していく。
第6章PDFファイル ↓
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