2025-09-26

第7章 剰余価値率        
第1節 労働力の搾取度

6章の表題である不変資本と可変資本との区別と範疇として確立は、『資本論』全3巻の基礎になっていることを以前は確認しましたが、そこで明らかになった可変資本こそが剰余価値の唯一の源泉であることも明らかにされました。そして可変資本に対する剰余価値の比率こそ今回取り扱う剰余価値率なのです。だから前章で可変資本の概念が明らかになって初めて剰余価値率の概念も明らかになるという関係にあるわけです。
  そして剰余価値率というのは、後の第3巻で出てくる利潤率の基礎にあるものです。第3巻の表題はエンゲルス版では「資本主義的生産の総過程」となっていますが、マルクスの草稿では「
総過程の諸形象化」となっています。「諸形象化」というのは、資本主義的生産の内在的な諸法則が、諸資本の競争によって転倒させられてブルジョア社会の表面に表れているもののことです。『資本論』の第1巻や第2巻で取り扱われているのは、資本主義的生産様式の内在的な諸法則をそれ自体として解明して叙述することです。だからそこでは平均的な均衡した形で諸法則が純粋なかたちで叙述されます。しかし第3巻ではそうした内在的な諸法則が諸資本の競争によって転倒させられて資本主義的生産の表面に表れている諸形象を取り扱うわけです。
  こうした第1巻と第2巻までのものと、第3巻との関係について、マルクスは価値の規定について混乱したスミスの主張を批判するなかで次のように明らかにしています。

A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。これに反して、リカードウは、法則をそのものとして把握するために、意識的に競争の形態を、競争の外観を、捨象している。;『資本論』草稿集⑥145頁、下線はマルクス

つまりここでマルクスが〈はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し〉と述べているのは、『資本論』の第1巻や第2巻で明らかにされているものに対応しているのです。そして「それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している」というのは、第3巻で問題にされていることなのです。スミスはそうしたことに無自覚に、両者をただ並列させているだけであったり、混同してあっちこっちへと動揺するだけなのですが、問題はその内的関連から、その転倒した形態を説明して展開することなのです。そしてそれこそが『資本論』第3巻でマルクスが課題としていることなのです。「諸形象化」というのはそういう意味を持っています。エンゲルスの表題の変更は、こうした第3巻の独自の意義に対する無理解から来ていると言えます。
  そして資本家たちが目にしている利潤や利潤率もそうしたものの一つなのですが、それを内在的に規定している法則こそ剰余価値であり剰余価値率の法則というわけです。だからこの第7章で明らかにされているものは、それが転倒して形象化されて現れている利潤率の基礎にあるものといえるでしょう。;
大阪『資本論』学習資料No.32(通算第82回)2023.01.10

第1節 労働力の搾取度

1.前貸しされた資本をCとすると、Cが生産過程で生みだした剰余価値、すなわち前貸資本価値Cの増殖分は、さしあたって生産物の価値がその生産要素の価値総額を越える超過分として現われる。

2資本Cは二つの部分に分かれる。生産手段に支出される貨幣額cと、労働力に支出される別の貨幣額vである。

資本C(前貸資本)  =c[不変資本価値]v[可変資本価値]

商品価値(生産物価値)={c+v}+m[剰余価値] 

3.このままでは何がどのように変化したのか、どこからmが生まれたのかがわからないため、詳しく検討しよう。

生産物価値がその生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分」であり、「生産された剰余価値に等しい」という同義反復。

ここで生産物価値(C‘)と比較されているのは、その生産のために消費された生産諸要素の価値である。つまりC'-C=mである。

充用された不変資本のうち、機械や道具などの労働手段は、その価値の一部分を生産物に移転させるだけで、他の部分は価値形成過程には入っていかない。この部分は生産物の価値形成に関係しない。したがってここでは無視してよい。

  その際、不変資本の価値量は剰余価値の産出高にいかなる影響も与えない、この点にかんしては、すでに明らかになっている。もちろん、生産手段なしには剰余価値の生産は不可能である。そればかりか、剰余価値の生産が長期的になるにしたがって、ますます多くの生産手段が不可欠のものとなる。それゆえに、一定量の剰余価値の生産を条件づけるのは、労働過程の技術的性格に依存するところの、一定量の生産手段の充用である。それにもかかわらず、この生産手段の価値量の如何ということは、剰余価値の量に何の影響も与えないのである。;カウツキー『マルクスの経済学説』80

 「不変資本を無視する」ということは、すなわち、生産過程における価値創造と価値変化は前貸しされた不変資本価値の大きさに左右されないということである。

したがって、前貸しされた「不変資本」という場合には、生産中に消費された生産手段の価値(実際に生産過程で生産物にその価値を移転する部分)だけを意味するのである。

26a マルサスが述べているのは、充用した固定資本(機械や道具など)すべての価値を資本家が投じた前貸資本の一部分として計算するのであれば、年末にはこの固定資本の価値のうち残存している、つまり生産過程で価値を移転させた部分以外の価値部分をも、資本家の年収の一部分として計算すべきだということであり、マルクスとは反対の側からではあるが、同じことを語っている。

※ 「前後の関連から不変資本が磨耗部分だけではなくて、その全体が計算される場合」というのは固定資本の回転などを計算する時には常に生じてくるが、これは第2部で問題となる。

4.C=c+vという式にもどると、この式はC'=(cv)+mに転化し、そうなることによってCをC'に転化させる。

不変資本(c)の価値は生産物にはただ再現(移転)するだけである。価値を生み出すのは労働だけであるから、価値生産物はv+ mとなる。

c=410ポンド、 v=90ポンド、 m=90ポンドとすると、

=c+v+m4109090500ポンド

C‘=c+v+m=4109090590ポンド

従って、価値生産物=v+m9090180ポンド である。

※ 「生産物価値」というのは、生産物の価値のことでこれまでにも出てきている。しかし「価値生産物」というのは、新しく出てきた言葉で、新たに対象化された労働によって形成された価値(v+mのこと。不変資本の価値は、生産物にはただ移転・保存されるに過ぎないが、生産物の価値のうち可変資本の価値部分や剰余価値の部分は生産物に移転されたものではなく、新たに生産された価値である。この新たに生産された価値部分を「価値生産物」と述べている。

仮に前貸資本のうち不変資本に分解する部分がゼロの産業部門があるとする。前貸資本Cとしては可変資本vだけになる。つまり、前貸される不変資本価値cの410ポンドはなくなって、ゼロになるということである。しかしこの場合も、価値生産物としてはvm90ポンドの可変資本価値部分+90ポンドの剰余価値=180ポンドになり、同じ結果になる。つまり不変資本価値がどうであろうと価値生産物の値は同じである。そして価値増資した資本C'90ポンドv90ポンドm)-前貸資本C(90ポンドv)=90ポンドmというように、同じ結果が出てくる。

もしm0と仮定すると、つまり剰余価値が生産されないということは、労働者が自身の労働力の価値を再生産するところまでしか労働しないということであり、この場合は前貸資本Cは=c+vであるが、生産物価値もやはり(c+v)+0なのでC'=Cとなり、生産物の価値は前貸資本の価値と同じとなる。つまり価値増殖をしていないことになる。

5.剰余価値は、ただvすなわち労働力に転換される資本部分に起きる価値変化の結果でしかない。したがって、vmvΔvである。

しかしこうしたことは先の同義反復、「生産物価値がその生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分に等しい」とか、「生産された剰余価値に等しい」とか言うだけでは明らかにならない。つまり500がただ590になったというだけではこうした真の性格は隠されてしまう。

「だから、過程を純粋に分析するためには、生産物価値のうちで不変資本価値だけが再現されている部分を全く度外視することが、つまり不変資本cはゼロに等しいとすることが、したがってまた、可変量と不変量との演算において不変量が加法または減法によってのみ可変量と結びつけられるばあいの数学の一法則を適用することが、必要なのである(27)。」;『資本論』初版(江夏訳227-228頁)

初版原注27 「加法または減法の演算によって可変量に結びつけられている不変量は、微分すればゼロになる。」(J・ハインド『徴分学。ケンブリッジ、1831年』、126ページ)。じっさい、ある不変量の量的変化というものは実在しない。だから、微分学の法則、すなわち、ある不変量の微分はゼロに等しい、が成り立つことになる。;『資本論』初版(江夏訳228頁)

「ここに述べた見解は、厳密に数学的に見ても正しいものである。たとえば、微分計算で y=f(x)+C をとり、このC を定数としよう。xがx+Δxに変化しても、この変化はC の価値を変えない。定数は変化しないのだから、dCはゼロであろう。それゆえ、定数の微分はゼロなのである。」;『資本論』草稿集④268頁『61-63草稿』

マルクスは変数における変化を検討するとして微分法を持ち出す。微分法においては常数は変化しないから0である。だから、資本の変化を検討するということは、常数である不変資本は無視し、可変資本における変化として考えるべきだと言っている。

6.次の困難(価値変化が可変資本の変化から生じることを理解するための困難)は、可変資本そのものの元来の形態から生じる。可変資本というのは労働力の価値に等しい。ということは労働力の価値というのはある与えられた一定量であって、それが「可変」、すなわち変化するというのはそれ自体が不合理ではないだろうか。


〈ところが、90ポンド・スターリング(v)、すなわち90ポンド・スターリングの可変資本は、この価値がたどる歩みにとっては、一つの象徴でしかない。第一に、二つの不変な価値が相互に交換される。90ポンド・スターリングの資本が、同じように90ポンド・スターリングに値する労働力と交換される。ところが、生産の経過中に、前貸しされた90ポンド・スターリングが労働力の価値によってではなくその運動によって、死んだ労働が生きた労働によって、固定量が流動量によって、不変量が可変量によって、いましがた置き換えられたのだ。その結果は、vの再生産・プラスvの増量である。〉

 つまり資本家は、交換過程において「不変」量90ポンドという過去の労働で労働商品を時間ぎめで購入する。その労働力商品の担い手である労働者は生産過程で労働して新しい価値を「流動」させる。したがって、90ポンドという「不変」量を「可変資本」とよぶのは矛盾だが、この矛盾は、交換過程において不変量の価値で労働力を購入し、生産過程で価値創造をさせる、つまり不変量を可変量に転化するという資本主義的生産のひとつの現実的矛盾を表現したものである。;岡崎栄松他『解説資本論(1)116-117

※ 可変資本というのは労働力の価値とイコールだが、労働力の価値そのものではない。可変資本というのはあくまでも資本価値のうち労働力の購買に投じられた、あるいはそれに予定されている価値部分を表すに過ぎない。だから生産過程に労働力の価値が入っていくわけではない

これはある意味では不変資本についても同じことがいえる。不変資本とは生産諸手段の価値とイコールだが、生産手段の価値が生産過程に入っていくのではない。生産過程には生産手段が入っていき、その使用価値が生産過程で生産的に消費される。
 同じように生産過程には労働力の価値ではなく、労働力そのものが入っていき、その使用価値が消費されるのである。そして労働力の使用価値というのは労働そのものであるから、それは新たな価値を対象化するという属性を持っている。生産過程で生産的に消費される生産諸手段は、その過程でただ自身が持っている価値を移転するだけだが、労働力の使用価値である労働そのものは新たな労働を対象化させ、新たな価値を形成する。つまり新たな価値の形成とは、可変資本が元来持っていた価値、すなわち労働力の価値の再生産だけではなく、剰余価値をも生産するのである。
  だから最初に投じられる可変資本の価値というのは、この価値が通過する過程の一つの象徴でしかなく、それはもともとはそれだけの価値を持っていたことを表しているが、生産過程で何か現実的な役割を果たすわけではない。ただそれが元来持っていた価値を象徴的に表しており、だから現実の労働が生み出した価値との比較でその変化を推し量ることができるというだけのものである。
  労働力の価値は労働力を生産するために必要な対象化された労働であり、過去の労働、死んだ労働を表す。しかし現実の生産過程では労働力の価値ではなくその使用価値、すなわち生きた労働が現われる。だから死んだ労働に代わって生きた労働静止した量に代わって流動的な量が、すなわち不変量に代わって可変量が現われる。
  そしてその結果が、v、すなわち可変資本の価値の再生産と、プラスm、すなわち剰余価値、あるいは可変資本のvの増殖分Δvが現われるのである。

資本主義的生産の立場から見たばあい、その全過程は、資本価値の自己増殖の運動として現われる。しかしその内実は、労働力に転換された不変な価値の自己運動であり、その自己増殖の運動である

だから「90ポンドの可変資本」という文言は、90ポンドというのはある一定量の貨幣額であり、それが「可変」というのは矛盾した表現だが、ただ表面的に見れば、やはり90ポンドが変化して180ポンドに変わったことになる。同じように「みずから増殖する価値」という文言においても、価値そのものが「増殖」するはずもなく、それはただ表面的にみればそのように見えるというだけのことにすぎない。しかしこうした定式が示している矛盾とは、つまり資本主義的生産に内在する一つの矛盾の表われなのである

労働力が現実の生産過程で、それが価値として持っていた過去の対象化された労働に代わって生きた労働を対象化させ、それを上回る価値を形成することには何の不合理も矛盾もない。しかし資本主義的生産はこうした内在的な関係を覆い隠し、見えなくさせている。それがすなわち「90ポンドの可変資本」とか「みずから増殖する価値」という矛盾した文言として表われているのである。

7.価値変化を純粋に分析するために、不変資本価値をゼロにするという方法は一見するとおかしなことのように思えるかもしれない。しかし資本家はこれを日常的にやっている。利益を計算するために原価を控除すること、それは生産物の価値のうちただ再現するだけに過ぎない不変資本の価値をゼロにしていることと同じことである。

8.もちろん、剰余価値の直接の源泉である可変資本に対する剰余価値の比率(m/v)とともに、前貸総資本にたいする剰余価値の比率(m/C)もまた大きな経済的意義をもっている。後者については第3部で詳細に論ずる。

可変資本を労働力に転換することによって価値増殖するためには、資本のもう一つの部分、不変資本は生産手段に転化されなければならない。可変資本が機能するためには、不変資本が労働過程の一定の技術的性格に応じて適当な割合で前貸しされていなければならない。

化学的な反応を見るときには、当然に容器などの器機を必要とするとしても、肝心の化学的変化の過程そのものの分析においてはその容器等は化学的過程には影響しないとして無視する。不変資本をゼロとするのはそれと同じことである。それらは価値変化になんの影響もないのだから、価値変化だけを純粋に分析するために不変資本をゼロにすることが必要不可欠である。

価値創造と価値変化をそれ自体として、つまり純粋に考察するためには、生産手段は、不変資本のこの素材的な姿は無視される。つまり生産手段の使用価値としての性質などは無関係なものとして見るということである。

それらは、ただそれに労働が対象化され価値が付け加えられる素材的な存在としてあるに過ぎない。現実の価値変化にはなんの影響も及ぼさない。価値にとってその素材的担い手である使用価値はまったく対立的な、排他的な関係にある。だから価値とってその素材の性質は何も問われない。価値の素材的な担い手でさえあればよいのである。

また、同じことはこの生産手段という素材の価値についても言える。ただ、この素材が、生産過程中に支出される労働量を吸収することができるだけの十分な量でありさえすればよい。だからまた、それだけの量が与えられてさえいれば、その価値が上がろうと下がろうと、またはそれが土地や海のように無価値であろうと、それによって価値創造と価値変化との過程が影響されることはない27

27 ルクレティウスの言う「無からはなにものも創造されえない」は、自明のことであり、無からはなにも生じない。

「価値創造」つまり価値は労働力を労働に変換することによって、その労働から生まれる。そして労働力そのものも、現実には人間有機体の一機能であってそれ自体は自然素材によって生み出された存在である。逆説的な言い方だが、価値は無から生まれているのではないと言いたいのだろう。

9.以上の理由で、われわれはさしあたり不変資本部分をゼロとみなす。したがって、前貸しされる資本価値Cはc+vではなく、単なるvに、そしてまた生産物価値C'は、(c+v)+mではなくて、vm、すなわち価値生産物だけとなる

価値生産物=180ポンドが与えられていて、生産過程の全継続期問にわたって流動する労働がそれで表わされるとすると、剰余価値を算出するためには、可変資本の価値=90ポンドをここから引き去らなければならない。1809090ポンド=mという数は、ここでは、生産された剰余価値の絶対的な量を表わしている。

剰余価値の量は、新たに対象化される労働の量(これは労働者の労働の継続時間による)と労働力が本来持っていた価値、すなわち可変資本価値とによって決まる。剰余価値は、可変資本部分の価値変化によって生まれるのだから、それがもとの可変資本に対してどれだけ増殖したかということが問題になる。

剰余価値の比例量、可変資本が価値増殖した割合は、剰余価値の可変資本に対する割合、比率によって分かる。つまり、資本家が搾取する分と労働者が支払われる分の比率である。これはmvmvで表される。また前例の数値だと9090100%となる。

この可変資本の価値増殖の割合、あるいは剰余価値の比率を剰余価値率Rate des Mehrwerts)と呼ぶ28

28 これは、イギリス人が"rate of profits"〔利潤率〕"rate of intrest"〔利子率〕などの語を使うのと同じやり方で、こう呼ぶ。このことは第3部を読めば、剰余価値の諸法則を知れば利潤率も容易に理解できるということがわかるだろう。逆の行き方ではどちらの理解も困難である。

※ 剰余価値率というのは、可変資本の価値の増殖割合だが、利潤率Gewinnrate)も資本価値の増殖割合のことであり、利子率というのも利子生み資本の増殖割合を示している。だからこれらはよく似た比例量と考えることができるだろう。
  ただ利子率は剰余価値率や利潤率とは本質的な相違がある。というのは、剰余価値率も利潤率も剰余価値という可変資本が増殖される量によって規定されている。ただその比較するものが一方は可変資本であり、他方は総資本というに過ぎない。
  利子率というのは貨幣を貸し付けて、それが返済されるときに、付いてくる貨幣額のことである。これは貸し付ける貨幣が、価値を増殖するという使用価値を持っていると考えることから生じる。しかし利子率の高低を規定する根拠はどこにもない。それはただ貨幣市場における貨幣資本(
moneyed Capital)の需給によって決まってくるものだからである。
  利潤率も利子率も、これらはブルジョア社会の表面で現われているものをそのまま見たものであり、資本家たちの眼に直接捉えられるものである。資本家たちは利潤率を基準にして互いに競争しあってより多くの利潤を得ようと生産を行う。また利子率は資本家にとっては固定費であり、前貸資本そのものに含まれたものとして現われる。とはいえ、これらはすべて第3部で論じられることになる。

※ 例えば一般的な利潤率が傾向的に低下することはブルジョア達も分かっていて、彼らは深刻な危惧を抱いていたが、その原因は分からなかった。マルクスは不変資本と可変資本の概念を解明し、利潤を規定する剰余価値が可変資本の増殖によって生じる関係を明らかにすることによって、剰余価値の、よって利潤の源泉である可変資本(労働力)が、資本主義的生産が高度化すればするほど、ますます投下される巨額の不変資本(機械や工場や道具や原料など)に比べて小さくなること、つまり利潤(剰余価値)の源泉そのものが総資本全体に比べて減少するからこそ、総資本に対する利潤(剰余価値)の割合、つまり記号で表すとm/(c+v)において、c(不変資本)が巨額になればなるほどその割合が小さくなるということによって、一般的な利潤率も傾向的に低下することになるのだと明らかにした。
  これは資本主義的生産様式の根本的な矛盾である。なぜなら、資本主義的生産は利潤を唯一の目的とも推進動機ともしているのだから。しかし資本家たちはより多くの利潤を求めて切磋琢磨すればするほど、総資本のうち不変資本部分を拡大して、他方で合理化や省力化などと称して可変資本部分を削ろうとする。つまり利潤の拡大を求めながら、利潤の唯一の源泉である可変資本を少なくしようとする。これはまさに資本主義的生産の本質的な矛盾以外の何ものでもない。

※ 競争は搾取率にもとづいてよりも利潤率にもとづいて決定を下すよう資本家を駆り立てる。彼らが銀行に赴いて金を借りるとすれば、銀行はその資本家が得ている利潤率にもとづいて貸すかどうかの判断をするのであって、搾取率にもとづいてではない。;ハーヴェイ『〈資本論〉入門』202

10.労働者は労働過程の一部分で自分の労働力の価値[AN1] 、すなわち自分の必要生活手段の価値を生産する。

※ 「労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。」「労働力の生産は彼自身の再生産または維持である。」「労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。」「労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。」(第4章第3節「労働力の売買」第11段落)

彼が自分の労働力の価値に等しい価値を生み出す[AN2] といっても、彼は自分に必要な生活手段を直接生産するわけではない。彼は社会的な分業のもとに生産するのだから、彼が生産するのはある特殊な商品(使用価値)、例えば糸という形で、自分の必要な生活手段の価値に等しい価値、あるいはそれらを購入するに必要な貨幣額を生産するのである。

彼が労働日のうちで、この自分の労働力の価値と等しいものを生み出すために費やす部分は、彼が平均して一日に必要とする生活手段の価値の大きさに応じて、あるいはその生活手段を生産するために必要な一日平均の労働時間に応じて大きいこともあれば小さいこともある。彼の平均した一日の生活手段の価値が、対象化された6労働時間を表すとすると、労働者はその価値を生産するためには平均して毎日6時間労働しなければならない。たとえ彼が資本家のためにではなく自分自身のために独立して労働するとしても、事情は変わらない。

1日のうちで、彼の労働力の日価値(たとえば3シリングを生産する部分――労働者が自分自身の労働力の価値に等しい価値を生み出した部分)は、結局は、彼の労働力を購買するために資本家によって支払われた価値部分(可変資本価値)28aをただ補塡するだけに過ぎない。つまり、ある価値を他の価値で償う(それは過去の労働が対象化されたものを、新しい生きた労働を対象化することによって補塡する)にすぎないのだから、この価値生産は実際上、単なる再生産でしかない。したがって、1労働日のうちこの再生産が行なわれる部分必要労働時間と呼び、この時間中に支出される労働を必要労働と呼ぶ29

必要労働時間や必要労働の「必要」というのは、当然、労働者にとって必要なものという意味だが、それは彼の労働がどのような社会形態のもとでなされようと「必要」なものだからそう呼ぶのである。もしそれがこの資本とその世界のために「必要」だというなら、それは労働者の労働こそが、この社会を支えている基礎だということを意味するのである。

※ 労働能力そのものの価値を再生産する――これはすなわち、労働者を消費することを日々反復できるのに必要である労働者を日々生産することを意味する――ために必要な労働時間、言い換えれば、労働者が、彼自身労賃の形態で日々受け取り日々費消する価値を生産物に付加するのに用いる労働時間は、全資本関係が労働者階級の不断の定在を、この階級の継続的な再生産を前提し、また資本主義的生産が労働者階級の不断の現存、維持、再生産を自己の必然的前提とするかぎりは、資本家の立場からしても、必要労働時間である。;『資本論』草稿集⑤61-63草稿112

28a 「資本家によってすでに支払われた」……現実には資本家が労働者にではなく、労働者が資本家に「前貸しする」のだ――F・エンゲルス

「労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現されるとはいえ、契約で確定されている。労働力は、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのである。だが、関係を純粋に理解するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用である。」(全集第23a228頁第4章第3節「労働力の売買」)

29 「本書ではこれまで『必要労働時間』という語を、一商品の生産に一般に社会的に必要な労働時間という意味に使ってきた。」――第1章第1節(価値の大きさを規定するものとして)「社会的に必要な労働時間」(全集第23a53頁)、第3章第2節「社会的必要労働時間」(全集第23a142頁)。

これからは、労働力という独自な商品の生産に必要な労働時間という意味でもこの語を使うことになる。

※ 「必要労働時間」は異なる意味を持たされていると言っても、最初のものは商品の価値の大きさを規定するものであり、今回のものは労働力という独自の商品の生産に必要な労働時間ということである。それらは結局、労働者の生活手段を生産するに必要な労働時間に帰着するのだから、同じ商品の価値の大きさを規定するものという意味では同じものと考えられなくもない。ただ第12パラグラフで明らかになるが、剰余労働に対応する必要労働というのは生きた、流動状態ある労働のことであり、それに対して価値の大きさを規定する必要労働時間というのはすでに対象化された過去の死んだ労働だという違いはある。
  さらに第3部では、ある商品種類が社会的欲望に応じて生産されるために、社会の総労働から必要な部分が支出されるという意味でも「社会的必要労働時間」という用語が使われている。しかしこれも冒頭の商品の価値の量を規定する「社会的に必要な労働時間」と何か違ったものではなく、同じ物をただ違った観点からみているだけとも言えなくもない。

11.労働日のうち労働者が彼の必要労働時間を越えて労働する期間(労働過程の第二の期間)は、労働者にとって必要労働の限界を越えた労苦を強いられるものである。彼にとっては労働力の支出を必要とするが、自分自身のためには何の価値も形成しない。反対に資本家にとっては、まったくの無償で手に入るものであり、無から生まれ出たものであるかのように手に入る剰余価値を形成する。労働日のこの部分を剰余労働時間と呼び、その時間に支出される労働を剰余労働surplus labour)と呼ぶ。

価値というのは単なる労働時間の凝固したものとして把握することは決定的に重要であり、同じく剰余価値の認識のためは、剰余労働が対象化されて凝固したものとして把握することが決定的に重要である。

剰余労働というのは、必要労働がそうであるように、その社会的形態に関わりなく存在する。ただ、その剰余労働が、直接生産者から、労働者から取り上げられる形態[AN3] だけが、いろいろな経済的社会構成体を、たとえば奴隷制の社会と賃労働の社会を区別する

※ 剰余労働がとる形態は種々の経済的社会構成によって異なる。たとえば古代奴隷制社会では、奴隷はその所有者に身分的自由をうばわれ、奴隷がおこなう剰余労働は、農耕やサービス(サービスは元来、奴隷[サーバント]の労働という意味)などの具体的形態でそのまま絞りとられたが、資本主義では身分的に自由な労働者がおこなう剰余労働は剰余価値という対象的な形態で搾取される。;岡崎栄松他『解説資本論(1)118

30 ロッシャー[AN4] は剰余価値や剰余生産物の形成とそれによる蓄積は、労働者からの搾取ではなく、資本家自身の節約のおかげだと主張している。資本家はその節約の努力の対価として、利子を要求するというのだ。それとは反対に、最低の文化段階では弱者が強者から節約を強制されると述べているが、これに対して、マルクスは、この弱者が強制される節約というのは、労働の節約なのか、それとも存在しない剰余生産物の節約なのかと疑問を呈している。

恐らくロッシャーは資本家の利潤や蓄積は彼自身の消費を節約して捻出されると考えており、それに対して最低の文化段階では弱者が強者によってその消費の節欲を強制されるとそれに対比している。つまりロッシャーはブルジョア達を擁護しているのであり、こうしたことを行わせているのは、彼の「ほんとうの無知」であり、資本家弁護論者が持つ、価値と剰余価値との良心的分析がもたらす反ブルジョア的な、あるいは反警察的な結論に対する恐怖からであろう。ロッシャーはトゥキュディデスを名乗ることにより、自分は中立の立場だと言いたいのだろう。

トゥキュディデス(紀元前460年頃-紀元前395年)代表作『戦史』の記述は紀元前411年の記述で終わる。特徴として、同時代の歴史を扱った著作では、特定の国家を贔屓せず中立的な視点から著述していること、政治家・軍人の演説を随所に挿入して歴史上の人物に直接語らせるという手法を取っており、中には裏付けがあるとは思えない演説や対話も入っている。wikiwand

ゴットシェートはドイツの文学者で新文芸思潮を異常な偏狭さで排撃した。彼の名は高慢と鈍感の同義語になっている。(新日本新書版『資本論』369頁 訳注)

1727年から1740年頃の名声は非常に高かったが、チューリヒの大学教授でイギリスのミルトンを模範とすべきと主張するボードマーやブライティンガーと論争をし、それを境としてゴットシェートの名は学問を鼻にかける愚物の代名詞となり、軽蔑にさらされる。wikiwand

12-13.可変資本の価値はそれで買われる労働力の価値に等しいのだから、この労働力の価値は労働日の必要部分を規定している。他方、剰余価値はまた労働日の超過部分によって規定されているのだから、可変資本にたいする剰余価値の比率は、必要労働にたいする剰余労働の比率になる。言い換えると、剰余価値率mv=剰余労働/必要労働 ということになる。

この二つの比率は、同じ関係を別々の形で、すなわち一方は対象化された労働の形で、他方は流動している労働の形で表わしている。

それゆえ、剰余価値率は、資本による労働力の搾取度(Exploitationsgrad)、または資本家による労働者の搾取度の正確な表現なのである30a

※ すでにみたように、剰余価値の率は、単純に、可変資本の大きさをもとにして計算されなければならない、あるいは同じことだが剰余労働/必要労働の比率として表現されなければならない。剰余価値/可変資本という第一の表現では、資本の変分である剰余価値の資本にたいする比率が表現されている。それは価値比率である。必要労働にたいする剰余労働の比率では、可変資本と剰余価値の両価値とも、それら両者をはかる基本比率に還元されている。というのは、二つの価値の比率はそれらに含まれている労働時間によって規定されており、したがってそれらの価値の比はそれらの労働時間の比に等しいからである。剰余価値/可変資本ならびに剰余労働/必要労働または不払労働*/支払労働は、すべて、同じ比率の本源的、概念的な諸表現である。

私は、不払労働/支払労働という表現を、すでに剰余価値率の最初の検討のさいに用いたが、それは用いられるべきではない。というのは、この表現は、労働能力への支払いでなくて、労働量への支払いということを前提にしているからである。不払労働は、ブルジョア自身の用語であって、普通でない超過時間をさしているのである。(『資本論』草稿集⑨339頁「61-63草稿」)

※ 剰余価値は、正確に剰余労働に等しいのであって、その増大は、必要労働の減少によって正確に測られる。絶対的剰余価値の場合には必要労働の減少は相対的である、すなわち、必要労働は、剰余労働が直接に増加されることによって相対的に減少する。必要労働が10時間で、剰余労働が2時間である場合に、いま剰余労働が2時間だけ増加されても、すなわち総労働日が12時間から14時間に延長されても、必要労働は、相変わらず10時間である。しかし必要労働は剰余労働にたいして以前には10:2、すなわち5:1の比率であったものが、いまでは10:45:2の比率となっている。言い換えれば、必要労働は、以前は労働日の5/6であったが、いまではもはや5/7にすぎない。つまりこの場合には、必要労働時間は総労働時間が、それゆえまた剰余労働時間が、絶対的に増大したために相対的に減少したのである。(『資本論』草稿集④559-560頁「61-63」草稿)

30a 剰余価値率は搾取度の正確な表現だと言っても、搾取の絶対量を正確に表現しているわけではない。だから同じ剰余価値率が100%でも、全体の労働時間が長くなると、必要労働もその限りでは長くなり、同時に剰余労働はそれと同程度で長くなる場合、搾取率は同じだからと言って、労働者の負担が同じとは限らない。労働者に対する負担は搾取率よりも搾取の絶対量こそが問題なのである

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この時点では、私たちは労働日の絶対的な長さも、労働過程の期間(日や週など)も、最後にまた90ポンドという可変資本が同時に動かす労働者数も知らない。それにもかかわらず、剰余価値率mvは、それが 剰余労働/必要労働 に転換されうることによって、労働日の二つの成分の相互間の比率を正確に私たちに示している。それは100%である。つまり、労働者は1労働日の半分は自分のために、あとの半分は資本家のために労働したのである。

※ ケアリーHenry Charles Carey1793-1879)アメリカの経済学者。……彼の価値論は、価値は再生産費によって規定されるとしている。そして人間がその欲するものを所有しうる前に克服さるべき自然の抵抗は、道具や機械の改善によって絶えず減少されるから、労働の困難から生まれる価値はしだいに減少し、蓄積された資本は絶えず価値減少するという理由で、資本と労働との調和を主張した。……この調和論を裏づけるのは、彼の人間観――associationの原理によって個人がつながっているとする人間観――であるが、マルクスは、それを最近の経済学にもちこまれたあさはかな考えだと批判している(『経済学批判』237;岩波289頁)。……そして彼の調和論は、実は資本主義の生産諸関係を捨象したブルジョア社会のもっとも表面的な、もっとも抽象的な単純流通のみをみて、自由・平等・労働にもとづく王国をバスティアとともに主張した馬鹿げたものだとしている(『経済学批判』229;岩波277頁)。;『資本論辞典』485-486

15.剰余価値率の計算方法は、簡単に言うと、こうなる。>

まず生産物価値(Produktenwert)全体をとって、そこからただ再現するだけの不変資本価値をゼロに等しいとする。すると残りの価値額は、商品の形成過程で現実に生産された唯一の価値生産物(Wertprodukt)である。

剰余価値が分かればそれをこの価値生産物から引き去ると可変資本である。逆に可変資本が分かれば、残りは剰余価値である。

※ 価値生産物=可変資本(v)+剰余価値(m)

両方とも分かるのであれば、可変資本にたいする剰余価値の比率mvを計算すればよい。

16.やり方は簡単だが、根底にあるなじみのない物事の見方をいくつかの例で練習しておくほうがいいだろう。

※ そこでわれわれは、若干の例を用いて、剰余価値についての、また剰余価値率、剰余価値が増大する割合――剰余価値の大きさを測る尺度――についてのこうした把握を明らかにしよう。これらの例は統計資料から借用したものである。だから労働時間は、ここではどこででも、貨幣で表現されて現われている。さらに、計算に現われるのは、さまざまの名称、つまりたとえば、利潤のほか、利子、租税、地代、等々の名称をもつさまざまの項目である。これらはすべて、さまざまの名称のもとにある、剰余価値のさまざまの部分である。剰余価値がさまざまの階級のあいだにどのように分配されるのか、つまり、産業資本家は剰余価値のうちからどれだけをさまざまの項目のもとに譲り渡すのか、どれだけを自分のためにとどめるのか、ということは、剰余価値そのものの理解にとってはまったくどうでもよいことである。だが、自分は労働しない、物質的生産過程そのものに労働者として加わらないすべての人々が――どのような項目のもとであれ――物質的生産物の価値の分け前にあずかることができるのは、ただ、彼らがこの生産物の剰余価値を自分たちのあいだで分配する場合だけだ、ということはまったく明らかである。というのは、原料および機械類の価値は、資本のうちの不変価値部分は、補塡されなければならないからである。必要労働時間も同じである。というのは、労働者階級はそもそも、他人のために労働できるまえに、まず、自分自身を生かしておくために必要な分量の労働時間を労働しなければならないからである。非労働者のあいだに分配されることができるものは、労働者階級の剰余労働に等しい価値Ⅹだけであり、したがってまた、この剰余価値で買われることができる使用価値だけである。;『資本論草稿集』④277-278頁『61-63草稿』

17.一紡績工場の例を検討する。

※ マルクスがさらに資本論で指摘しているように、資本主義経済のさらなる発展は相対的剰余価値の発達(後述)を促し、それは一層の剰余価値率の上昇につながる。ここで現代の日本の具体的な例を見てみよう。2007年度のトヨタ自動車株式会社のデータを基礎に、柴田努が同社の剰余価値率を計算しているが、それはなんと339.5である。すなわち一労働者の賃金の4倍以上の価値がその労働によって生み出され、3倍以上が資本の利潤となっている計算である(柴田努(2010)『現代の経済学入門』松石勝彦編著 同成社参照)
  もちろんトヨタ自動車と言えば資本主義的生産システムの最先端を行く企業であり、それを日本の労働賃金一般に適用することは危険かもしれない。しかしその柴田努の論文と同じ書のなかで、永田瞬が1970年から2006年までの「労働分配率(付加価値(v+m)に占める貨金(v)の割合)」を財務省の「法人企業統計調査」から作成しているが、それは一つの大企業ではなく平均的規模の法人企業の平均的数値である。それから剰余価値率(m/v)を換算してみると、それは1974年(111.4%)、1975年(77.6%)、1982年(84.5%)、1986年(84.5%)、1990年(102.4%)、1999年(83.2%)、2006年(127.8%)となる(永田瞬(2010)現代の経済学入門(松石勝彦編著)同成社を基に計算)9。すなわち、トヨタのような大企業でなくとも、概ね賃金と同等の価値が資本の利潤となり、さらにそれが上昇する傾向が2000年以降急速に強まっている。

9  2000年代以降、日本企業は正社員の採用を抑制する一方、不安定で低賃金であるアルバイト、パート、派遣、業務請負、契約社員など非正規社員に切り替える傾向にある。そのため、賃金下落が起こり、労働分配率が低い水準(=剰余価値率が上昇する *ミタムラアキラにとどまっているのである。」(永田瞬(2010)現代の経済学入門(松石勝彦編著)同成社)という指摘も重要である。;ミタムラアキラ『はたらくもののメンタルヘルスを『資本論』に学ぶ!!20131月私家版

18-19.剰余価値率を計算する方法に慣れるためのもう一つの例。

ジェーコブは、1815年について、1クォーター当たり80シリングの小麦価格、  1エーカー当たり22プッシェルの平均収穫、したがって1エーカーは11ポンド・スターリングをあげるものと仮定して、次のような計算を与えている。

つまり農業労働者は1労働日の半分より多くを剰余価値生産、つまり借地農業者のために働いているということになる。そして、この剰余価値に寄生する階級が、資本家からいろいろな口実のもとに分け与えられる31a

31a ここにあげた計算はただ例解として通用するだけである。つまり、価格と価値が一致するという想定のものだからでる。こうした前提は現実には合致しない。第3部でわかることだが、実際にはこの等置は、平均価格についてさえも、このような簡単なやり方でもむずかしい。

     3部では市場にある商品の価格は、価値を中心にではなく、生産価格を中心に変動するのであり、したがって市場価格の平均価格は生産価格になるのであり、価値にはならない。生産価格は価値とは乖離したものである。しかし乖離しているといっても生産価格は価値なしには説明不可能なものであり、価値が内在的にあるからこそ生産価格もまた成立する。生産価格というのは諸資本の競争によって一般的利潤率が形成されるなかで、社会的に生産された総剰余価値を諸資本が競争のなかでそれぞれの資本の大きさに応じて分け合うための価格である。詳しくは第3部で展開される。



 [AN1]対象化された労働が生きた労働と交換される割合――つまり労働能力の価値と資本家によるこの労働能力の利用〔Verwertung〕との差――は、生産過程そのもののなかではそれとは別の形態をとる。すなわちここではそれは、生きた労働そのものの、どちらも時間によって測られるニつの分量への分裂として、またこのごつの分量の割合として、表わされるのである。つまり、第一には、労働者は自分の労働能力の価値を補塡する。かりに、彼の日々の生活手段の価値が10労働時間に等しいとする。彼がこの価値を再生産するのは、10時間労働することによってである。労働時間のうちのこの部分を、われわれは必要労働時間と呼ぶことにしよう。というのは次のようなわけである。かりに、労働材料および労働手段が――対象的な労働諸条件が――労働者自身の所有物であるとしよう。この場合、前提によって、彼が10労働時間分の生活手段を日ごとに取得できるためには、自分自身の労働能力を再生産できるため、生存し続けることができるためには、彼は日々10時間労働しなければならず、労働時間10時間の価値を日々再生産しなければならない。彼の10時間の労働の生産物は、加工された原料と消耗された労働用具〔Arbeitswerkzeug〕とに含まれている労働時間、プラス、彼が原料に新たに付加した10時間の労働、に等しいであろう。彼が自分の生産を続けようとするならば、すなわち自分のために生産諸条件を維持しようとするならば、彼が消費できるのは、この生産物のうちのあとのほうの部分だけであろう。というのは、原料および労働手段をたえず補塡しうるためには、すなわち、10時間の労働の実現(充用)に必要なだけの原料および労働手段が日々新たに自由に使えるためには、彼は日々、原料と労働手段との価値を自分の生産物の価値から控除しなければならないからである。労働者の平均して日々必要とする生活手段の価値が10労働時間に等しい場合には、自分の日々の消費を更新すること、また労働者として必要な生活諸条件を手に入れることができるためには、彼は日々、平均して10労働時間、労働しなければならない。彼自身が労働諸条件――労働材料および労働手段――の所有者であるかないか、彼の労働が資本のもとに包摂されているか包摂されていないか、ということをまったく度外視しても、この労働は彼自身にとって、彼自身の自己維持のために、必要であろう。労働者階級自身の維持のために必要な労働時間として、われわれは労働時間のうちのこの部分を、必要労働時間と呼ぶことができるのである。;『資本論』草稿集④『61-63草稿』269-270

 [AN2]  賃金に支出される資本部分は、(剰余労働を度外視すれば)新たな生産によって補塡される。労働者は賃金を消費してしまうが、しかし彼は、彼が旧労働量を消滅させてしまったのと同じだけの新労働量をつけ加える。そして、われわれが分業によって迷わされることなく全労働者階級を考察するならば、労働者は同じ価値を再生産するだけではなく同じ使用価値を再生産するのであり、したがって、彼の労働の生産性に応じて、同じ価値、同じ労働量が、この同じ使用価値のより多くの量または少ない量をもって再生産されるのである。;『資本論』草稿集⑤112

 [AN3]  〈不払剰余労働が直接生産者から汲み出される独自な経済的形態は、支配・隷属関係を規定するが、この関係は直接に生産そのものから生まれてきて、それ自身また規定的に生産に反作用する。しかしまた、この関係の上には、生産関係そのものから生じてくる経済的共同体の全姿態が築かれ、また同時にその独自な政治的姿態も築かれる。生産条件の所有者の直接生産者にたいする直接的関係――この関係のそのつどの形態は当然つねに労働の仕方の、したがってまた労働の社会的生産力の、一定の発展段階に対応している――、この関係こそは、つねに、われわれがそのうちに社会的構造全体の、したがってまた主権・従属関係の政治的形態の、要するにそのつどの独自な国家形態の、最奥の秘密、隠れた基礎を見いだすところのものである。このことは、同じ経済的基礎――主要条件から見て同じ基礎――が、無数のさまざまな経験的事情、すなわち自然条件や種族関係や外から作用する歴史的影響などによって、現象上の無限の変異や色合いを示すことがありうるということを妨げるものではなく、これらの変異や色合いはただこの経験的に与えられた事情の分析によってのみ理解されるのである。〉 (全集第25b巻1014-1015

 [AN4]〈ロッシャー Wilhelm Georg Friedrich Roscher (1817-1894) ドイツの経済学者. ……彼が究明しようとする歴史的発展法則なるものの概念が,いかに科学的な吟味にたええないものだったかは,彼のいわゆる〈経済発展段階説〉をみるだけでも,たちまち明瞭になる.すなわち,彼は生産の要素を自然,労働,資本の三つとなし. そのうちのどれが優位を占めるかによって,経済発展段階を(1)自然に依存する原始段階. (2)労働を主とする手工業段階. (3)機械の使用が支配的となる大工業段階の三つに区分するのであるが.このような段階区分は,少しも真の意味の歴史的発展,すなわち人間の社会的諸関係の発展をあらわすものではない.それにもかかわらず,彼の大著がたんにドイツ国内でだけではなく,多くの外国語に翻訳されて,海外(ことにアメリカ)でもひろく読まれたのは,それが古典学派にたいして理論的にあらたなものをふくんでいたからではなく,古典学派が研究の対象としたよりもはるかに広大な領域(たとえば学説史,社会政策,植民政策等々)にわたる雑多な知識にもっともらしい学問的粉飾を施していたからにすぎなかった. しかし,その影響がこのようにひろい範囲に及んでいただけに,マルタスは.ロッシャーのやり方を当時の俗学的態度の見本としてやっつける必要を痛感しており. 1862616日づけのラサールあての手紙では,ロッシャーの〈折衷主義〉を口をきわめて罵倒し. その非科学性を暴露することの必要と意図とを述べている。〉 (『資本論辞典』586-587)

第7章第1節PDFファイル ↓
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